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「……分かってるよ」
「分かってねェだろ」
「分かってるよ…分かってるけど……」
「お前にはもう少し理性ってのがねェのか?」
広い部屋に二人きり。異様な光景といえばそれに近い。
咲来はもうそろそろベッドに潜っている頃だろう。
「おれはまだ咲来を手放したくねェんだよ…」
「あいつがそれを望んでもか?」
「………」
咲来と出会ってから十日を超えた。でも一緒に過ごしたのはたったの三日ほど。
ちょっと足りないどころではない。全然足りないのだ。この船のやつらはキッチリ一緒にいたかもしれないが、自分はその半分にすら満たない。
足りないと思っても当然だと思う。
こんなに早く帰る話が浮上するとは思わなかった。
確かに自分が留守にしている間に帰ってるかもしれないとは思ったけども、毎日のように通話で「今日もダメだった」という言葉を聞いているうちにまだまだ先のことだと勝手に思っていた。
それがどうだ。咲来のような存在を知る人間がこの世界にいたことで、急に現実的な話になってきた。
あの時あの場所であいつとすれ違わなかったら――なんて、確率論を唱えたところで仕方がない。もう過ぎた話だ。
「咲来がおれから…離れたいって、思うかな」
「なんだそりゃ……否定して欲しいのか?」
過ごした時間を人生の長さで換算したらそれは確かにとても短いけども、振り返ったときに大事な出会いを数えるとしたら、あいつはその中に食い込んでくると思う。
常に存在すら疎ましく思われるおれを、好きだと言ってくれた人。
おれと一緒にいる時間を、“幸せ”だと形容してくれた人。
あいつが「帰りたい」と言った時はショックだった。咲来なら、おれが頼んだら頷いてくれると心のどこかで思っていた。
でも考えてみれば、そんなに軽いことじゃない。咲来が不安を抱えながらここにいたことくらい知っていた。頭で分かってはいた。
「火拳屋……たった数日でそこまでのめり込むのには理由があるんだろうが、お前は少し行き過ぎてる」
「!」
「それを咲来が気付いてないとでも思ってるのか?
あいつが帰りたがってるのは、お前のためでもあるだろう」
「……おれの…」
「ペンギンから聞いた話だが…これから先、咲来には見たくないストーリーがあるそうだ」
「! え…」
水の入ったグラスを傾けながらトラ男が話し始めたのは、おれがいない間の出来事。
直接聞いたわけではないとのことだが、いずれ訪れるであろう未来に咲来にとって嫌なものがあるらしい。
「だからおれは引き止めても無駄だと踏んでる……帰り方が存在する可能性が出てきた今、あいつが帰ることはほぼ決定と見て良いだろう」
「……」
「まさか十日足らずでこうなるとは思っていなかったが…変に離れ難くなるくらいならこの方が良い。
一緒にいたいと思うのは良いが、あまり入れ込むようなら早めに離れるのも手だと思うが?」
最後の一口を流し込んでトラ男が立ち上がったのを見て、おれも静かに立ち上がる。
そいつの言い分に返せる言葉もなかった。
「咲来…寝たか……?」
暗い廊下を真っ直ぐ、借りてる部屋のドアをゆっくり押し開ける。
遠慮がちに言った言葉にベッドの上で丸まっていた咲来が反応した。
『まだ起きてるよ…』
「悪い、起こしたか?」
『ううん』
謝りつつも、返ってきた声に安堵する自分がいる。
手探りで部屋を進んで、二人で寝るには少し狭いベッドに潜り込んだ。
「咲来」
『ん…?』
抱き寄せれば抵抗の一つも見せず大人しく腕に抱かれる咲来。
過ごした時間なんて関係ない。自分にとっては、大切な人の一人。
『どうしたの……?』
手放したくない。――手放したくない。
“あいつがそれを望んでもか?”
「咲来」
面と向かってお前がおれを突き放したら、おれは一体どんな表情をするのだろう。
君は何も言わずに、おれの胸に顔を埋めた
(このまま、時が止まれば良いと思った)
END.
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