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「恋を知らないで今までよく“王子様”なんてやってこれましたね!」
『…あら姫、いらっしゃい』
「誰が姫だ」
無数の猫が部屋のあちこちから僕の様子を窺っている。
猫の遊び道具とソファしか置かれていないこの部屋はまさに猫のための部屋。
その真ん中に設置されたソファに横たわり、何匹もの猫に囲まれている人物がゆっくりと目を開けた。
『わたしを王子と呼ぶ人はみんなお姫様よ』
「…それはそれは。事情を知ったら貴方に本気で恋をしてる姫達が悲しみますね」
『……』
体を起こした“王子様”こと沙月に近付くと彼女の周りにいた猫が一斉に避難した。
唯一残ったのは、沙月が抱えた彼女の顔のすぐ傍で寝ていた猫。グレーの毛色をしたその猫が大きな瞳で僕を見る。
「その子、まだ小さいですね」
『最近来たばかりなのよ』
「…あ……耳が…」
沙月に撫でられ目を細めたその子は、よく見たら片方の耳が無かった。
「うちで預かった時にはもう無かったの」と沙月が猫を見つめる。
『何で無いのかは結局分からなかったけど…別に問題ないわ。野良なら苦労したかもしれないけど、うちにいる分には関係ないから。
可愛いでしょう?』
沙月が子猫を抱いてこちらに見せてくる。彼女の言う通り、その子はとても愛らしかった。
言いっぷりを聞く限り、この猫は片耳の状態で捨てられていたのだろう。
ここは都会とは少し離れた場所にある動物保護施設。
沙月の働いているこの場所には、その特性上この子のような訳アリの子が多い。
沙月をこちら側へ引き入れるまで何度か足を運んだが、その中で体が不自由な動物や飼い主から傷付けられた動物をたくさん見てきた。
動物が大好きな彼女はここで他の職員と共に身寄りのない動物達の世話をしている。新しい飼い主を見つけて送り出すこともあるそうだ。
対象こそ違うが、何かを守りたいという強い気持ちとそれに取り組む姿勢は沙月を協力者として誘う決め手の一つだった。
子猫を抱いたまま「ちょっと待ってて」と言った沙月は、部屋の隅に置いてあったケージを持ってくるとその子を中に入れた。
「連れて行くんですか?」
『この後すぐ検査があるから。…それで、今日は依頼の話だったわね?』
「はい」
時計の針は12時40分を指す。沙月にとっては昼休み中。
貴重な休み時間を潰すことは申し訳なかったが、僕にはこの時間しか空いていなかった。
場所を移動するため沙月が猫部屋の鍵を閉めた数秒後、ふと携帯電話のバイブ音が鳴って胸ポケットに手を当てる。が、僕のではない。代わりに隣にいた沙月がスマホを取り出すと、「その子と少しだけ待っててもらえる?」とケージを床に置いた。着信だったらしい。
その様子を見ていたのか、小さな籠の中で子猫が「にゃあ」としきりに鳴き始めた。まるで沙月のことを呼んでいるかのように。
「心配しなくてもすぐ戻って来るよ。
…可愛がられてるんだな、お前は」
親猫を呼ぶように鳴き続ける子猫に思わず話しかけてみたが、僕の声で鳴き止むことはなかった。沙月に懐いてることがよく分かる。
最近来たばかりというなら彼女も特に気にかけているのだろう。この子を甘やかす沙月の姿が目に浮かぶ。
「……いいな、沙月に可愛がってもらえて」
『何か言った?』
気付けばすぐそこまで戻って来ていた沙月が僕に声を掛ける。
「なんでもないですよ」と立ち上がった僕に、彼女は短く「そう」とだけ答えて静かになったケージを持ち上げた。
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