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「ちょっと沙月、そこの壁際に立ってくれません?」
『嫌な予感がするんだけど…』
「大丈夫ですよ。大したことはしないので」
にっこり笑う安室に顔が引き攣る。自分で地雷を踏みに行ったことはその笑顔を見れば分かった。
閉店も近いし明日も仕事だからあんまり長居をする気はないのに、そう目で訴えても“お前が言いだしっぺだろ”と言わんばかりの安室に黙って口に運びかけていたスプーンを置く。言いだしっぺは正確に言えば「トリックオアトリート」などと言った彼の方だとは思うが、そういうことを言うとさらに面倒なことになりそうなので言わない。
指示通り壁際に立つと、当然のことながら店内の人の視線を集めた。
隣のテーブルにいた蘭さんとコナン君はもちろん、入口近くの席で団欒していた女子高生らしき女の子達や店員の梓さんまで。
人前だから“大したことはしない”だろうが、良い顔でじりじり迫ってくる安室に少しだけ心配になった。
「…これじゃイタズラにはなりませんかね?」
――ドン!
音が鳴るように大袈裟に、安室が私の頭のすぐ横に手をつく。
女子高生のいた方向から歓声と悲鳴の中間みたいな声が聞こえた。
『……。注文特典にしたらだいぶ儲かるんじゃないかしら?』
「そうですかね?」
『わたし相手じゃ無駄になるだけだから勿体ないわね…』
至近距離にいるせいで視界には安室しか映らない。
彼の思いついたイタズラとはこのことだったらしい。一昔前に流行った“壁ドン”というやつか。
イケメンにしか許されないイタズラであるあたりが腹立たしい。もちろん私が相手だから許可なくやってのけたのだろうし、希望でもされない限りセクハラにあたるかもしれないから他人にはやらないと思うが。
まあ、希望者を募れば大量に人が集まるであろうことは想像に容易いのでそれはそれで腹立たしいところ。
そんな腹立たしい安室はさぞかし腹立たしいドヤ顔でもしているのだろうと思ったが、目を向けた先にあったのは思いのほか悲しそうな顔をした彼だった。
ただのイタズラのくせにその青い瞳があまりにもこちらをまっすぐに見つめるから、吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまう。
『(他の人には…やって欲しくないと)』
そう言って欲しいのだと彼の視線から読み取れる。言える状況ではないことを互いに知っていながら。
目の前の彼は何かと私にそういった類の言葉を望むことが多いが、この場所でその願いは叶えてあげられない。
シンと静まった店の中、変わりそうにない状況を見て最初に動いたのは私だった。
「! わっ」
頭の横にあった手を思いっきり払い除け、同時に安室の足に自分の足をかける。
柔道の大内刈りの要領で安室の体を反転させると、そのまま彼を壁に押し付けた。
『悪いわね…。されるよりもする方が性に合ってるの……』
「…!」
一瞬で立場が逆転し、女の子達がまた声を上げる。
左腕でバランスを崩した安室を支え、右腕は壁に。これも壁ドンのうちに入るのかは分からないが、距離が近いことには変わりない。
珍しくぽかんとした顔で数秒間固まった安室が、ワンテンポ遅れて私の胸ぐらを掴んだ。
「やり返してくれるとは思いませんでしたよ」
『…まあ、気まぐれで貴方のそんな顔が見られてラッキーってところかしら』
ぐっと引き寄せられて一気に数センチまで距離が縮む。
悲鳴の代わりに、周りからはごくりと息を呑む音が聞こえた。
「…さてと。
思ったより皆さんの反応が良かったので、イタズラはこのくらいにしておきましょうか」
「い、今のって私達へのイタズラだったんですか!?」
「そうです。びっくりしてくれました?」
『つまらない茶番だわ…』
安室が手を離し、続けて私も手を離す。そのまま振り返ることなくもともと座っていた席に戻った。
“ネタばらし”を受けた梓さんが「びっくりしましたよ〜!」と彼女らしいオーバーなリアクションをして見せ、女子高生達がホッとしたような顔で団欒の続きを始める。蘭さんは隣で「さすが王子様…」と呟いた。
『(みんなへのイタズラ……ね)』
――よく言うわ。
咄嗟に考えたにしてはもっともらしく、最も丸く収まる言い方。結果的にそうなったものの、あんな突発的に始まったものに打ち合わせなどありはしない。
安室が自己満足のために勝手に始め、私が勝手に返事をしただけ。“ネタばらし”がそれを隠すための言い訳であることに気付く人は何人いるだろう。
ケーキの準備に取り掛かった安室を横目で見ながら、彼の言葉を思い返す。
簡単なことだ。最初に言っていたじゃないか。
――“あれは沙月だから試しに言ってみただけです”
『(…あの人がこの場でトリックを仕掛けるのは、)』
間違いなく、私にだけ。
Trick or Treat!
(人前で余計なことはしないんじゃなかったの?)
(今日しか使えない手だったものですから…)
END.
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