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「お、いい匂いする」
ドアを開ければチョコレートの香り。
リビングにいた沙月が僕を見て「おかえり」と言ったので、「ただいま」と返してから両手に持っていた紙袋をテーブルに置いた。
「もしかして今作ってたのか?」
『今日は来るの分かってたからね…』
ふと目を向けたキッチンには泡立て器が立てかけてあるボウル、その傍には計量カップと小麦粉の袋。見るからにさっきまで料理をしていましたと言わんばかりの品々。
作業中らしいのでひとまず上着を脱いで椅子に腰掛けて待っていると、「お待たせ」と言って沙月が皿を持って来た。
『これ、わたしからのお返し』
向かい側に腰掛けた沙月が柔らかく微笑む。
3月14日。ホワイトデー。
世間では主にバレンタインのお返しとして男性が女性にプレゼントを贈る日だが、僕らの場合は少し違う。
恋愛感情を抱いてからこの日を迎えたのは初めてだが、やっていることは知り合った時から変わらない。当時は沙月が僕にバレンタインチョコをくれるとはとても思えなかったので、料理好きな僕がビジネスパートナーの沙月にチョコを作って持っていったところ、沙月も用意していてダブったのが始まり。
バレンタインにお互い受け取り、ホワイトデーにお互い返す。気がついた時にはそういうイベントになっていた。
「フォンダンショコラか…また手の込んだものを…」
『せっかくだから家で食べるものにしようかと思って』
目の前に用意された皿にはチョコレートのケーキがひとつ。生クリームも添えられている。
皿と共に用意されたのがスプーンだったことからも予想していたが、ケーキを割ると中からチョコレートがとろり。なかなか作るのが大変な代物だ。ここまでスペックが高い上に料理も上手いなんて、沙月は本当に万能な人間だとつくづく思う。
「いただきます」と挨拶をしてからスプーンに乗せたケーキを口へ運ぶと、程よい甘さが口の中に広がった。
「ん、美味しい!」
『…それは何より』
「僕のも受け取ってくれ。普段あんまり作らないものにしてみたんだ」
持ってきた紙袋の中から、すぐ開けると分かっているのにわざわざ丁寧に包んできた沙月へのプレゼントを取り出す。去年までと違って今回は特別気合いを入れてきた。
リボンを解く沙月をドキドキしながら見守る。人への贈り物で緊張するなんていつぶりだろう。
中から出てきた箱の中身を確認すると、彼女は少しだけ驚いたような顔をした。
『…キャンディ?確かに気軽に作ろうとは思わないわね…』
「割と可愛く出来てるだろ?ホワイトデーのお返しで、キャンディは…」
『“貴方が好きです”…だったかしら?』
「……なんだ、知ってたのか」
つまらない、と口を尖らせると沙月は軽く笑った。両思いだと分かってから初めてのホワイトデーだからと考えて用意してきたのに、こうもあっさり見破られると楽しくない。沙月はこの見た目で恋愛に酷く疎いクセに、こういう知識だけはある。どうせまた周りの女の子に聞いたのだろう。
そんなことを思っていたら、案の定「前にお客さんから聞いたわ」と沙月が零した。それもまた彼女がモテモテなのがありありと分かって嫌だったけど、次に紡がれた言葉で瞬時に傾いていた機嫌が直る。
『まさか他の子にも同じものをあげてないでしょうね?』
「…ここまで言っておいてあげるわけないだろ」
普段沙月が滅多に見せてくれない嫉妬の色。その言葉と表情に満足して、「お前以外にはクッキーを焼いたよ」と笑いかける。
人生でこんなにも真面目にホワイトデーのお返しを考えたのは初めてだった。
『“友達でいましょう”…ね。その意味抜きで食べてみたかったわ』
「ちゃんと持ってきたよ。食べるか?」
『…あら、さすがね』
沙月の言葉や笑顔がいつもより柔らかい。
こんなに甘いホワイトデーを過ごすのも、僕には生まれて初めてだった。
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