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沙月がまたポアロに来てくれる。


初めて来てくれてからしばらくが経った。メールをくれたのは今日のお昼ごろ。
今日はこっちで営業の仕事があったからその足でここに向かうと。ちょうどシフトの入っている日で良かった。

恋だと自覚して、本人にバレて、なんとなく受け入れてもらって。
付き合えはしないけど今のところ順調だった。少なくとも悪い方向に転がる感じはなかった。


だからこの後、事件が起こるなどとても予想していなかったわけで。




「いらっしゃ……あ、」


「いらっしゃい、沙月」


『こんにちは』




予定通りの時間に来店した沙月を見るなり「この前の美人さん!」と梓さんが声を上げ、沙月が苦笑いする。
そういえば勝手に僕が紹介しちゃったけど、梓さんと話すのは初めてか。

「階川沙月です」と沙月が挨拶をして、梓さんも「榎本梓です」と会釈する。
「美人に美人と言われてもね」と色気混じりに微笑んだ沙月は相変わらずで、“王子様”でなくとも彼女に変わりないことを再確認した。




「さ、さすが安室さんのお友達ですね…!わたし今ちょっとドキドキしちゃった…」


『あら、こんな人と同じにしないで欲しいわ』


「おい、どういう意味だ?」


『女の子をすぐ下の名前で呼ぶ男って、一番信用できないでしょ?』




席に案内する途中でそんなことを言い始める沙月は、この前の僕に対し「はしゃぎすぎ」と釘を刺していた。
あからさまに仲良く見えるので、あまりお客さんの前では普段のように接して欲しくないと。
だから今日は少し冷たいらしい。まあ、今日だけじゃあんまり意味がないからこの先も続くかもしれないが。

沙月とはかなりダラダラとした付き合いなので別にそれくらいどうってことない。本気じゃない口喧嘩くらいいくらでもしたことがある。
そっちがその気なら応戦してやると、この時はそう考える余裕があった。そう、この時は。




「それを言うならお前だって女の子を……って、あ、お前も女の子だったか…」


『残念ながらそのようね』


「何言ってるんですか安室さん、どこからどう見ても美女じゃないですか!」


「いや、沙月が女だって認識がなく…て……」




メニューの準備をしつつ“安室透”としては控えている失礼極まりない言葉を並べていたら、「それ」は偶然目に入った。
僕の知る階川沙月という人間には似つかわしくない、仕事でも家でも一度も見たことのない「それ」。


長く細い右手の薬指にキラリと光る、見慣れないシルバーリング。




「…僕に何か言うことがあるんじゃないですか?」


『何のこと?』




メニューを広げ始めた彼女の右手の「それ」は、シンプルなデザインとは裏腹にやけに目立っているように思えた。

沙月がプライベートで出掛けるときにアクセサリーをどの程度身に付けているかは知らない。
少なくとも今身に付けているのは、ネックレスとイヤリングと「それ」の3つ。指輪なんてしたければ他の指でも良いだろうに、わざわざ薬指。左手ではないものの、薬指。何か意味があるのではないかと疑ってしまう。


僕の言葉に沙月は「書類ならもう少し待って」と、「それ」とは無関係な仕事の話をしてきた。指輪についてはノーコメント、もしくは分かっててシラを切っているか。
察しの良い沙月のことだ、僕の言葉の意味が全く分からないなんてことはないだろう。大体、書類のことならもっと単刀直入に聞いている。内容にさえ触れなければ変にぼかす理由がない。

それともまさか本当に何の意味もなく薬指にはめたのか?
確かに沙月は恋愛に疎いかもしれないが、本人がモテるから知識はそれなりに持っているはずだ。
それなのにわざわざ薬指に、しかも今日僕に会うと分かっているのに。…待てよ、もしや喧嘩のネタか?でもそうだとしたら逆効果な気がするし、話を振ったのに言ってこない時点で違うか。


数分間あれこれ思考を巡らせたが、悩んだところで答えが分かるはずもなく。
最終的には沙月を睨みつけ、「ご注文が決まったらどうぞ」と不愛想に吐き捨てる結果になった。




「安室さん、機嫌悪いんですかね?前回来てくださった時はすごく良かったのに…」


『安室が気分屋なのは今に始まったことじゃないから…榎本さんが気にすることじゃないですよ』




カウンターへ戻る途中、梓さんと沙月の会話が聞こえる。
その後もイライラしていた僕は、せっかく来てくれたのに最後の「ありがとうございました」まで彼女と会話することはなく。


店を出ていくその瞬間も、彼女の指で「それ」は鈍く輝いていた。







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