3文字の羅列






「なあ、ちょっと下の名前で呼んでみてくれ」


『…は?』




ポアロから持ち込んだ本日の夕飯はナポリタン。
もう22時を回っているから、夕飯と呼ぶには遅いけども。

沙月がせっかく仕事終わりにポアロに寄ってくれたのに急な再出勤でトンボ帰りしちゃったから、せめてもと思いポアロで夕飯をこしらえて彼女の家まで届けに来た。でも僕が着いた頃に沙月はまだ帰ってきてなくて、仕方がないので合鍵で部屋に入り勝手にキッチンを借りてサラダを作った。それでも帰ってくる気配がなかったので、後片付けをしてから勝手に風呂も借りた。

ゆっくり風呂に入ってたらようやく連絡が来て、生乾きの髪をタオルで拭きながらバイクの音を頼りに沙月を出迎える。
家主に向かって「おかえり」と言うのは最初は違和感があったけど今は慣れたものだ。沙月が僕に「いらっしゃい」じゃなくて「おかえり」と声を掛けるから自然とそうなったわけだけど、家族のいない僕にとってそのやりとりはくすぐったくて温かい。


そんな近しい間柄でもある仕事仲間の沙月が、僕の言葉に温かみの欠片もない反応をする。
仲が良いからこそなんだろうけど僕以外に見せる人あたりの良さは何処へ行ったのか。本当に落差が酷い。
同じ態度でお客さんに接したら泣かれると思う。

まあ、でも気持ちは分かる。冷たい反応も予測していた。
しかしいきなりこんなことを言い始めたのにはちゃんと理由がある。




「お前、コナン君の前で僕のこと“透”って言っただろ」


『…?いつ?』


「忘れたのかよ……ほら、僕より前にコナン君に会ってたとき」




沙月が僕を気に掛けてポアロに来てくれていたらしい日。
僕はシフトが入っていなかったので店にいなかったが、沙月は偶然会ったコナン君とお茶をしてから帰ったと後で知った。前々からその件が気になっていて、今日ついにコナン君から詳しい話を聞けたのだ。


どうやらその日沙月が店の前でナンパされていたのをコナン君が助けてくれて、そのお礼にと彼女は彼にケーキを御馳走したらしい。
ナンパされていたことも気になるが、こいつのこの容姿なら仕方ないだろう。されて欲しくはないが。
僕が問題にしてるのはこの後の彼女の発言である。彼女にとっては記憶から飛ぶ程度のことだと思うが、僕にとっては大きなことだった。




『ああ…あれのこと?…名前確認しただけでしょ?』




思い出したらしい沙月がやや呆れたような声で答える。


そう。
沙月はあの日コナン君に、「“安室”って“透”のこと?」と僕について確認したらしい。

「安室」なんてそうそういない名字だと思うが、万が一ってこともある。念のためを思い彼女はフルネームで確認したのだろう。
いや、今はそんなことはどうでもいい。沙月が僕を下の名前で呼んだ、この事実が重要である。

知り合った当初は「安室さん」、協力者になってからは「安室」。たまに本名で呼ばれるときは「降谷さん」。
家では例外で「ゼロ」と呼ばれるが、それは友達からはそう呼ばれてたと伝えて沙月が合わせてくれてるだけ。彼女が自主的に呼んだものではない。

だから彼女の口から僕の下の名前が出ることはまずないし、頼んでも出てくるかどうか怪しい。
そんなレアな言葉が僕のいないところで知らない間に発せられたのである。彼女に好意を寄せている今、それが最高に悔しかった。




『そもそも本名でもないのに…』


「いいから。お前に呼ばれてみたい」


『よく分からないけどなんか嫌だから却下』




スッパリ。
何の躊躇いもなく言い切った彼女は「さっさと食べて寝るわよ」と中断していた夕飯の続きを食べ始める。


…くそ、やっぱダメだったか。男のことを名前呼びするタイプじゃないから無理だとは思ってたけど。
仕事の命令はきちんと聞いてくれるが、私生活でのお願いはもちろん沙月の気持ち次第。ただの友人関係に上も下もない。
歳は僕の方が上だけど、良い意味で沙月はそういうのを気にしないから言いたいことはズバズバ言ってくる。嫌なものは嫌、できないことはできない、と。

そのさっぱりした性格は気に入ってるんだけど、一言名前呼ぶくらい良いじゃんか。なんて思ってしまうが、こいつがそういうのを嫌がりそうなのは確かだから口には出さない。
男から「名前で呼んで欲しい」ってあからさまだもんな。普段も面倒なことになりたくないからって理由で“サービス”は女の子にしかしないし。
でも僕に気があるなら例外でしてくれてもいいと思うんだけど、とも思う。




『何?』


「……別に。美味しい?」


『ええ。貴方の料理はいつも美味しいわ』


「…っ」




じとっと見てたら何かと尋ねられたから、適当に返したらこの返事。
そういうとこ。そういうとこだよ、お前がモテるのは。不意打ちを食らって思わず顔を背ける。
意識的にやってるわけじゃないからこれは“サービス”に入らない。それが余計にタチ悪い。

気を紛らわせるために残ったパスタを一気に掻き込んでいたら、「ところで」と沙月が口を開いた。




『明日は何時に警視庁?朝、多分合わせられると思うんだけど』


「あー…明日、警視庁じゃないんだ」


『…え?』


「その、今日は沙月に夕飯届けようと思って来ただけで…。
……やっぱ、私用で来ちゃまずかった?」




逸らしていた視線を恐る恐る沙月に戻す。

何も起きない関係であることを前提に契約したとはいえ、沙月が女の子である以上は仕事都合でもない限りここへは来なかった。別にそう約束してたわけじゃないけど、暗黙の了解というか、普通に考えていくら仲が良くてもこの年齢で理由もなしに異性の家に泊まりに行くのは気が引ける。
仕事だと割り切ってたから沙月はここへ連れてきてくれたわけで、僕も今まで特に疑問を持たず押しかけていた。

でも今日は仕事じゃない。僕が沙月に夕飯を届けてあげたかった、ただそれだけ。
やっぱりまずかっただろうか、と。動きを止めた沙月を見てそう思う。
どう足掻いたって僕らは大人の男女。それは覆らない。その上僕に少なからず下心があるのもバレている。夕飯を届けたかっただけなら泊まらずに帰ればいい、その通りだ。好きで帰ろうとしていないだけだ。


返事待ちで黙り込んでいたら、ふっと沙月が笑った。




『…まあ、男の人なら男友達の家に泊まりに行くのはそんなに珍しいことじゃないでしょうね。女子はいろいろ面倒だからあまりしないけれど』


「!」


『でもわたしが原因で貴方の睡眠時間が減るのはいただけないわ』




――こんな時間までわざわざ食べずに待ってるのもね。
空になった僕の皿と自分の皿を重ねて沙月が台所へと向かう。




『片付けておくから、貴方はさっさと寝ちゃいなさい。
朝合わせられそうなら送ってくわ』


「あ……うん。沙月と一緒に出れば間に合うと思う。…ありがとう」


『いいえ。…ああそうだ、寝る前に』




席を立つ僕を振り返った沙月が引き留める。

視線が交わった彼女の顔は、いつもと何ら変わらなかったけれど。




『ごちそうさま。…おやすみ、透』




薄い笑みと共に溶けたその一言は、いつまでも脳裏に反響していた。






3文字の羅列


(…ねれない)




END.







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