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――
「それじゃー、乾杯!」
──チン。
二人しかいない静かな部屋で、グラスのぶつかる音が小さく響く。
「仕事終わりのビールは最高だな〜!」
『…おっさん』
「あー、それ酷い」
風呂上がり、肩にタオルをかけたまま座った目の前の彼がぶすっとむくれる。上機嫌に安物のビールを煽る安室は年齢からしてもおっさん以外の何者でもないと思うが。
酒ではなくオレンジジュースが注がれたグラスを傾けながら、29歳には見えないその綺麗な顔を眺める。
仕事柄外で思い切り飲めない彼は、うちで私と酒を飲むのが楽しいと以前言っていた。
気を遣わなくていい場所で気を遣わなくていい相手と喋りながら飲むことが、この仕事に就いてからほとんどできなくなったと。だから時々、こうして家に飲みに来る。
大抵はストレスの発散が目的で、おそらく今日もそう。
にこにこと笑う安室が既に空になったグラスに続きのビールを注ぐ。いつもよりペースが早い。
営業スマイルとそうじゃない笑顔の区別がつくところに彼との付き合いの密度を感じた。
『明日はお休みなの?』
「聞いてくれ。なんと午前半休なんだ」
『それは羨ましい限り…』
「だから今日はたくさん飲むんだ」
お前と飲むのも久しぶりだしな、と泡の立つ液体をごくごくと飲み干していく。そういえば久しぶりだったっけ。
今回彼が仕入れた缶ビールは5缶。酒に強いとはいえあんまり飲むと身体に悪いと声を掛けようと思うのだが、人よりずっと強靭な精神力を持っている彼がストレス発散の最終手段とも言える手段を取っている以上、強くは言えない。
「それで、この前客先の――…」
酒の力を借りて普段話せない愚痴を零す上司と、酒も飲めないのに付き合いでそれを聞かされる部下。
…とでも思ってるんだろうな、この人は。今更私用で家に来るのを躊躇っていたところを見る限り。
どうせこれが終わったら聞かなかったことにしなくてはならない愚痴話に相槌を打ちながら、そんなことを思う。
確かに最初は頼まれたから“男友達”を振る舞ってたけど、もうそんなのとっくに気にしていないのに。
「ああいう奴がいるから…僕の日本が……」
今はゼロ個人の頼みを上司の依頼として受け取ってるつもりはないと、ちゃんと伝えてあげるべきだろうか。
時間が経つにつれてぐだぐだと似たような話が繰り返されるようになり、話すペースも遅くなっていく。机には空き缶が4つ。
そろそろかと時計に目を向ければ日付が変わる一歩手前。やっぱりいつもより疲れてたらしい。
もう寝よう、と声を掛ければ「そうするか」と見るからに眠たそうな彼は缶を片手に机に突っ伏した。
『ほら、乗って』
「……んん」
『ちゃんと掴まって』
「…うん」
うにゃうにゃと何を言っているのか分からない彼をおんぶする形で背中に乗せ、布団まで運ぶ。
いつもなら5缶程度で泥酔する男ではない。強い酒でもビン1本平気で転がすような人だ。
そんなに疲れてるならさっさと寝ればいいのに。そう言ったところで多分、今日はこうしたい気分だったんだと言われて終わるだろうけど。
「…お前は……お前は、死ぬなよ…沙月………」
布団に下ろし、寝かせるために肩から手を離させようとした瞬間。さっきまで目を閉じていた安室がうっすらと目を開け、そう呟く。
まともに歩けないほど酔い潰れている彼から発せられたその言葉は、胸の奥に深く突き刺さった。
『…努力するわ』
―― 一度死にかけてるから、信頼はないでしょうけど。
離れる私を追い掛けるように空を切った手をやんわり掴んで、代わりにそばにあったぬいぐるみを持たせる。
彼が再び目を閉じたのを確認し、身体が冷えないように掛布団を被せてからその場を離れた。
『おやすみ……ゼロ』
また明日。
パチリと電気を消せば、もう暗がりで彼の顔は見えない。
それから寝るまでのしばらくの間、頭の中でぐるぐると思い出していたのは、
一番初めに彼が飲みに来たときに寂しそうに言っていた「とある言葉」だった。
“そう呼ぶのも、もうお前くらいだ”
(そう言ってゼロは、あの日悲しそうに笑ったのだ)
END.
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