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「えっと、園子ちゃんから階川さんの背中に傷があることを聞いたんですけど…」
『傷?』
「その、安室さんが見たことあるみたいだったから……」
『ああ…。いつも隠してるだけで、首元開いてたり袖がなかったりする服だと普通に見えるわよ。大きな傷だから』
「あ、そうなんですね…。水着でも見えにくかったって聞いたからてっきり…」
『あの時はうまくリボンで隠してたから。…これは若い頃、熊にやられた傷よ』
「え?」
その単語を出した沙月を見て、ああ言っていいんだな、と。本人があまり口にしたがらないから、僕から他の人にどう伝えればいいのか先程迷っていたのだ。
どうやら沙月の連れていた女の子も知らなかったみたいで、メニューを持ったまま勢いよく顔を上げる。分かりやすいな。
その大きな傷の経緯については以前から知っていた。まだハンターとして駆け出しだった頃、突然真後ろに現れた熊に襲われたときについたものだと。咄嗟に腕で頭を庇った代わりに肩を引っ掛かれたらしい。
すぐに猟銃で目を打ち抜いて最終的に仕留めたところは沙月らしいが、傷は深かったので完全には治らず痕になって残ってしまった。
「(まあ、見せてくれるって言われて半裸で風呂から出てきたときはどうしようかと思ったが…)」
当時を思い出して一人苦笑する。
詳しくは覚えていないが、出会って間もない頃に傷を見せてくれる流れになって、それこそ首元の開いた服でも着たときにちらっと見せてくれるのかと思ったら、泊まり掛けの仕事の日に肩にタオルを引っ掛けて風呂から上がってきたので思わず二度見した。
もちろん最低限隠すべきところは隠していたが到底大人の女性がやることではない。よっぽど僕を男として見ていなかったのだろう。
そういう関係を要求したのは僕の方とは言え、なんだか思い出して今更悲しくなってきた。
ただそのとき見たその傷のことはよく覚えている。色白の肌にくっきりと残る、赤黒くて太い爪痕。
抉られた形跡が生々しくて、あまり馴染みのなかった沙月の仕事の危険さを再認識した。
「王子、本当に無茶しちゃだめですよ?好きでこの職に就いてるのは知ってますけど…」
『ええ。もう昔の話よ』
「…もっと言ってやってくれないか?僕が言っても全然聞いてくれそうにないから」
女の子が眉を下げて沙月の顔を覗き込む。そこに横入りする形で会話に混ざった。
「沙月はかわいい女の子の話しか聞いてくれないんだ」と吐いたら、彼女は「まあね」と口角を上げた。本心じゃないことは分かってるけど、態度がなんか腹立つな。
でも本当、身体には気を付けて欲しい。僕が言えたものではないかもしれないけど。
こいつは大小問わず、いろんな場所によく怪我をして帰ってくるから。
後頭部で束ねられた綺麗な黒髪を指で挟みこむようにして、彼女の頭に手を添える。
「触れば分かるけど……ここにも、針で縫ったおっきい傷があるから。…いつか死ぬんじゃないかって、いつもひやひやしてますよ」
「えっ…もしかして、それも熊に?」
「いえ、これは僕のせいで起きた事故の…」
『アンタのせいじゃないって言ってるでしょ?』
言葉を遮りながら沙月が頭を振って僕の手をどかす。
忘れられない、とある事故の記憶。この傷を触るたびに思い返す。
今はもう塞がっているし傷跡も髪で隠れて見えないけど、“その日”からしばらくは辛かった。事故の後すぐに病院に運ばれて頭を包帯でぐるぐる巻きにされて、それが外れたと思ったら手術のために髪を剃った後頭部と傷口が丸見えになって。いくら男みたいな見た目をしているとはいえ、沙月も年頃の女の子なのに。
怪我のせいで長かった髪をバッサリ切って、いつも被っている帽子を室内でも脱がずに過ごしていたのをよく覚えている。顔立ちがこれだから短髪もさぞかし似合うのだろうと思っていたけど、この件があってからトラウマでしかない。
僕を軽く睨んできた沙月と数秒間見つめ合う。僕のせいじゃない、そんなはずがない。あれは僕が連れ出した仕事の中で起きた事故だ。僕と関わってなければ、彼女の頭にこんな傷は残らなかった。
周りの空気が重くなってしまったのを察して、「ごめん」と言ってその場を去る。
『…ごめんなさいね、こんな話になっちゃって。榎本さん、注文いいかしら?』
「あ、はい!」
気分転換に皿洗いを始めた後ろで梓さんたちの声が聞こえる。今は「安室透」なのに、何をやってるんだろうな僕は。
でもやっぱり忘れられないんだ。ふとしたときに思い出してしまう。それは時々、死んだあいつらのことを思い出すのとよく似ていた。
人知れず吐いた溜息は、沙月の注文したコーヒーの香りと共に空中に溶けて消えていった。
傷跡
END.
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