1.変な話
ロシアさんの家にいる子。可愛くておてんばで、みんなに優しい。そう聞いている。でもどこかがおかしい。俺は彼女を見たことがあった気がする。彼女はいつのまにかロシアさんの家にいた。ロシアさんが連れてきたらしい。変に度胸のあるラトビアはロシアさんに聞いたらしくて、彼によると彼女はロシアさんの婚約者らしかった。彼女には部屋が与えられた。でもそこから出ることが許されていなくて、外に行けるのはロシアさんが来た時だけだった。
ロシアさんは彼女がお気に入りで、彼女の隣にいる時だけはいつもよりにこにこふんわりしている。猫撫で声で彼女に話しかけるロシアさんはいつもと違くてどこか怖い。ロシアさんが忙しくなくて、家に泊まる時は絶対彼女はロシアさんの部屋に連れていかれる。そのあと数日は彼女の首元に赤黒いあざが見え隠れするからナニをしてるかなんて聞くまでもなかった。日中ふらりと家に帰ってきたロシアさんが彼女の部屋にいる時は怒鳴り声が聞こえることもある。ビンが割れる音、彼女の呻き声、嬌声、叫び声、毎回いろんな音が聞こえる。でも俺はロシアさんに目をつけられたくなくて彼女とは関わらないようにしていた。ただでさえ忙しい仕事。それに加えてロシアさんに目をつけられたら何をされるかわかったもんじゃない。そっけない僕に、助けすらしない俺に彼女は何の嫌悪も示さない。彼女の隣にはいつもロシアさんがいる。俺は会釈しかしない。なのに彼女は俺とすれ違うたびにとても優しく慈愛に満ちた顔で挨拶してくれる。

「おはよう、!」
「おはよう、ございます」

声をかけるのはいつも彼女が先だった。出来るだけ避けている俺は喉につっかえて言葉が出ないのだ。綺麗な顔、そこから少し視線を落とした先のアザを見たら言葉なんか出せない。知っているのに知らないふりを突き通す俺。助けすらしない。言葉もかけない。彼女と俺は交わらない。

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「外で本が読める場所を知らない?」

交わらないと、そう思っていた。仕事を終えて少しの休憩を取りに部屋を出た。角を曲がり、廊下を進んだ先に彼女はいた。いつも出会う時はお互い歩いているのに今日、彼女は歩みを止めていた。手に持っているのは厚いロシア語の本。窓の外を見ている姿が美しくて息を呑んだ。いつのまにか見つめていて、こちらに気がついた彼女とぱっと目があう。笑って、投げかけられた言葉は理解できなかった。

「え、」
「あのね、今日はロシアが部屋を出てもいいって。庭があるから行ってみたら、って言ってくれたの。でも迷っちゃって…」
「あ、そう、なんだ…」

聞きたいことは山ほどあった。外に出ることを許されていない彼女に驚いた俺をわかっていたのか説明はしてくれた。けれどそれ以上にロシアさんの考えていることがわからなかった。あんなに閉じ込めていたのに。違和感に頭を悩ませるが目の前の彼女に向き直ると不安そうにこちらをみていた。

「忙しいなら、」
「いや、大丈夫…。庭だよね?応接室の廊下をまっすぐ行って、右に曲がってから……って、わかんないか…。一緒に行くよ」
「ありがとう…!」

説明しようと思ったが彼女は間取りをほぼ知らないらしい。説明中に困り顔になった彼女を俺の目は見逃さなかった。あたりまえだ。あんなに部屋に閉じ込められて自由がないのだから。彼女を案内することにしたのは優しさだけではなかった。ただ、彼女がかわいそうだな、そう思った方が大きかった。

廊下をいつもよりゆっくり歩きながら彼女をちらりと見る。華奢な体、俺よりも小さい。ロシアさんと一緒にいるとものすごく小さく見える理由がわかった。

「…なんの本を読んでるの?」

もっと知りたいことはあった。なぜきたの?なぜロシアさんといるの?君は何者なの?でも下手に詮索してロシアさんの不興を買いたくなかった。俺はずるいから。彼女は自分の持っている本に目をやってから笑顔で答えた。

「ロシアの歴史だよ!…あのね、私ロシアの婚約者なんだって。なのに、ロシアのことが何にも分からなくて…。ロシアはショックで忘れてるだけだよって言うんだけどね…」
「…そうなんだ、えらいね」
「えらい、のかなあ…?早く思い出したいな。あなたは私のこと知ってる?」

寂しそうに笑う顔にぞっとした。強烈な違和感がする。ショックで忘れてる?なんの?婚約者?本当に?

「ううん。力になれなくてごめん」

そんなことを考えてしまってうまく笑顔をつくるのに苦労した。知らないなんて嘘だ。俺は彼女をどこかでみたことがある。どこの…?ロシアの街…?一般人?いろいろ考えたけれど、記憶の中の彼女の輪郭はぼんやりしすぎてわからなかった。



「ここかな?」

彼女が不意に止まって目の前にはおしゃれな扉と庭園と描かれたプレートがかけられていた。道中の他愛無い会話は頭に残っていなかった。彼女について考えれば考えるほどすごく嫌な予感がした。早く立ち去りたかった。

「うん…」
「ここまで送ってくれてありがとう!えっと、名前は…」
「…リトアニアだよ」
「そっか!リトアニア!ありがとう!また会えたらいいね」

にっこりと笑う彼女。手を振られて俺は代わりに会釈した。扉に踵を返し来た道を戻る。時計を確認すると休憩が終わる2分前だった。彼女と会って得た不気味な気持ち悪さを忘れるために走り出した。俺は何も関係ないのだから。

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徒野