2.いない話
今日は鈍く何かを殴る音がどこかで聞こえた。それから呻きとつんざくような叫び声が微かに。また、彼女の部屋なんだろうな、とぼんやり思った。今は15時。休憩を取るために歩いていたらこんな音に遭遇するなんてつくづく不運だと思った。それにしてもさっきから絶え間なく鈍い音が聞こえてくる。何かを切るみたいな。できるだけ避けよう。避けようと思って回り道するが限度がある。仕事場に戻れば周りに仕事をしている人ばかりで気が休まらない。罪悪感がするからだ。だからこうして部屋を出て自分の部屋で本でも読もうと思ったのに。落ち込んだ気分のままなんやかんや自室へと近づく。未だに聴こえる音は徐々に遠ざかり、ほっとした。


休憩の終わりが近づき、俺は部屋を出る。先程の音はもう聞こえなくなっていた。少しだけ憂鬱な気分が減って仕事場への道を戻る。

「…え」

足が止まる。戻るつもりだった道は血痕に汚されていた。頭が急に冷える。まず誰の?スパイとかならいい。いや、よくはないけれど、まだマシだと思えた。じゃあ名前?そんなわけ…。そう思いながら自然と俺の足は血痕を辿っていた。もし彼女が誰かに襲われて、死にかけていたら?あんなにいい子なのに。先日笑いかけられたことが頭に浮かんで俺は首を振った。そんなわけない。

ドンッ、

「…?」
「あれ~リトアニアくんじゃない。どうしたの?」
「 ろっ、ろろ、ロシアさん!?」

考え事をしながら歩いていた俺に何かが立ち塞がって、顔をあげる。目の前には恐ろしい存在が笑っていた。ぶつかったのはロシアさんだった。しかも酷く気分の良さそうな。こういう時はろくなことがないと俺は経験上どこかで勘づいていた。今回もその通りで彼の白い顔には見慣れない色がついていることに気づく。そして視線を下げると目に入ったのは赤黒い血だった。

「えっ………と、あの、これ、は…」
「ああ~これね、ふふ…、君は気にしなくていいよ」
「あ、そう、ですか…」

それ以上は聞けなかった。きっと俺に聞く権利がないことだとすぐにわかった。嫌な思いが拭えないまま呆然と立ち尽くす。帰ろうと思うのに足が動かなかった。

「なんでここにきたの?」
「あ、ああ、血痕が残ってて、スパイでも入ったのかなーなんて、」
「うふふ、ははは!!!!スパイなんか入ってないよ!スパイだなんて面白いなあ…」

急に嬉しそうに笑い出した彼にぞっと不快なものが背を這った。ああ、帰りたい。彼の目が弧を描き宝石みたいに綺麗な目が歪んだ。


あれからどうやって仕事場に帰ってきたか思い出せない。椅子に座った俺にエストニアが不安そうに

「だ、大丈夫ですか…?」

と声をかけてきたこと、それくらいしか覚えていない。


それからおかしかったのは彼女の部屋から生活感が消えたことだった。彼女の存在がないみたいに感じることがなかった。ロシアさんは家に帰ってくるのに彼女を連れ回す姿が見られなかった。不気味だった。おかしかった。俺はロシアさんがいない日中、避けていたはずなのに彼女の部屋へと向かった。血痕は消されていたけれどひどい血の匂いがした。それは彼女の部屋に近づくにつれて濃くなっていく気がして俺は手が冷たくなっていくのを感じた。ドアノブに手を触れる。ごくりと唾を飲んでからその扉に手をかける。

「っ…な、なんだよ、これ」

目の前に広がるのは一部乾燥した血の海だった。至る所に血が付着していた。白いベッドは赤茶色に変色し、近くにはノコギリが残っていた。それでも何より1番変なのはその部屋のどこにも彼女はいないことだった。

/目次へ/
徒野