8.気付かされる話
「名前…?」

いつも通り名前の具合は悪かった。もうそれがいつも通りになっていた。寝ているかと思ってそうっとドアを開けると彼女はめずらしくベッドのへりに背中を当てて上体を起き上がらせていた。ぐったりとした彼女を見た俺がいうことがわかったのか、名前は申し訳なさそうに少し笑った。

「具合悪いなら寝てなよ、」
「ううん…リトの顔ちゃんと見たいし、今日はそんなに悪くないの、」
「…そう」

こういう時の彼女には何を言っても聞いてくれないと俺はわかっていた。彼女はぽつぽつと最近あったことを聞く。俺はいつも通りにラトビアやエストニアの話をしてあげた。ロシアさんについては最近は忙しそうだということを伝える。名前はそれをじっと聞いていたが俺はそれよりも彼女の話が聞きたかった。いつ消えるかわからない彼女の話を。もし彼女が国だとして、消えた前例はひとつだけある。普通の人になる国が多いけれど前例がある以上、俺は安心なんかできなかった。彼女を消したくなんかなかった。そのためにできることがしたかった。

「…名前は最近どう?」
「最近…最近はね、よく夢を見るよ。よく寝てるからかな…。」
「誰か…でてくる?」

俺は真剣に話を聞く。彼女のことが知りたい。少しでも。それが誰であっても。

「うん。前に話したっけ?おんなじ人がやっぱり側にいるよ。結構乱暴なんだけど優しくて、何言ってるかわからないんだけど懐かしいような言葉を話すの。」
「どんな言葉か、覚えてたりする?」
「えっとね、……」


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彼女が眠りについてから俺は下唇を噛んだ。今まで忘れていた自分が不甲斐なかった。血の気のない彼女の寝顔を見ながら自分は今酷く頼りなさそうな顔をしているだろうなと思う。彼女から聞いた言葉は自分も聞き覚えのあるものだった。俺の大嫌いなやつが話してた言葉。忘れられるわけない。…ドイツ語。記憶を辿れば小さい頃プロイセンはいつも誰かと一緒にいた気がした。遠くからしか見たことがないけれど優しそうで、かわいいなと思ったことをぼんやり思い出す。彼女はやはり国だったんだと今更確信を持ったところで俺には何ができるのだろうと必死に考える。彼女が自分を国だとわかっていないことや、知り合いのことを何も覚えていないのは彼女が国であった頃の記憶をなくしかけているからだった。どうしたらそれを止められる?じっと俺は考えた。考えて、考えて…でも思いつくのはただ一つしかなかった。彼女を故郷に帰すこと。それしかないんじゃないか。酷く苦しそうに眠っている彼女に俺は静かに立ち上がって部屋のドアを開く。行く場所なんか一つしかなかった。

ロシアさんは最近名前と会おうとしなかった。それは彼女が弱っているのは自分が連れてきたからだとわかっているからじゃないのか。力任せに彼の部屋をノックする。大きな音がした気がしたけれど気にしている場合ではなかった。どうしてかわからないけれど事態は一刻を争うと思った。遅れたらもう取り返しがつかない、そんな気がした。


「ロシアさんっ!」
「わ、どうし…」
「名前はもうまともな状態じゃない!!」

俺の顔を見て不思議そうにしていた彼は表情を一変させた。戸惑うような恐るような、睨みつけるような。彼はいつもの不気味な笑みなんか張り付けていなかった。ただ憔悴したような顔をしていた。

「……名前がどうかした?」
「ロシアさん、名前は国ですよね!?あなたが連れてきたドイツ領の国だ!!」
「ちょっと、もしそうだとして、君に何の関係があるの…?」

語尾を荒げたロシアさんに普段の俺なら口をつぐんだだろう。けれど今はそれどころじゃなくて、俺はただ叫ぶように彼に伝えた。

「あいつは、名前は、もう国じゃなくなりかけてるんですよ…!」
「…」
「名前は人間の体になってきてる…!何にも覚えてないじゃないか、国なのに…。このままじゃあなたは名前と一緒にはいられない!早く彼女をドイツに帰してください…!彼女が消える前に…!」

ロシアさんは少し目を見開いたように見えた。それからぎこちなく笑う。苦しそうな顔だった。

「消える?消えないよ!名前は消えない……」
「消えるかもしれない。もし運良く人になったとして、俺たちと人では時間の進みが全く違うって、ロシアさんもわかってますよね…?」

自分で言っていて苦しかった。名前が消えるなんて嘘でも言いたくなかった。胸が痛くてそれを誤魔化すように手を硬く握りしめた。ロシアさんはガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。

「……出ていって」
「ロシアさん!名前のことが本当に好きなら彼女を帰すべきだ!!」
「出て行ってッ!!」

ロシアさんの怒鳴り声を初めて聞いたかもしれない。そう思った。俺は動く気なんてなくて彼に聞き入れてもらえるまで何をされても言い続けようとすら思っていた。けれどロシアさんは警備に立っていた人に合図すると俺は羽交い締めにされた。暴れようとしたがビリと電流が走って力が入らなくなる。スタンガンか、そう気づいた頃には遅くて俺はただ彼に訴えかけるように目を逸らさなかった。部屋を出される直前にか細い、わかってるよ、という声が聞こえたのは幻聴だろうか。

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徒野