本音と建前

夏美が手にしているのは先程、校長室の中で見た落書き帳のようなノートだ。それを見るなり円堂が目を輝かせ飛び付いた。

「じいちゃんの秘伝書!」
「秘伝書……?」

パラパラと中を捲る円堂の脇から凪は内容を覗き見る。マジックペンで書かれたような、力強い落書きが書かれていた。
円堂の高揚した声にサッカー部員は色めき立つ。が、それを夏美はくすりと笑う。

「でも意味ないわよ」
「なんで!」
「読めないもの」

アッサリとした夏美の言葉に、覗き見ていた凪は肯定するように首を縦に振った。円堂は何故か夢中になっているが、彼女には汚い落書きにしか見えないのだ。辛うじて字だと判別できるところも無くはないが、「字」という概念に当てはまるだろう、というだけであり解読は不可だ。

「さぁ、探し物が見つかったなら早く出ていってもらえる?」

扉を指し示し出ていくよう促されれば、サッカー部員達は大人しく出ていく。円堂は読み込んでいるせいで動かなかったので、風丸と染岡が背中を押し無理矢理出ていく。

「そういや、なんで鳴海が雷門といるんだ?」

一番最後だった半田が足を止め問い掛ける。凪は夏美の手にある書類を指差した。

「書類に判子貰いに来たんだよ。校長先生いなかったから代わりにね」

納得がいったのか「ふーん」とだけ答え、半田出ていく。
それを見届け、凪は近くの壁に背中を預けた。

「秘伝書……というか、円堂のお祖父さんのノートが何で雷門中に……?」
「『イナズマイレブン』よ」

独り言に対して、引き出しから判子をいくつか出して確認している夏美が返す。
聞き慣れないその言葉に凪は首を傾げる。
イレブンとは英語の11を。イナズマは雷門中の雷からとったと考えられる。11人でやるスポーツといえばキックベースかサッカーしか思い付くものはない。雷門中にキックベース部なんてものは存在しないため、恐らく『イナズマイレブン』とはサッカー部のことだろう。
そんな異名が有ったということは、サッカー部は円堂が作る前にも実はあって、かなりの強さがあったのではないだろうか。
考え込んでいると「鳴海さん」と夏美が呼び掛けた。

「判子は捺したわよ」
「ん、ありがとう。雷門さん」

渡された書類を確認する。必要箇所にキチンと判子がくっきりと捺されている。これで提出すれば大会へ出ることができる。
もう一度、お礼を言おうと凪が顔を上げると、夏美の赤い瞳が真っ直ぐに彼女を見つめていた。

「それで、まだ貴方はサッカー部に関わっているのね」


「何で雷門さんはさ、サッカー部に関わるなって言うのさ」
「何故って……怪我でもされては困るからよ。前にも言ったでしょう」
「でも怪我なら体育の授業でだってしかねないじゃないか!」

キッと夏美は目を吊り上げる。

「『日本代表候補』が怪我するのをみすみす放っておけるとでも?」
「……っ」

出てきた言葉に凪は苦虫を噛み潰したようにしかめる。
『日本代表』
それは彼女が目指しているものだった。けれど、一度、その資格を捨てることを選んだものでもある。
夏美は淡々と言葉を続ける。

「貴方は去年、一年生ながら全国大会で優勝を果たした。更に大会のレコードを大きく塗り替えてね」

そう、間違いない真実だ。
小さくではあったがそのニュースは取り上げられた。結果として雷門中水泳部に入部するために人が集まったのだ。

「日本代表選抜の大会への参加資格だって持っていたし、エントリーだってしていたのに、貴方は当日、現れなかった」

それもまた事実だった。
四月に行われる日本代表を選抜する大会。それに出るためには標準記録というものを突破しなければならない。大会レコードを大きく塗り替えた凪は当然ながらこの記録を突破していた。 だが、彼女はその日、大会に姿を現さなかった。
それは逃げたわけではない。怖じ気付くどころか戦いたかった。自分よりも速い選手とギリギリの戦いをしたかった。そんな闘争心剥き出しだった。
だが、事実、凪は大会に『参加しなかった』。

「どれだけ学校の体面が傷つけられたと思ってるの」

夏美の言葉に嘘はない。理事長代理という立場にいる彼女の怒りは正しい。
返す言葉もなく凪は項垂れた。

「また大会を棄権されるのは困るのよ」
「それ、は……」

出れなかったのは彼女なりにちゃんと理由はある。けれど言ったところで言い訳にしかならない。

「貴方が来なかった理由は把握しているわ」

呆れ混じりの溜め息。凪は目だけを動かし夏美の様子を窺い見る。
呆れていたのは間違いない。けれど、その表情はよく知っているものも混ざっていた。

「大会に向かう途中で、痴漢を捕まえて、さらに産気付いた妊婦を病院に送り届けるなんて……聞いた時は嘘かと思ったわ」
「何で……」
「ジャージからウチの生徒だってことが分かったみたい。それで連絡が来たのよ」

ゆっくりと顔を上げる。
真っ直ぐに見据えた彼女の表情には、凪のよく知る、誰かを心配する色が混ざっていた。

「……そんな風に、誰かの事ばかりを優先すれば、大会出場なんてできるわけないでしょ」

トゲはある。けれど、言われたことを思い返してみれば、学校としての部分を押し出されて怒られているように半分は聞こえるが、前回から一貫して主張されているのは『怪我をするな』ということだ。
凪はそっと小さく手を上げた。

「えっとさ、もしかして、もしかしてなんだけど、怒ってるのもあるけど心配してくれてる?」
「なっ!?」

夏美が大きく目を見開く。慌てたように彼女は声を張り上げた。

「べ、別に貴方が会場の近くで蹲っていたのを見たとか、そういうことじゃなくて……!」

今度は凪が目を見開いき耳まで真っ赤に染め上げる。

「あ"ー!!?え、見てたの!?見られてたの!!?」

芝居掛かった雰囲気で凪はその場に座り込む。ふざけることが今の彼女にできる照れ隠しだった。

「あれだ……墓穴があったら入りたい……」
「それは穴があったら入りたいじゃない?」
「うぅ……」

指摘され、さらに恥ずかしさが募る。
大会当日、凪が会場に現れなかったのは夏美が漏らした通り人助けが理由だった。まず会場に向かう電車の中で彼女は痴漢にあっている女性を助けた。時間にはかなり余裕を持って行っていたので、ギリギリ間に合うはずだった。
が、そこでまた、困っている人を見付けてしまったのだ。しかも「産まれそう」と呻いている妊婦だ。助けていれば大会に遅れてしまうのは分かっていた。けれど、だからといって放っておける人間でないのが凪という少女だった。
そんなこんなをしていれば、会場に着けたのは大会終了後のことであった。
助けたことに後悔は無かった。けれどそれによって大会に参加できなかった苦しさを覚える程度には、まだまだ凪は子供だった。唇を噛み締め、汲み上げてくる激情を押さえ付ける。
その後ろ姿を、偶々見付けたのが夏美だった。
彼女は最初こそ文句を言おうと思っていた。けれどその姿を見た途端に何も言えなくなったのだ。
だからこそ、夏美は凪には言い様の無い感情を抱いていた。それは円堂の練習風景を見ていた時とどことなく似たもので、違うような複雑なもの。その中でもハッキリと言えるのは、悔いなく大会に出させてやりたい、ということだった。

「はー……ここまで恥ずかしかったのは久しぶりだ……」

真っ赤な頬を擦り、凪は壁の時計に目をやった。かなりの時間が経っている。
そろそろ話を締めなくては。
よっこらせ、と年寄りくさい動作で立ち上がる。

「雷門さん」
「何?」
「ありがとう」

まだ頬の赤みが残るものの、凪は歯を見せニッと笑う。

「でも、その忠告は『私』である限り無理かな!」

理解を示されるかと思っていた夏美はポカンと口を開いた。
凪はクルリとその場で意味も無く一回転すると、後ろ手を組み胸を張った。

「だってしかたないじゃん!昔馴染みと友達が大体サッカー部にいるんだから!」

円堂に風丸は稲妻町に越してきてからの、染岡や半田、マックス達は雷門に入ってからの大事な友人。大切な友人達に手を貸さないでいる友人がいるだろうか?手を貸さないことは何より彼女のアイデンティティに反する『カッコ悪いこと』だ。できるわけがない。
夏美の気遣いの全てを理解した上で、凪は堂々と言い放つ。夏美は本日何度目かの溜め息を吐いた。

「……呆れたわ。勝手にしなさい」
「うん、そうするよ!」

と、ハッとしたように凪は人差し指をピンと立てた。

「っと、そうだ!そんなに心配なら、今度からちょくちょくここに遊びに来るよ!」

唐突すぎる内容に再び夏美はポカンと口を開く。凪は名案だ!と言うように意気揚々と話す。

「元気だって分かればサッカー部と関わっても問題無いってことじゃん!ってことでアデュー!」

言いたいことだけ言い放ち、凪は突風のように理事長室から飛び出した。
室内に一人残された夏美は、あまりの凪の自由さに腕を組む。けれど、少し先に訪れるかもしれないそれに僅かに微笑むのだった。