笑顔は絶やさず

早朝。朝練にしても早すぎる時間に凪は一人、プールに足を浸しながら携帯を弄っていた。

「影山が何かしてる以外の情報は無しか」

連絡していたのは河俣だ。何かしら追加の情報は無いかと連絡を取っていたが、詳しいことまでは分からなかったとメールに書かれている。簡潔にお礼のメールを入れると彼女はサッカー部の部室の方を見た。
今日はサッカー部の試合の日だった。忠告しようにも何も分からなければ下手に動くこともできない。精々、気を付けろよと言うのが精一杯だ。

「何も無きゃ良いけど」

新たなメール画面を開くと円堂や風丸らに『試合頑張れ!あといろいろ気を付けろよ!』と送る。それから携帯を閉じると凪は爪先で水を蹴り上げた。冷たい飛沫が太腿などにも多少飛んで来る。そのまま暫くぼんやりしていると水泳部員もちらほらとやって来出した。

「鳴海はよー。早いなお前ー」
「色々あるから早く来たんだって」

よいしょ、と立ち上がると凪は部室へとゆっくり歩き出す。
サッカー部が帝国学園に何かされるのではないか、と心配なことには変わり無い。だが、その気持ちのまま水泳部を蔑ろにするわけにもいかない。今は水泳部部長としての役目を果たさなければいけないのだ。昨日の内に作成した練習メニューをホワイトボードに書き出し、諸々の確認を行う。予定時間には問題なく全員が集まり練習が開始された。
外周走り込み、基礎的な筋トレ、準備運動、基礎練習と授業時間に囚われずにできるのが休日の部活の良いところだ。あちらこちらに気を配りながら午前の練習は滞りなく終了した。この後は昼休憩を挟んでまた練習を行う予定である。雪野のホイッスルを合図にそれまで泳いでいた凪は、午後の練習メニューを変更すべきか考えながらプカリと仰向けに水に浮かんだ。

「凪くん、早く上がって」
「もうちょいー」

脱力したままゆらゆらと水に揺られるのは気持ちが良いのだ。悩みも一時的に忘れ去れる。あと5分ー、と雪野へと告げると彼女は仕方ないと言うように腰に手を当てた。その時だった。

「鳴海!大変だ!」

一時的に部員らと部室に入っていた顧問が焦りながらプールサイドで叫ぶ。その焦り具合に凪も何事かと浮かぶのを止めた。スイッとプールサイドまで近付くと、顧問は携帯を手にしつつ言った。

「お前の保護者が病院に緊急搬送されたそうだ」

※※※

息を切らせ、凪は走った。制服に着替える余裕も無く、水着の上にジャージの上下を着ただけの姿のまま、髪を振り乱し走る。
駆け込んだ先は病院だった。
受付の椅子に座る人々の中から誰かを探すように見渡す。けれど目当ての人物は居らず、焦りだけが募っていく。緊張からか口の中がカラカラに乾いていたが、唾を飲み込む余裕すら無い。

「凪ちゃん!」

弾かれたように凪は声の方を振り替える。そこには彼女の叔父の同僚の備流田が汗を拭いながら立っていた。その側に凪は駆け寄る。

「叔父さん運ばれたって!大丈夫なんですか!?」
「ああ、大丈夫だ。命に別状は無いから安心しろ」

その言葉に凪が大きく息を吐き出す。

「良かった……」

大きく音を鳴らす心臓をジャージの上から押さえると凪は備流田がその肩を軽く叩く。それに答えるように小さく微笑むと、備流田に案内されるまま叔父の病室へと向かった。無機質な白い空間を抜け、とある一室の前で彼等は足を止める。

「……失礼します」

身体を強張らせながら凪はその戸を開いた。
白を基調とした部屋の中、置かれたベッドの上の人物が振り向く。

「ごめんね、びっくりしたでしょ?」

穏やかに笑うのは、頭に包帯を巻いた善一郎だった。凪は彼の手招きに恐る恐る近寄ると、近くにあった椅子に腰を掛ける。すると善一郎は不安げに見上げる、幼さの残る少女の頭を謝罪の意も籠めて優しく撫でた。

「大丈夫。階段から落っこちただけだから。それでちょーっと、検査入院するだけだからさ」

運ばれたと言っても、額を数針縫った程度の傷を負っただけだった。だが、頭を強打し一時は意識が無くなっていたのだ、脳内で何かあってもおかしくない。人体にそれなりに知識があるものとして最悪のことも考えていたが、それを口に出せば目の前の姪がどうなるか分かっていた。だからこそ、言わずに希望のある言葉を選ぶ。

「明日には必ず帰れるから」

それを見透かすように丸い瞳が揺れる。きゅっと唇を噛み締め、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「ほんと?」
「本当だよ」

まだ何か言いたげではあったが、それを飲み込み凪は微笑んだ。

「分かった!じゃあ留守番任せてね!」

とん、と椅子を降りると凪は「喉乾いたから何か勝ってくる!」と病室から出ていった。
それを見送ると、それまで凪の座っていた場所に備流田が座った。

「善一郎、もしもがあることは伝えねぇと駄目だろ」
「そうだけど、でも、あの子に身内が『死ぬかもしれない』なんて言えるわけ無いよ」

ふ、と善一郎は携帯を開く。今は病院内であるため電源が落とされ黒い液晶のみしか見れないが、待受画面には本来彼と兄家族の写真が表示されるはずだった。

「何かあったらどうするのか、決めてるのか?」

凪がしっかりしていることは備流田も分かっている。しかし、それでも14歳の子供だ。一人で生きていける年ではない。凪が善一郎と暮らすようになった頃から交流のあった彼からすると心配になるのは当然だった。
その問いに善一郎は少し眉尻を下げ答えた

「うん、『海里くん』に頼むつもり。元々、あの子はそれを望んでいたからね」

ソッとその画面に触れる。温度はなくツルリとしたそれが何故か温かく善一郎には感じられた。
その頃、病室から出た凪は院内の自販機前まで来ると壁に手を着いたまま、ずるりと座りこんだ。善一郎や備流田の前では取り繕ったが、家族を失くすかもしれない恐怖にただただ不安で、それでも無事であると顔を見たことで力が抜けたのだ。幸い、人の通りが多い場所ではないので問題ないかもしれないが、あまり時間を掛ければそれはそれで善一郎に気付かれるだろう。力の入らない足を叱咤し、よろよろと立ち上がるとジャージのポケットから財布を取り出そうと手を入れる。が、あるはずのものはない。慌てて出てきたので部室に忘れてきたのだ。やっちまった、と凪は溜め息を付くとゆっくりと顔を上げた。

「……え?」

その顔を上げた先。そこには見知った姿があった。

「豪炎寺……?」

松葉杖をつき片足を包帯で固定するように巻かれている豪炎寺がそこにいた。お互いに何故、と目を丸くしたまま見つめ合う。

「鳴海こそ、どこか怪我でもしたのか?」

首を横に振るい、否定を返すと凪は豪炎寺の足と顔との間を視線を行き来させる。それから大声を上げそうになるのを押さえるように両手で口を防いだ。目を見開き、心底驚いているのだ。

「おい、どうかしたのか?」

ことり、と豪炎寺が首を傾げる。すると凪は恐る恐る彼の足を指差した。

「え、いやだって!?お前その足どうしたんだよ!?」

数日前には当たり前のように元気そうだったので余計に驚いているのだろう。
「これは今日の試合で……」と淡々と豪炎寺が告げるせいで、当事者でもない凪が何故か焦った。立たせたままはいけないと、取り敢えず近くのベンチに豪炎寺を誘導しその隣に凪も腰を掛けた。

「それで、試合で何があったんだよ」
「御影専農との試合でかなり白熱してな」

凄かったぞ、と言うと豪炎寺は肩を揺らし笑い出す。相当楽しかったのだろう。豪炎寺が足を怪我したことを除けば、サッカー部には何もなかったと凪はその雰囲気から感じ取った。
何もないに越したことはない。それに、心から楽しめる試合ならば心底喜ばしいことだ。河俣とのやり取りの中で不安を抱えていたからこそ、余計に凪は嬉しかった。

「凄かったじゃわからないからさ、どんな感じだったのか教えてくれよ!」

豪炎寺の喋りはやはり淡々としてはいるが、言葉の端々に感情が見える。

「ゴールキーパーがシュートを打ちに来るなんてそうそうないだろ」
「円堂……何してるんだよ」
「円堂だからな」

円堂と豪炎寺がシュートを決めたこと、相手チームが機械で色々やりながらプレーしていたこと、それらを聞き、笑い、時に呆れ、話が終わる頃には思っていたよりも時計の針が進んでいた。二人はそれぞれ戻らなければならない場所があるので、それじゃ、と片方が切り出すと頷きあった。
別れようと凪の手を借り立ち上がった豪炎寺だったが、ふと、思い出したように彼女に訊ねた。

「そういえば、鳴海。今更だが、どうしてお前が病院にいるんだ?」

途端に凪は言葉を詰まらせた。サッカー部のことで頭の中から追い出した、善一郎のことが罪悪感と不安と共に心を占めていく。
豪炎寺はそんなことは知らず、凪が怪我をしたのではないかと気にしているのだろうとは分かっている。

「さっき座り込んでいただろ。何処か調子が悪いのか?」

そう訊ねる豪炎寺の声色は心配の色を帯びている。
グッと一瞬、眉を潜めるが凪は慣れたように、自信の不安を押し隠し笑った。

「まぁ、ちょっと身内が救急車で運ばれたってことで慌てただけさ!それでちょっとメンタルにダイレクトアタックされただけ!」
「身内って、大丈夫なのか?」
「明日には退院できるから問題無いって!叔父さん、身体めちゃくちゃ鍛えてるしさ!」
「叔父……?」

意外な言葉に豪炎寺は疑問を感じた。それほどまでに叔父に懐いているのだろうか、と。
けれど聞くにも互いに時間はなく。二人はそこで手を振り別れた。