メイド喫茶に行こう

その日は珍しく、朝から凪が大人しかった。
周りに人が多い時はいつものようにうるさくしているが、少しでも人がいなければぼんやりと外を見上げては溜め息を吐いている。更にはいつもはない隈が目の下にうっすらとできていた。
その様子に隣の席の染岡は何かあったな、と察した。

「おい、どうした鳴海?何か悪いもんでも食ったか?」
「何でそうなるのさ。別に何でもないって」

笑ってはぐらかしているがやはり違和感がある。
珍しくもそんな時だったので、目金が言い出したことは彼にとって渡りに船だった。
その提案とは、メイド喫茶に行くこと。何故唐突にそういったことになったのかと言えば、準決勝相手がが全く名も知らない秋葉名戸中になったからだった。秋葉名戸はサッカー部達が練習試合をした尾刈斗中を破り進んできた。尾刈斗中の強さは彼らは身に染みている。だからこそ驚いたのだ。現状、エースの豪炎寺が足の怪我で出場できないため、そんな相手を破ることは困難を極めるだろう。一体、どんなプレーをするのか、とマネージャー達が集めてくれたデータを聞けばなんと彼らは練習に汗水垂らすわけではなく、メイド喫茶に入り浸っているのだという。それに誰しもが呆れもした。けれど珍しいことにそれを咎めたのは目金だった。そしてその目金が提案したのだ。敵を知るためにメイド喫茶に行くことを。
染岡は当然ふざけるな、と思ったがふと落ち込む凪の姿を思い出した。偵察ついでにそういった馬鹿げた所にでも行けば、元気が出るだろう、そう思った染岡は恥ずかしさから顔を赤くしながら、円堂達に言った。

「ならよ、ついでに連れてきたいヤツがいるんだがいいか?」
「連れてきたいって……め、メイド喫茶にか?」

円堂の困惑は当然だ。メイド喫茶自体、中学生にはいささか早すぎるような場所だ。
染岡もメイド喫茶と口に出すのは恥ずかしいのか、ややいつものキレがなく、モゴモゴとしながら頷く。

「一体誰を連れて行きたいんだ?」
「……鳴海だ」
「はっ!?鳴海!?」

それを聞いた半田が声を上げた。意外すぎる名前だったからだ。染岡はうるせぇよ、と彼の脇をどつくと腕を組んだ。

「アイツ、今日は何か様子が変だろ。そういうふざけた所にでも行けばちっとはマシになるかと思ってな」

半田も昼休みの凪の様子を思い出したのか、ああ、と呟く。彼の目からしても様子がおかしかったのだ。
それほど調子が悪そうならば水泳部が気付かない訳もない。そうだと彼らは当たりを付けた。勿論、公にメイド喫茶に行くとは言えないが、息抜きと称して連れていくことはできるだろう。何かとサッカー部に関わってくれている昔馴染みの問題であるため、それならばと円堂も頷いた。
荷物をまとめ、出る準備をすると染岡と円堂、風丸が迎えに出た。

「おい、鳴海いるか?」
「鳴海?ならあそこで土左衛門ごっこしてるぞ」

休憩中だったのか、大体の部員はプールサイドに上がっている。一番フェンス近くにいた永瀬に彼らは声を掛けると、プール中央付近でうつ伏せに浮かんでいる人物を指差す。ピクリとも動かず水に揺れているが、部員達は気にする様子もなく休んでいる。あれは日常茶飯事なのだろうか、と彼らは何とも言えない気持ちになった。

「何してるんだよ、あれ」
「風丸知らねぇの?鳴海、悩むと大抵水に浮かんでるぞ」
「悩む……」
「ああ。なーんか今日一日、調子が出ないみたいでさ」
「……アイツ、呼んで貰えるか」
「良いけど。ちょっと待ってろよ」

言うなり永瀬は走って水に飛び込んだ。少しすると永瀬が水の中で立ち上がると同時に、浮かんでいた黒のラバー素材のキャップが雫を幾つか落としながら起き上がる。同じく黒のミラー加工がされたゴーグルが光を反射しながら円堂達の方を向いた。

「円堂に染さんに風丸?」

目を覆っていたゴーグルを額に上げると、凪はことりと首を傾げた。今まで水に顔を付けていたと言うことは、呼吸していなかったということでもあるのだが、息の乱れはない。
器用に顔を上げたまま凪はプールサイド際まで泳ぐ。そして両手を着き、身体を陸に上げようとした。が、そのまま下に沈んでいった。慌てた円堂達がその側まで駆け寄る。彼女が沈んでいった辺りを覗き込むとプカプカと仰向けになり水に揺れていた。

「大丈夫か、鳴海!?」
「重力に負けた。誰か手、貸してくれ……」

ヒラヒラと手を振る凪に心配して損した、と彼等はため息を吐いた。
仕方なく円堂と染岡が手を伸ばし、それに掴まる形でプールサイドのアスファルトへ凪は腰を下ろすことができた。アスファルトに落ちた雫が黒々とした染みを作るが、すぐに蒸発して消えていく。普段なら、そのアスファルトの熱で身体を暖めて仕舞いにするのだが、三馬鹿が何故か彼女にプール用のタオルを渡した。訳も分からないが、素直に凪はそれを受け取ると身体を隠すように羽織った。その後ろで風丸がやや安心したように息を吐いた。

「んで、どうしたんだよ」

改めて、と言うように凪が切り出す。
そこで円堂も風丸も、彼女の目元に隈があることに気付いた。一番長い付き合いでも、そうした姿を見たことがない。彼らにも何かしらあっのだと簡単に思えた。
が、ここで問題があった。メイド喫茶に行こう、と馬鹿正直に言っていいのかということだ。悩んだ末に、染岡は嶋田の方へ顔を向けた。

「おい、鳴海を貸りていいか?」
「貸りるって……染岡、どうしたんだ?」
「そのだな……」

メイド喫茶に連れていく、その一言がサッカー部は誰も言えない。そして水泳部はそんなことは分からない。

「だっー!!言えるか!!取り敢えず貸してくれ!頼む!」

半分キレたように染岡が叫んだ。
嶋田はそれを何か考えるように見た後、凪を見る。染岡と凪がとても仲の良い友人であること、円堂と風丸とは一番付き合いが長いこと、それらは分かっていた。恐らく、凪が異様に調子が悪いことを知った上で、何かしにきたのだと、彼は目星を付けた。普段は凪を部長として頼りにしてはいるものの、彼等水泳部の面々は彼女の保護者的な視点も持っていたりする。

「分かった。けど、用が終わったらすぐに返してくれ」
「ねぇ、嶋ちゃん。なんで嶋ちゃんがOKだすの!?」
「いいか、コイツの叔父さんからケーキとか、高カロリーのものあんまり食わすなって言われてるから、何言われても与えるなよ」
「私は動物園の動物か何かかな!?」

水滴を飛ばしながら凪は扱いの抗議をする。それに笑いながら雪野が彼女の背を押し更衣室へと連れていった。暫くするとジャージに着替えて戻ってきたが、その面持ちは不服そうだ。

「いってらっしゃい、凪くん」

雪野や他の水泳部の見送りを受けながら、凪は円堂らと共に水泳部を後にした。他のサッカー部員達と合流すると彼等はメイド喫茶を目指して歩き出した。些かソワソワとしている空気に凪は首を傾げた。

「で、何だよ」

制服のサッカー部達の中で一人ジャージ姿で凪は近くにいた半田の背にもたれ掛かった。当然半田にぐえ、と蛙が潰れたような声を上げるが彼女は体重を掛けたまま流れで足を動かす。

「おい、重いぞ鳴海!」
「いいじゃん、今ちょっと疲れてるんだって。それで、何だ?人連れ出してどこ連れていくんだ?」
「あー、それは、だな……」

サッカー部はそれぞれ別の方向を向きモジモジとしだす。すると、目金が珍しく鼻息を荒げながら言った。

「メイド喫茶ですよ!」

凪は「メイド喫茶?」と繰り返すと更に半田に体重を掛けた。

「確かそれって、メイド服着た女の子が出迎えてくれるお店だよな?」
「そうです。鳴海さんご存知でしたか」
「それはまあ、なんか流行ってるって聞いたことあったから。でも何で?」

メイド喫茶の知識はあったが、連れていかれる理由は彼女には理解できない。不思議そうにする凪の横、咳払いをした染岡へ視線が集まる。それに続くように丸い瞳が彼へと向けられる。

「染さん?」

あーうー、と唸ると染岡はおもむろに凪の頭を掴んだ。

「お前よォ……その、何か今日変だからな。いつもの礼だ!何か奢ってやる!」

ぽかん、したで染岡を見続ければ耳まで羞恥で赤くした染岡が乱暴に頭を揺さぶった。けれど凪は「へへっ」と嬉しそうに笑った。
風丸も円堂も、凪が背中に引っ付いているせいでついでに揺さぶられている半田も、顔を見合わせ小さく笑う。
しかし、それ以外に彼女には疑問があった。

「で、何で円堂達はメイド喫茶に行くことになったんだ?」

ある意味本題だ。
仕方ない、と半田がことのあらましを説明をすると軽蔑したようなわけではないが、顎に手を当て何か考え始める。

「鳴海?」

背中越しに聴こえる唸り声にどうしたのか、と問い掛けると一言、凪は言った。

「いや、世の中には知らない世界があるなーって」

それは誰もが思ったことだった。