マネージャーと心配事

「これは……一体?」

大会書類を手に、理事長室までやってきた凪は扉を開けたままポロリと呟いた。
提出書類作成時、またも校長不在という時に当たってしまったため夏美に判を貰いに来ていたのだが、扉を開けると中ではサッカー部マネージャー達によるお茶会が優雅に開かれていたのだ。驚きもする。

「次は帝国との試合だからマネージャー会議をしていたのよ」

と、紅茶を飲む姿が様になっている夏美が言う。凪の手にした書類で予想が着いたのかそれを渡すよう手を差し出すと、不思議そうな顔で彼女は渡した。すぐに書類に目を通すと夏美は側にいた執事の場虎を呼んだ。

「彼女の分も紅茶を」
「え、いいよ?部外者だし、判子貰ったらすぐ戻るよ」

サッカー部からすれば完全に部外者なのが今の凪だ。なんだかんだ関わってるとは言え、居座ることには躊躇いを感じた。首を横に振るい否定の意を示せば、するりと春奈がその腕を取った。

「良いじゃないですか!ね!先輩!」

狙ったような春奈の行動。実は彼女は同じクラスの水泳部員である三木から凪をどうしたら足止めできるのか等といったことを聞いていたので知っていた。
女子の頼みであればそうそう断ることはしない。後輩からのことであればなおのこと。
未だに謎の多い凪の『カッコいい』の基準だが、紳士のマナーが含まれていることは確かだった。なので春奈の頼みも当然ながら断ることに躊躇いを見せていた。どうしようかと視線をさ迷わせるも、秋も夏美もにこりと笑うだけだ。がくりと肩を落とすと、腕を引かれるまま席に座った。座り心地のいい高そうな椅子に落ち着かないのか凪が何度も座り直していると目の前に紅茶が置かれる。逃げ場は無いのだろうと悟ると、紅茶を淹れてくれた場虎に頭を下げた。

「すみません、ありがとうございます」
「いえ、ごゆっくりしていってください」

学校で淹れたての紅茶を飲むことに若干のワクワクと、緊張をしながら凪はカップに手を伸ばすとスプーンでぐるりとかき混ぜた。

「でもさ、本当にいいの?会議なんだろ?」

不思議そうにことりと凪が首を傾げる。

「ええ!ちょうど鳴海さんに聞きたいなって思うことがあったの!」

と、秋が手を合わせにこやかに笑った。近くにあった用紙を纏めるとそれを机の上に凪が見やすいように広げた。その内容は選手一人一人の身体能力データだった。

「鳴海さん、水泳部の練習メニュー作りとかもしてるって聞いたから、良ければ意見を聞きたいなって」
「うーん、水泳部だからかなり違うような」

陸と水の中、更に言えば使う筋肉の部位も変わってくる。凪がそうした知識をつけ始めたのは水泳部に入ってからなので、水泳特化に近い。そのことを伝えれば秋はそっかぁ、と残念そうに言った。
しかし、食い下がるように春奈が口を開く。

「サッカー部に助っ人してくれた時、色々自分用のトレーニングしてたんですよね!全くできないってわけじゃないと思うんですよ!私!」
「って言ってもなぁ……」

助っ人の時は叔父とその同僚の備流田が鍛えてくれたのだ。水泳部の様に全ての事を自身で決めていたわけではない。恐らく、今彼女らから求められているのはサッカーに関するトレーニングの専門的知識だろう。であるならば、余計にきちんとした知識をつけてからでないと凪はアドバイスはできない。悩んだ末に凪は退院したばかりの叔父を思い浮かべた。

「もし良ければなんだけど、叔父さんに何か分からないか聞いてみようか?」
「叔父さん?」

首を傾げる秋と春奈に凪はうん、と頷く。尚、備流田に関しては口止めされているので言わない。
夏美は凪の叔父を知っていたのか「ああ」と納得するように言った。

「確か善一郎さん、よね?ご職業がスポーツインストラクターだったかしら」
「そうそう!助っ人の時のトレーニングは叔父さん達に見てもらったんだ!」
「先日頭を打って入院されたと聞いたのだけれど、お加減はよろしいの?」
「一応安静に、ってことで今は家でのんびりしてるよ。でも少し意見貰うだけならできるかもしれないからさ」

まぁ、約束はできないんだけど、と頬を掻きながら笑うと夏美は「そう」と素っ気なく言った。一方で春奈と秋はそれは嬉しそうに言った。

「ううん!すっごくありがたいわ!ありがとう、鳴海さん!」

にこにこと二人して顔を合わせ笑っていると、そうだ!と突然春奈が何かを思い出したように手を叩いた。

「鳴海先輩、この間メイド喫茶に行って秋葉名戸学園の人と話したんですよね?」

途端にスン、と凪の顔から表情が消えた。喜怒哀楽、はっきりとしているからこそ『無』の顔は落差が激しく衝撃的だった。その表情を際立たせるように、ぴょこんと跳ねるひとつ結びの髪も垂れ下がっているように見えた。

「あーうん。したよ、一応」
「試合の時に、向こうの選手ですごく会いたがってる人がいたんですが」
「うん、なるほど」

分かりたくなかったけど、分かってしまった。
彼女の脳内に先日のメイド喫茶での恐怖が蘇る。凪の目から完全に光が消え去った。そっと春奈の肩に手を置くと、光の消えた目のままニコリと笑った。

「全力で何も無かった。音無さん、いいね?」

押さえようともしない威圧感。春奈はその圧に静かに頷いた。だが、どうしても見せたいものが有ったのだろう、「ほら、見てください!」と一枚の写真を取り出すと凪の前に置いた。

「……どうしたの、これ」

写真の中ではカメラに向かってピースする秋と春奈。そして青ざめた顔の夏美がメイド服姿で写っていた。

「この間の試合の時、着たんです!」
「私はもう二度と着たくなんてないわ」

即座に答えた夏美に、凪は思わず同情の視線を向けた。それに気付いたのかジロリと彼女を夏美は睨む。けれどその目の奥に羞恥の色が見えたせいか、ただ生暖かな視線を返されるだけだった。

「鳴海先輩はこういう可愛い衣装、着てみたいとかは思わないんですか?」

春奈の目は爛々と輝いていた。けれど、凪も流石にメイド服は着たくない。

「うーん、『カッコいい』がいいから、『可愛い』メイド服は勘弁したい」
「えー、勿体無い……先輩絶対似合うと思うんですけど」
「海里くんみたいなこと言うなぁ……」
「『海里』くん……?」

聞き覚えの無い名前に彼女等は揃って首を傾げた。

「うん、海里くん。私の大好きな人さ」

そう言った凪の表情は、とても穏やかで優しげだった。心から思っているのだろう。つい、見慣れない彼女の表情に春奈は好奇心を擽られた。

「どんな人なんですか?」
「背は私よりずっと大きいくって、ちょっとぼけーっとしてるんだ」

三人の脳内ではそれぞれイメージが組み上げられていくが、とてもあやふやだった。それを見越したのか凪がくすりと笑う。

「流石、私の兄妹って感じでカッコいい人なんだ」
「え、兄妹……?」
「そ、頭良くて優しい自慢の兄さんさ!向こうは仕事があるから、頻繁に連絡取れるわけじゃないけどね!」

人差し指をピンと立て、自慢気に胸を張った。とても彼女が誇らしく思っているのがよく伝わってくる様子に、春奈は机の下で手を握り締め口をつぐんだ。
そんな春奈には気付かず、夏美達は初めて聞く凪の兄の存在に驚いたようだった。すると秋がふふ、と微笑んだ。

「なんだかそう言われると、鳴海さんって妹っぽいなって」
「……え」
「風丸君達といる時の鳴海さんって、ちょっと甘えただなって思ってたの。何だか納得しちゃった」
「甘えた……って、そんなわけないと思うけど……」
「あら、でも私も納得できたけど?」
「えぇ!!?」

秋や夏美の前での行動を思い返すが、特に彼女からしてみれば甘えているつもりは無かった。その思考自体が末っ子気質の現れなのだと言うことは、誰も指摘しなかった。
その時、ぽつりと春奈が呟いた。

「仲、良いんですね」

その視線は何処を見ているのか分からない。

「音無さん?」

寂しさを織り混ぜた複雑な声だ、と凪には思えた。不安に思い咄嗟に名を呼ぶと、ハッとしたように顔を上げる。夏美や秋も心配そうな顔をしていたのに気付くと、春奈は慌てて笑顔を作った。

「あ、いえ!何でもないですよ!そういえば、鳴海先輩!そんな他人行儀な呼び方やめてくださいよー!」

あからさますぎる話題の誘導に何か違和感を三人は感じた。けれど、何故そうしたのか無理に聞き出すことは出来なかった。ただ、困惑したように凪は頬を掻いた。

「えー、いや、でもまだ何か名前呼びするタイミングではないような……」
「タイミングって何ですか!?私のことは『春奈』って呼んでください!」
「あ!私も良ければ『秋』って呼んで欲しいかな」

ぱちくりと目を瞬かせ、凪は少しだけ考えた。彼女のポリシーとして女の子を呼び捨てにするのはそれなりに仲が良くなってから、と言うのがある。馴れ馴れしすぎるのも不味いかな、とそれまでの経験則から作り出したものだったものだったのだが、本人達からの要請である。呼んでも良いだろう。

「じゃあ、秋と春奈……って呼んでも良いかな?」

はにかみながら凪が言えば、ちら、と視線が夏美に向く。ティーカップに口を付けていた夏美は視線をさ迷わせたあと、ソーサにカップを置いた。

「……何よ。別に、好きにしなさい」
「ん!分かった夏美!」

満面の笑みを浮かべる凪の視界の端で、春奈がホッと息を吐くのが見えていた。
心配だな
春奈のことは新聞部に入った頃から知っているため、余計に気になった。彼女が水泳部の後輩の三木と同じクラスでもあるため、それとなく探りを入れてみるかと思いながら凪は言った。

「私のことは『凪くん』って呼んでくれ!」

途端に部屋の空気が冷えたのだった。