佑月さんがいない。そう気づいたのは、食堂を出てすぐだった。木兎さんは黒尾さん達と騒ぎながら先に戻っていく。
「ん、あかーしどうした?」
「佑月さんがいないなって、」
「ツッキーに捕まってるに一票」
「黒尾、なんでそこにツッキー?」
「なんか、佑月のこと気にしてるみたいだったし。赤葦くんほどじゃないけど」
「…探してきます」
「青春ダネェー」なんて黒尾さんに言われて少し面倒だが、胸の奥に小さな違和感が残った。
(……佑月さん)
廊下の先に、佑月さんの背中が見えた。その数歩後ろに、月島。二人の距離は近くも遠くもない。けれど、月島の歩幅がわずかに速い。
追っているのか。そのことに気づいた瞬間、胸の奥が静かにざわついた。
嫉妬、というほど強いものではない。ただ、佑月さんが誰かに向ける“興味”には敏感になる。佑月さんは、誰にでも優しい。けれど、誰にでも心を開くわけではない。その違いを、僕は知っている。
「月島くん」
佑月さんが振り返った。その声は柔らかく、自然で、温度がある。月島の肩がわずかに跳ねた。
あんなでかい月島が落ち着きのない様子で後ろに立っていたら、流石に佑月さんも気づくだろう。
それに佑月さんは、やけに相手の気配に敏い。誰かが自分を見ていると、すぐに気づくし、気づいた相手に対しては、逃げ道を塞ぐように優しく距離を詰める。それが佑月さんの、癖だ。月島も、完全にそのペースに巻き込まれているようだった。
聞き耳を立てるのはよくないとわかりつつも、どうにも二人の空気感が気になる。聞けば、二人はオンラインゲームで知り合っていたのだとか。
「“ケイ”って名前でやってるでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、月島の表情が変わった。驚きと、戸惑いと、少しの嬉しさが見えた。
なるほど。月島が佑月さんについて聞いてきたことは木兎さんの双子だから興味を持ったとかそういうのだけじゃなかったのか。
佑月さんの、人に心を許す空気は、すぐにわかる。声のトーンが半音だけ柔らかくなる。目の奥に、静かな光が宿る。今の佑月さんは、まさにそれだった。
二人の距離が、少し近い。佑月さんは自然に近づく。月島は、逃げない。その光景を見た瞬間、胸の奥に、言葉にならない感情が沈んだ。
それから暫くして二人の間に入ったのは、別に月島を拒んだわけではない。月島にこれ以上、佑月さんを自覚させないため。
佑月さんは俺にとって、温かくて、大切な人だ。その感情を、言葉にするつもりはない。する必要もない。
「また話しようね。続き、まだあるし」
佑月さんがそう言ったとき、月島の目がわずかに揺れた。そっけなく返した声が、ほんの少しだけ柔らかい。
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佑月さんと並んで歩きながら、さっきの二人の距離を思い返す。
「……月島、気に入ったんですか」
佑月は少しだけ目を丸くした。
「え、なにが?」
「さっきの話し方です。声のトーンが違いました」
佑月さんは、ふっと笑った。
「そういうの気づいてくれるんだ、赤葦くん」
その笑顔が、胸の奥に静かに落ちる。気づきますよ。あなたのことなら。言葉にはしない。
「気に入ったっていうか。前から気に入ってたというか…って、ゲームの話ね」
「そうですか。あまり、誰にでもああいう距離を取らないほうがいいです」
佑月は目を瞬かせた。
「距離?」
「佑月さんは人との距離が近すぎます」
「なにそれ、」
「勘違いさせる」
佑月は、少しだけ照れたように笑った。
「俺、男だよ?」
「佑月さんは佑月さんですから」
「じゃあ、赤葦くんと喋る時も気をつけないと」
「またそういうこと…、」
「はは、冗談冗談。それに赤葦くんには慣れてもらう約束だし?」
「…そういうのも他の人には言わないでほしい」
「そういうのって?…なんか、こういう話この間も赤葦くんに言われた気がする」
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。佑月さんは驚いたように目を丸くし、すぐに柔らかく笑った。
「 」
佑月さんに言われた言葉が、ちょうど廊下を抜けた風にさらわれた。
「佑月さん、すいません。風で……聞き取れなくて」
佑月さんが、ふっと笑うように俺の名を呼ぶ。
「赤葦くん」
「はい」
「……ありがとね」
「何がですか」
「探しに来てくれたこと」
「……当然です」
「うん。知ってる」
佑月さんは俺の歩幅に合わせて歩き出す。その横顔を見ながら、胸の奥で静かに思う。
あなたが誰を気に入ろうと、俺は、あなたの隣にいたい。言葉にはしない。けれど、佑月さんには気づいてほしい気持ちもある。矛盾する心に頭が追いつかない。
…さっきの言葉も、本当は。
赤葦くんだけだよと、そう言われたのに、風のせいにして聞き逃したふりをしたのは、俺のほうだった。
それから佑月さんと並んで歩く廊下は、夜の冷気が少しだけ残っていた。その静けさが、さっきの言葉を思い返すにはちょうどよかった。
風のせいにしたのは、ただ、その言葉を受け止める準備ができていなかっただけだ。
「赤葦くん」
名前を呼ばれて、思考が途切れる。
「さっきの、ほんとに聞こえなかった?」
歩みが止まりそうになる。佑月さんは、こちらを見上げるようにして立ち止まっていた。その目は、責めるでもなく、探るでもなく。ただ、俺の答えを待っている。
「……風が強かったので」
嘘ではない。けれど、真実でもない。佑月さんは、ふっと目を細めた。
「そっか。じゃあ、もう一回言お」
胸の奥が跳ねた。逃げ道が、また塞がれる。
「赤葦くんだけだよ。俺が、ああやって言うの」
声は柔らかくて、あたたかくて。それなのに、心臓に直接触れてくる。
「……どうして、俺なんですか」
自分でも驚くほど、声が低かった。佑月さんは少しだけ考えるように視線を上げ、そして、迷いのない声で言った。
「赤葦くんだから」
胸の奥が静かに揺れる。佑月さんは、少し照れたように笑った。
「だから、赤葦くんだけだよ」
その言葉は、さっきよりもずっと近くに落ちた。胸の奥が熱くなる。けれど、言葉にはしない。
「……佑月さん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
答えになってないのでは、と思うがそういうのが精一杯だった。佑月さんは、何も言わずに歩き出す。俺もその隣に並ぶ。歩幅は、自然と揃っていた。