夜の自主練。
第三体育館は、昼間の熱気をまだわずかに残しているのに、どこか静かで落ち着いた空気が漂っていた。蛍光灯の白い光が床に反射し、影が長く伸びる。その中に、昨日と同じメンバーが自然と集まっていた。
人数が足りないからと、黒尾さんに言われて日向の柔軟の相手をしてくれているのは佑月さんだ。
「木兎さんのお兄さんなんですよねぇ!!」
「ん、そうだよ」
「スゲェ!俺、日向翔陽です!いつもドリンクの補充とかあっざす!」
「どういたしまして」
日向の声は、体育館の天井に跳ね返って明るく響く。 その無邪気さに、佑月さんの表情が少しだけ緩んだ。
「あ、あれは月島で……おーい、月島ーお前も挨拶しろってー!」
「した…っていうか佑月さんと僕、元々知り合いだったし」
「えー!なんだよそれ!いいなぁ!!!はいはい!木兎さんのお兄さん!俺も佑月さんって呼んでいいですか!」
「いいよ」
日向の勢いに押されて、佑月さんが少したじろいているようだ。あの佑月さんが、だ。 その珍しい光景に、思わず木兎さんとの柔軟の手が止まってしまった。
「ありゃ、人たらしの佑月くんもおチビちゃんにはたじたじか?」
「す、すみません!!!俺、いっぱい話しかけちゃって」
「んんいいよ…日向くんいい子だし」
日向の人懐っこさは、まるで子犬のように相手の懐に飛び込んでいく。その勢いに、佑月さんが翻弄されているのが手に取るようにわかった。
「なんか妬ける」
柔軟の手が止まっていたのは、俺だけじゃないらしい。
「は?木兎さん、冗談でしょ」
「なんか、気に食わん!」
木兎さんがむすっとした顔をする。その横顔は、まるで弟の座を奪われた!と言わんばかりだ。たしかに日向は、弟ポジションがよく似合う。そして佑月さんは、すでに日向を甘やかしたいとでも言うような、柔らかい目で見ている。その視線の優しさに気づいて思わず頬を緩めそうになった。
「赤葦もそうだろ!」
「いや、俺は日向には…」
言いかけて、言葉を飲み込む。今、嫉妬するべき相手は日向ではなく、月島だ。
「元々知り合いだったし、ね……」
小さくこぼれた呟きは、木兎さんの「はーーー」という大きなため息に紛れて消えた。誰にも届かなくてよかった、と胸の内で安堵する。
「ちょっと行ってくる!!」
「あ、木兎さん…っ、」
佑月さんのもとへ向かおうとした木兎さんと、ちょうど同じタイミングで灰羽が体育館に入ってきて、空気を切り替える。
「試合やりましょうー!俺、柔軟は夜久さんのとこで済ませてきたんで!」
「逃げてきたの間違いじゃねぇだろうなー?」
「く、黒尾さん、そんなわけないじゃないですか!さっさ!昨日の続きやりましょ!」
そのまま自然な流れで3対3が始まった。
日向のおだて上手に乗せられた木兎さんは、すっかり上機嫌で必殺技まで教えている。あぁ、本当にこの人は単純だ。そう思うと、少しだけ笑えてくる。
そんな様子を眺めていると、佑月さんがスコア表を手にこちらへ歩いてきた。足音は静かで、けれど確かにこちらへ向かってくる。
「つけてたんですか、練習なのに」
「練習がてらね……見てもらってもいい?」
「はい」
受け取ったスコア表は、丁寧で正確な字で埋められていた。その几帳面さに、思わず感心してしまう。ノートとかもこんな感じなんだろうかと、余計なことまで考える。
「ペン借りれますか…ここは、斜線で…で、ここは…」
そう続けると、佑月さんは真剣な顔で、俺が修正するスコア表を見る。
「ん、これで合ってます。大丈夫ですよ」
「赤葦くん、ありがと」
「どういたしまして。あんまりバレー詳しくないって聞きましたけど」
「そうなんだけど、なんか力になりたいと思って…可愛いよな」
その言葉に、一瞬だけ驚いた。でも、佑月さんの視線は、木兎さんと日向へ向けられている。
「あんな目、キラキラして。バレー好きなんだ」
その目は、完全に兄のそれだった。「よし、続き始めんぞー」と、黒尾さんが場を仕切る。
「頑張ってね」
「ありがとうございます、」
佑月さんの言葉が胸の奥に落ちて、波紋のように広がっていく。心臓だけが勝手に反応してしまう。
佑月さんが、定位置の得点ボートの横へ戻る。最近よく、佑月さんの顔を見て思ったが、彼の横顔は、どこか木兎さんに似ている。が、決定的に違うのは、柔らかさと、包み込むような温度。それが、ずるい。
試合が進むにつれて、日向の明るい声が響いた。
「木兎さーん!今のもう一回おなしゃす!」
その声に、木兎さんが嬉しそうに応じる。あの人は単純で、真っ直ぐで、だからこそ誰よりも眩しい。そして、その眩しさに似た光を、佑月さんも持っている。いや、似ているだけじゃない。兄弟なのだから当然なのだけど。
そのとき、コートの中央で木兎さんが大声を上げた。
「ヘイヘイヘーイ!赤葦ー!見てたか今の!完璧だっただろ!」
その声に、現実へ引き戻される。いつもの木兎さんだ。その存在が、どこか安心させてくれる。
「はいはい。見てましたよ」
返事をしながら、ふと佑月さんのほうを見る彼は、木兎さんを見つめながら、どこか誇らしげに微笑んでいた。
あぁ、やっぱりブラコンだ、この人は。
「だよな!?だよなーーっ!!」
木兎さんは嬉しさを隠す気もなく、子どものように笑った。その笑顔は、昔から変わらない。真っ直ぐで、嘘がなくて、見ているだけで空気が明るくなる。
木兎さんの笑顔に返事をしたあと、今度は木兎さんがこちらへ駆け寄ってくる。
「赤葦ーーっ!!今の、マジで良かったよな!!」
勢いのまま肩を掴まれ、身体がわずかに揺れる。汗の熱が伝わってきて、さっきまでの静かな感情が一気にかき消される。
「……はいはい。良かったです」
「だよな!?赤葦は分かってくれると思ってた!」
「スッゲー!俺もあんなスパイク決めてみたいです!!!」
日向と木兎さんの笑顔に返事をしたところで、体育館の中央から黒尾さんの声が響いた。
「おーい!そこの三人、試合続けんぞー!」
その声は、空気を一気に切り替える。黒尾さんの声は、いつもどこか軽いのに、ちゃんと全員を動かす力がある。
「ほら木兎、戻れ戻れ。試合止まってんぞ」
黒尾さんが向かい側のコートから、手をひらひらと振る。その仕草に、木兎さんは「あっ」と声を上げて慌てて自分のポジションへ戻った。
「赤葦ー!俺のかっこいいやつ!ちゃんと見てろよー!」
「はいはい」
返事をしながらも、胸の奥のざわつきはまだ残っていた。コートの向こうから黒尾さんが声を張る。
「じゃあサーブいくぞー!日向、ちゃんと構えろよー!」
「はーい!」
日向の明るい返事が体育館に響く。その声に、木兎さんもすぐ反応する。
「よっしゃー!来い黒尾ー!」
黒尾さんがサーブの構えに入ると、体育館の空気が一瞬だけ張り詰めた。その緊張感が、さっきまでのざわつきを少しだけ押し流してくれる。
やっぱり、バレーはいい。
そう思った瞬間、視界の端に佑月さんが映った。スコア表を持ったまま、コートの動きを静かに追っている。
その横顔は、やっぱりどこか木兎さんに似ていて、でも決定的に違う。柔らかくて、温かくて、見ているだけで胸の奥がざわつく。
黒尾さんのサーブが放たれ、試合が動き出す。ボールの音、踏み込む足音、掛け声。そのすべてが体育館に響いて、空気が一気に熱を帯びる。
その中で、佑月さんがふとこちらを見た。目が合った。ほんの一瞬だったのに、心臓が跳ねる。
佑月さんは、柔らかく微笑んでから視線をコートへ戻した。
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試合が終わると、体育館には一気に緩んだ空気が広がった。汗の匂いと、まだ残る熱気。その中で、日向は相変わらず元気いっぱいに跳ね回っていた。
「日向、すごいね。こんな高く飛べるんだ」
「うおお、佑月さん!びっくりした」
「日向はなんでバレーやろうと思ったの」
「俺、烏野の小さな巨人に憧れて!」
佑月さんは、日向の話を聞きながら、試合中と変わらない柔らかい笑顔で見守る。
右手がぴくりと動くが、動いた途端何かを思い出したように首を左右に振る。
「佑月さん、どうしたんですか…?」
「なんでもない。続けて」
「それで!俺、あの試合見た時から…!」
日向は嬉しそうに目を細めて、さらに距離を詰める。目を輝かせて離す日向が随分可愛いらしい。可愛い犬を見かけた時の、飼い主に触ってもいいですかと言わんばかりのあの顔。
(頭、撫でたいのか)
さっさと撫でればいいのに、と思ったが、もしや俺が言った「他の人にそういうことをやるな距離近すぎる」を守っているのではと思い始めた。
「日向、佑月さんに頭撫でさせてあげて」
「頭ですか…?恥ずかしいけど…どうぞ」
「…っ!!」
佑月さんは、いつもより柔らかい笑顔で日向の頭をぽんと撫でた。俺はいい、別に。ただ日向にアレなのは、木兎さんだ。
「おい……」
低い声が横から聞こえた。振り返ると、案の定、木兎さんがむすっとした顔で立っていた。
「なんか……気に食わん」
またそれだ。今日何回目だろう。
「木兎さん、またですか」
「だって赤葦!見ろよあれ!佑月、ずっと日向の相手してんじゃん!」
指差す先では、日向が無邪気に騒ぎ、佑月さんはそれを見て笑いながら相手をしている。たしかに、しばらく離れる気はなさそうだ。
「弟ポジション、完全に取られてるじゃん俺……」
「木兎さん、どんまいです」
「あかーし!ひどい!!」
木兎さんは本気で拗ねている。
「赤葦、なんとかしてよ……」
「なんとかって言われても」
「だって!あれ!あれ!佑月、日向のことめっちゃ可愛がってるじゃん!」
言われなくても見えている。それでも相手が日向なら俺は全然大丈夫なんですよ、木兎さん。
「木兎さん、とりあえず落ち着いてください」
「落ち着けるかー!!」
声が体育館に響いて、日向が「え?」と振り返った。佑月さんもつられてこちらを見る。
「光太郎、どうしたの?」
「なんでもない!!」
即答だった。その勢いに日向が首をかしげ、佑月さんは少しだけ困ったように笑う。
「光太郎、拗ねてるんだろー?」
「拗ねてない!!」
拗ねている。佑月さんは日向の隣から一歩だけこちらへ歩いてきた。
「光太郎、今日は日向くんが可愛かったから、つい構っただけだって」
「俺だって可愛いだろ!!」
「はいはい、可愛いよ」
その言い方が完全に“兄”だ。それからまた日向の場所へ戻ってそこに今度は月島と黒尾さん、灰羽も加わって、余計に木兎さんは余計にむくれた。
「赤葦……なんか悔しい……」
「はいはい。分かりましたから」
俺はため息をつきながら、木兎さんの背中を軽く叩いた。
「とりあえず、深呼吸してください。あとで佑月さんに話しかければいいでしょう」
「……話しかけていい?」
「いいですよ。兄弟なんですから」
そう言うと、木兎さんは少しだけ表情を緩めた。
「それに、拗ねてるの、佑月さんにバレてますよ」
「……バレてる?」
「バレてます」
木兎さんは一瞬だけ迷ったあと、「じゃあいいや!」と、佑月さんのほうへ歩いていった。
「佑月、……」
「ん?」
「……ぎゅーしていい?」
体育館の空気が一瞬止まった。日向が「えっ」と声を漏らし、月島が「……は?」と眉をひそめる。佑月さんは一瞬驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「いいよ。おいで」
その瞬間、木兎さんは子どものように佑月さんの胸に飛び込んだ。
「バカ兄貴」
「はいはい。ごめんね。光太郎」
佑月さんは優しく木兎さんの頭を撫でる。
その手つきがあまりにも自然で、胸の奥がまたざわついた。
日向と灰羽はぽかんと口を開けていて、月島は呆れたようにため息をついた。
「いつもこんな感じなんですか、この人たち」
「まぁ、大体こんな感じですよね、黒尾さん」
「そ、こんな感じ」
すでに見慣れてしまったこの光景に驚くのは致し方ないだろう。
「……面倒くさい弟ですね」
「ツッキー、聞こえてるぞ!!」
「聞こえるように言ってます」
そんなやり取りを聞いていると、突然、横から明るい声が飛んできた。日向だ。勢いよく駆け寄ってきて、目をキラキラさせている。
「木兎さんって、あんな感じなんですね、!」
「……あんな感じ、とは?」
「いや、なんか……俺、初めて見ましたよあんな木兎さん!」
日向は楽しそうに笑っている。その無邪気さに、少しだけ救われる気がした。
「まぁ……兄弟の前だと、あんな感じ」
「へぇ〜!」
日向はさらに続ける。
「佑月さんも、めっちゃ優しいし…あれ、ずっと見てる赤葦さんも、」
「……日向、見てない」
「え、見てましたよ?ずっと、こう……じーっと」
日向は目を細めて、俺の顔を覗き込んでくる。意外と鋭いな。その観察力の鋭さに、思わず視線を逸らした。
「……日向」
「はい!」
「声が大きい」
「あっ、すみません!」
日向は慌てて口を押さえたが、目だけは好奇心で輝いていた。
「でも……なんか分かりますよ。佑月さん、めっちゃ優しいし、話しやすいし……あれは、好きになっちゃう人多そうっで、」
「……っ」
心臓が跳ねた。日向は悪気なく言っているのが分かる。だからこそ、余計に刺さる。
「僕も好きになってるかも」
「はー?月島、突然入ってくるなよ!びっくりした!」
「黒尾さんがブラコン二人は置いて、夕飯行こうって……赤葦さんも一緒に行きましょ」
「あぁ、うん」
視線を向けると、まだ木兎さんは佑月さんにしがみついていて、佑月さんは「はいはい」と笑いながら頭を撫でている。
そんな微笑ましい光景なのに、月島の言葉に、ただ、胸の奥がざわついて、落ち着かなかった。