蛍の手をそっと離したあと、夜風が肌に触れた瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。
ごめん、蛍。言葉にしなくても、胸の奥で何度も繰り返していた。蛍の顔が、あんなふうに揺れるなんて思わなかった。
泣きそうでもなく、怒っているわけでもなく、ただ静かに受け止めてくれた蛍の表情が、逆に胸に刺さったまま、蛍は部屋に戻っていった。
俺、ちゃんと向き合えたかな。蛍の気持ちを否定したわけじゃない。でも応えられない。それだけは、嘘をつけなかった。
「蛍は強いな…」
蛍の気持ちを大事にしたいからこそ、俺は自分の弱さで返事を曖昧にしようとした。でも蛍は、逃げ道を作らずに答えを求めた。もし自分がその立場だったらと思うと、胸の奥の痛みはしばらく消えなかった。
部屋へ戻る途中、夜空を見上げる。星は綺麗なのに、さっきまで見えていた月は雲に隠れていた。…月も俺を見離す。
「あぁ、こんな時に赤葦くんに会いたいと思ってる」
触れられた指先の温度。
抱き寄せられた腕の強さ。
名前を呼ばれたときの声。
全部が、胸の奥に残っている。
蛍の気持ちを断った理由も、赤葦くんの顔が浮かんだからだ。それが一番残酷だとわかっているのに、胸の奥は赤葦くんを求めてしまう。
「……本当、俺、最低だ」
自分に向けて呟いた声は、夜の静けさに溶けていった。でも、その“最低”の中にある気持ちは、どうしても消えなかった。
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部屋に戻ると、部屋の前で赤葦くんが静かに立っていた。
「……佑月さん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ和らいだ。
「赤葦くん」と、自分でも驚くほど弱い声が出た。
「暑くて、寝苦しかったので…」
そう言って、俺に話しかけてくれる赤葦くん。理由はどうあれ、隣の布団に俺がいないことに気づいたんだと思う。
「ありがと、部屋戻ろう」
部屋に入るなり。光太郎の布団は膨らみはあるが、寝ているらしい。
「…寝れそうですか」
「うん…赤葦くんの顔見たら、なんとか」
赤葦くんは、ゆっくり頷いた。責めるような気配は一つもない。
布団に入っても目に浮かぶのは先ほどの蛍のことだ。蛍といる時は赤葦くんのことを考えて、赤葦くんといる時には蛍のことを考える。そんな自分が嫌になる。
「やっぱり寝れないですか」
赤葦くんのその言い方が、まるで全部わかっているみたいで、胸が熱くなった。
「手、貸してください」
布団から手を出すと、ぎゅっと握られる。赤葦くんに手を握られた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。蛍の気持ちを断ったばかりで、胸の奥はまだ痛いはずなのに。
なのに、赤葦くんの手の温度が触れた瞬間、その痛みが少しだけ和らいだ。
(……俺、本当に最低)
蛍のことを考えて胸が痛むのに、赤葦くんの手を握られたら安心してしまう。
そんな自分が嫌なのに、手を離したくなかった。
「佑月さん、」
赤葦くんの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……っ、」
胸が跳ねた。こんな声、ずるい。
布団の中で、握られた手がじんわり熱くなる。
赤葦くんの手……あったかい。意識した瞬間、心臓がうるさくなる。蛍のことを考えていたはずなのに、赤葦くんの手の温度が全部上書きしていく。
「佑月さん」
「……なに」
「泣きそうな顔してますね」
「暗くて見えないだろ…」
「泣きそうなんですね」
その言い方が優しすぎて、胸がまた痛くなる。赤葦くんは、握った手に少しだけ力を込めた。
「誰かの気持ちに応えられないのは、悪いことじゃないです」
「……赤葦くん」
「優しいから、苦しいんですよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
「なんでもわかっちゃうんだ、赤葦くん、」
「佑月さんが悩むことって、自分の事じゃない時の方が多いですから」
「……っ、」
「でも……」
赤葦くんの声が、少しだけ低くなる。
「佑月さんが、誰を見ているのか……それは分かりません」
「……っ」
心臓が跳ねた。息が止まる。赤葦くんは、俺の手を離さないまま続けた。
「佑月さん、誰を思い浮かべてる?」
赤葦くんの指先が、俺の手をそっと撫でた。その触れ方が優しくて、胸が苦しくなる。
赤葦くんの名前を呼びたいのに、声が出なかった。好きだって言いたいのに、言えない。
でも赤葦くんの手を握り返した瞬間、胸の奥ではっきり形を持った。
「佑月さん」
「ん?」
赤葦くんは、握った手をそっと包み込んで、少しだけ息を吸って、静かに続けた。
「俺は、佑月さんが好きです」
その言葉が落ちた瞬間、時間が止まったみたいだった。胸の奥がぎゅっと縮まって、息がうまく吸えない。赤葦くんの手は、まだ俺の手を包んだまま。その温度が、告白の重さをさらに強くする。
(……赤葦くんが、俺を……?)
返事をしなきゃいけないのに、声が出ない。頭の中が真っ白で、心臓の音だけがうるさく響く。赤葦くんは、俺の反応をじっと待っていた。逃げ道を作らず、でも追い詰めるわけでもなく、ただ静かに。その優しさが、逆に苦しい。
「赤葦くん……俺……」
やっと声が出た。でも、その先の言葉が喉でつかえて出てこない。赤葦くんの瞳が、薄暗い部屋の中でまっすぐ俺を見ている。その視線に触れた瞬間、胸の奥が熱くなって。
言いたい。でも言えない、理由がある。
そんな自分が嫌で、情けなくて、それでも赤葦くんの手を離せなかった。赤葦くんの名前を言いかけた、その瞬間。
「……佑月ぃ……おにぎり……食べる……?」
部屋の隅から、くぐもった声が聞こえた。
「…………」
「…………」
俺と赤葦くんは、同時に光太郎の布団を見る。光太郎は、布団をかぶったまま、寝返りを打っていた。
「……おにぎり……三つ……」
静かな部屋に、寝言が響く。
「…………」
「…………」
空気が、完全に壊れた。暗闇に慣れたのか、若干赤葦くんの顔が見える。ほんの一瞬だけ目を伏せて、次に顔を上げたときには、いつもの冷静な表情に戻っていた。
「……光太郎さん、寝てますね」
「……うん。全力で寝てる」
さっきまでの緊張が、嘘みたいに消えていく。胸の奥にあった熱も、痛みも、全部どこかへ飛んでいった。赤葦くんは、俺の手をそっと離した。でも、その指先が名残惜しそうに触れたまま、ゆっくり離れていく。
「……返事は、今じゃなくていいです」
その声は、さっきよりずっと優しかった。
「佑月さんが落ち着いたときで」
胸がまた熱くなる。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。光太郎の寝言が、また聞こえた。
「……佑月……おにぎり……食べる……」
「……はいはい」
思わず小声で突っ込むと、赤葦くんが小さく笑った。
「木兎さんらしいですね」
「……ほんとに」
「佑月さん、おやすみなさい。好きです」
「っ、おやすみ」
不意打ちの好きを食らって、思わず布団の中で顔を覆った。何度も何度も赤葦くんの好きが頭の中で反響して、胸の奥が落ち着きそうもなかった。
ただ、俺も赤葦くんが好きだけど、この気持ちは言葉にはできない。しちゃいけないと、そう自分に言い聞かせて目を瞑った。