俺が起きた時にはすでに佑月さんの姿はなかった。そういえば雀田さんが体調不良で仕事を手伝うんだと話をしていたな、とまだはっきりしない頭で考える。
「木兎さん、おはようございます」
「お、起きたかーあかーし!おはよー」
「朝からテンション高いですね」
「ん、佑月にいっぱい褒められたからなー!」
相変わらずこの人は単純だ。
「あ、ちなみに寝ぼけてあかーしの布団握って寝たぞ、佑月」
木兎さんが布団の端を握って見せる。
「そうですか……」
言葉は淡々としているのに、胸の奥がじんわり熱くなる。寝ぼけて俺の布団を握っていた、そんな些細なことが、どうしようもなく嬉しい。
「おう!じゃ、さっさと準備して朝飯食いにいこーぜ!」
木兎さんに背を向けながら、緩んだ口元を隠す。俺も十分単純だ。
「赤葦はさー、佑月のこと好きなのー?」
食堂へ向かう廊下で突然そんなことを言われ、一瞬足が止まった。
「…佑月さんのことが好きじゃない人なんかいないですよ」
「んーそれもそうか…そうだな!俺も好きだ!」
「そうですね」
木兎さんの“好き”と、俺の“好き”は違う、そんな気はしたが、深く考えるのはやめた。その違いを、今は俺はまだ言葉にできないからだ。
「あ、木兎と赤葦だ。おはようー」
「おはー」
「おはようございます、白福さん」
「早速なんだけど、赤葦にお願いしたいことがあってー」
「俺ですか?」
「そうそう、佑月のこと迎えに行ってほしーの」
食堂につくなり、白福さんに佑月さんを迎えに行ってほしいと体育館へ向かうよう言われた。木兎さんが行きたがったが、白福さんが「赤葦じゃなきゃだめー」なんて言うから木兎さんが少ししょんぼりした姿を見せて俺を睨んできた。
どうやら木兎さんは、昨日の弟モードがまだ残っているらしい。もっと機嫌が悪くなる前に佑月さんを連れて来ること、と白福さんから任務を託され、俺はその場から離れた。
▼
体育館に入った瞬間、視界の端で何かが動いた。よく見れば、それは佑月さんだった。
モップがけを終えたばかりの床に、無防備に寝そべって、胸のあたりに置かれた両手は力が抜けていて、指先が少し丸まっている。また寝てるのかと、呆れたはずなのに、胸の奥がふっと緩む。
「佑月さん、」
「ん、赤葦…くん?なんでここに」
眠気でとろけた声。そんな声で名前を呼ばないでほしいと思った。
「白福さんに食堂で聞きました。そろそろ仕事終わるだろうから迎えに言ってほしいって…そんなとこで寝たら流石に風邪引きますよ。朝食行きましょう」
手を伸ばすが、佑月さんはまた目を閉じる。…佑月さんは起きる気はないらしい。
「佑月さん」
呼ぶと、まつげが震える。 その小さな反応が、妙に愛しい。眠いときのこの人は、本当に反応が鈍い。近づいて、もう一度呼ぶ。
「……佑月さん」
今度は、眉がほんの少しだけ寄った。その動きが妙に柔らかくて、目を逸らせなくなる。
「眠たいときのわがままなところは、木兎さんによく似てると思います」
わざと近くで言うと、佑月さんの口元がゆっくりと緩んだ。目を閉じたまま、笑っている。
(……目瞑ってると、本当に木兎さんにそっくりだ)
「……褒めてる?」
目を開けないまま、少しだけ首を傾ける。その仕草が、眠気で緩んだ猫みたいで、反応に困る。
「褒めてません。事実を言っただけです」
「木兎さんの話すれば起きると思ったのに」
「赤葦くんも俺のことブラコン扱いするんだ」
「…も?」
「蛍にも言われた」
「まぁ、事実じゃないですか」
そう返すと、寝返りを打つ佑月さんの頬が、床に押しつぶされて幼く見える。その無防備さが、胸に刺さる。可愛い。
「……佑月さん、起きてください」
さっきより近い声になってしまったのは、自覚している。それでも佑月さんは、まぶたを閉じたまま小さく唸った。
「あと五分……」
その声が、眠気で少し掠れている。その掠れ方が、また俺の胸を締め付ける。本当に可愛い、なんなんだこの人。
「五分で起きた試しがないでしょう」
図星を突くと、佑月さんは唇をきゅっと結んだ。反論したいけど眠気に負けている、そんな顔。
仕方ないかと、そっと手首を掴む。触れた瞬間、佑月さんの指がびくっと小さく動いた。驚いたのか、眠気のせいか分からない。ただ、その反応が妙に胸に残る。
「立てますか」
「……赤葦くん、優しい」
目を閉じたまま言うその声が、少し甘い。眠気のせいだと分かっていても、心臓が跳ねる。
「優しくしないと起きないでしょう」
ゆっくり身体を起こす佑月さんに、先ほどの『蛍にも言われた』の、言葉が引っかかる。
また月島にちょっかい出されたのか、この人は。月島も隅には置けないやつだと思った。
「っわあ、」
ちょっとした出来心。掴んでいた腕を引き寄せるとバランスを崩した佑月さんが、俺の胸元に倒れ込んできた。佑月さんの手が、俺の胸のあたりを掴む。指先に力が入っていないのに、妙に熱い。
佑月さんとの、顔が近い。まつげの一本一本が見える距離。
「あ、赤葦くん、」
見上げてくる目が、まだ眠気を引きずっていて、とろっとしててやっぱり可愛い。その曖昧な視線が、また胸を締めつける。
「また月島と会ったんだ」
自分でも驚くほど低い声が出た。佑月さんの目が、少しだけ丸くなる。その反応も、胸に刺さる。
「手伝ってもらった…だけです…」
言い訳するように、俺の胸元に置いた手が少し動く。その動きが、くすぐったいほど意識に触れる。どうしてこの人はこんなに俺の興味を惹くんだろう。
「……恥ずかしい」
佑月さんの、その一言で、頭が真っ白になった。慌てて手を離すと、佑月さんは一瞬だけまばたきをして、それから視線を逸らした。あぁ、本当にそんな顔、するのもずるい。
「すいません。調子乗りました」
きっと俺も佑月さんと同じような顔をしているんだろうなと、他人事のように思った。
「…じゃあ」
「うん」
体育館を出ると、朝の光が差し込んできた。佑月さんが肩をすくめる。その仕草が、寒さより眠気に負けているようで、放っておけなかった。気づけば、ジャージを肩にかけていた。
「汗、冷えますから。……さ、行きましょう」
佑月さんは驚いたように目を瞬かせて、それから、少しだけ笑った。佑月さんの笑顔が、朝の光に照らされてゆっくりとほどけていく。その一瞬を見ているだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
(……あぁ、好きだ)
胸の奥に落ちたその言葉が、静かに広がっていく。
名前を呼ばれるたび跳ねた胸も、
触れた指先の温度が残る理由も、
全部、ひとつだった。
「赤葦くん、行こっか」
佑月さんが振り返って、軽く手を振る。その仕草が、どうしようもなく愛しい。
「……はい」
返事が少し遅れたのを、自分でも分かっていた。けれど佑月さんは気づかない。気づかないまま、俺の前を歩いていく。その背中を見ているだけで、胸がまた熱くなる。
可愛い。触れたい。
好きだと自覚した瞬間から、世界が少し変わってしまった。佑月さんの一つ一つの仕草が、さっきより鮮明に胸に刺さる。
体育館の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。朝の空気は冷たいのに、俺の体温だけが上がっていく。
この気持ち、隠せるだろうか。そんな不安が胸をかすめた瞬間振り返った佑月さんが、いつもの笑顔で俺を見る。
「なんですか?」
「んーなんでもない。いい天気だなと思って」
その笑顔に、また胸が跳ねる。
「……そうですね」
声が少しだけ震えた。佑月さんは気づかない。気づかないまま、俺の横に並んで歩き出す。
その距離が、やけに苦しい。もう誤魔化せない。静かに、確かに、胸の奥で形になっていた。
▼
午前中の練習試合。
体育館へ向かう途中、木兎さんはずっと落ち着かなかった。雀田さんのことを気にしているのだろう。歩幅がいつもより速くなったり、急に立ち止まったり、そわそわしているのが分かる。
「光太郎」
だが、体育館に入るなり、佑月さんの姿を見つけた瞬間、木兎さんは迷いなく駆け寄った。
「佑月?」
「雀田の代役」
その言葉を聞いた木兎さんの顔が、一気に明るくなる。 部員たちが集まり、雀田さんの体調に問題がないこと、そして佑月さんが代役を務めることが伝えられる。
「よっしゃー!じゃあ雀田が元気になれるようにと!佑月にかっこいいとこ見せないとなー!まずは一勝!!!」
その言葉に、佑月さんが少し笑う。その笑顔に、胸がまた跳ねた。
試合は梟谷がフルセットで勝った。木兎さんの調子は驚くほど良く、託したボールが次々と決まっていく。
そのたびに、佑月さんが小さく頷いたり、嬉しそうに笑ったりする。その横顔が視界に入るたび、胸の奥がざわついた。佑月さんが“部の一員”として立っている光景は、思っていた以上に自然だった。
「お疲れさまーこれどうぞ」
試合が終わった後、体育館の端の方で、休んでいると佑月さんからボトルを差し出された。佑月さんを見たその一瞬で、心臓が跳ねる。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ緊張したのを、自分でも分かっていた。 けれど佑月さんは気づかず、スコア表を差し出してくる。
「飲みながらでいいんだけど…これスコア表。今日は聞きながらやったから大丈夫だと思う」
横に立つ佑月さんは、十分近い。けれどスコア表を見るには少し遠い。
だから、自然と一歩近づいた。肩が触れそうな距離。呼吸の音が聞こえそうな距離。
近すぎたか、と後悔が胸をかすめるのに、離れられなかった。
「…大丈夫です。問題ありません」
そう言いながらも、視線はスコア表より佑月さんの横顔に引っ張られる。汗で少し濡れた前髪。真剣にスコア表を見る目。喉が上下するたび、胸がざわつく。
「ありがとう」
真剣な横顔が、思っていた以上に綺麗で、目が離せなくなった。
木兎さんの話をしながら、佑月さんにボトルを返そうとした瞬間、お互いの指に触れた。
「……っ、ごめん。受け取る」
佑月さんの声が上ずる。その反応が、胸に刺さる。照れてるのか、可愛い。佑月さんと、触れた指先の温度が、まだ残っている。その温度が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
「佑月さん、」
さっきの反応。指が触れた瞬間、佑月さんの声が上ずった。驚いたような、照れたような、そんな声。触れ合ったのは初めてじゃないはずなのに、あの反応。もしかして、俺だけじゃなかったのか?と、ふと、そんな考えが胸をかすめた。
佑月さんの頬が少し赤かった。 視線を逸らした。 指先が震えていた。
全部、偶然じゃないように思えてしまう。
いや、違う。すぐに否定する。そんな都合のいいこと、あるわけがない。佑月さんは誰にでも優しい。
木兎さんにも、月島にも、後輩にも。俺だけ特別扱いされる理由なんて、どこにもない。
俺が勝手に意識してるだけだ、そう言い聞かせる。けれど、胸の奥のざわつきは消えない。
佑月さんがスコア表を覗き込んだとき、肩が触れそうな距離まで近づいた。そのとき佑月さんは、少しだけ息を呑んだように見えた。
気のせいだ。そう思いたいのに、思えない。
ボトルを返すとき、指が触れた。その瞬間、佑月さんの指が小さく跳ねた。
あぁ、だからあの人の距離感は期待してしまいそうになるんだ。
いや、違う。違うだろ。必死に否定する。期待なんてしてはいけない。
佑月さんは、俺なんかよりずっと人に好かれる。誰にでも笑って、誰にでも優しくて、誰にでも距離が近い。俺だけに、じゃない。
そう思った瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
佑月さんが、俺のことを特別に思っているなんて、そんなこと、あるはずがない。
もし、ほんの少しでも…、と、そこまで考えて、慌てて頭を振った。胸の奥の熱は、どうしても消えてくれなかった。