合宿一日目の夕食。食堂いっぱいに広がるカレーの匂いが、疲れた身体にじんわり染みていく。
大鍋の前には長い列ができていて、部員たちの声があちこちで飛び交っていた。
「あっ! 佑月みっけー!」
木兎は相変わらずのテンションで、自分の分を受け取るなり、まるで宝物でも見つけたみたいに一直線に佑月の席へ向かっていく。ほんと、あいつはブレないな。
「赤葦くんはー?あっち行かないの」
「俺は…あっちが空いてるんで」
赤葦は少しだけ視線を逸らしながら、梟谷の部員が固まっている席を指した。赤葦のあの微妙な間は、ただの気分じゃない。
「ふぅん。じゃあ、俺が行ってこよ」
本当は行きたいくせに。そう言いながら、赤葦の肩を軽く叩いてから佑月の方へ向かった。
なんかあったな、これ。赤葦から聞くのは難しいだろう。だから俺は、佑月から聞くことにして、佑月の隣に腰を下ろした。
「はぁ、なんか俺、赤葦くんに嫌われてるかも」
佑月はカレーを混ぜながら、ため息をひとつ。その言葉に、俺と光太郎は同時に?を浮かべた。なになにこっちもこんな感じになっちゃってるの。
「赤葦が佑月のこと嫌う事なんてナイナイ。マジでありえない」
「…クロに言われてもなんか説得力にかける」
「木兎もそう思うだろう?」
「おう、なんでそう思うんだ?」
「なんか避けられてる気がする」
おいおい。少女漫画の勘違いすれ違いイベントかよ。
「まぁそんなことないと思うけど。なに、佑月くんったら赤葦くんと仲良くしたいの?」
「せっかく同室になってもらったし、なんか悪いじゃん」
「ふぅん。赤葦くんはお前の寝起きの悪さ知ってるの?」
「知らないけど、光太郎もいるしなんとなるだろ?…俺も、さすがに赤葦くんに迷惑かけたりはしないと思うし」
さっきから赤葦くん赤葦くんって。去年とは明らかに違う。無意識に特別扱いしてるの、本人だけが気づいてない。それが第三者の俺からすると、見てて飽きないから面白い。
「じゃあ、部屋戻る時一緒に戻れば?」
「お、それいいじゃん!佑月!」
「…確かに。じゃあ、食べ終わったら声かけ…」
「ダメダメ!今だろ、今、声掛けろって」
「は?今?」
「そ、今」
我ながら悪い笑顔をしてしまった気がするが、 佑月は気づいていない。 ほんと、こういうところが素直で可愛いと思う。
「赤葦くーん!」
佑月が名前を呼んだ瞬間、赤葦はまるで反射神経テストでも受けてるみたいな速度でこちらを向いた。あー面白。好きすぎだろ。
「部屋戻るとき、一緒に戻ろー?」
ほら、見ろ。俺に感謝してほしいぐらいだ。赤葦は一瞬だけ目を瞬かせてから、「はい」と短く返事をした。
「クロ…これでいいわけ?赤葦くん、なんかちょっと嫌がってなかった?」
「アレのどこが嫌がって見えるのよ、佑月くん。ありゃ赤葦くん、完全にアウトだな」
「ん、黒尾何がー?」
「木兎、食いながら喋るなよ。いやぁ……自覚ないのが一番おもしろいよねぇ」
佑月も、赤葦くんも。どっちも自覚ゼロで、どっちも相手を気にしてて、どっちも気づいてない。青春ってやつは、見てる側が一番楽しい。
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と、そんなことを、思い出したのは合宿6日目のこと。長いようで短い合宿も、あとわずかとなった。短く感じるというのは毎日充実していた証拠なのだから、いい事なんだろう。
「…あとは佑月と赤葦か」
この合宿の5日間で、どうやら少しは進展があった。いや、進展というより、何かが動き始めたと言った方が正しいかもしれない。そのきっかけのひとつは、間違いなく 月島 蛍 の存在だ。ツッキーの登場は、静かな湖面に石を投げ込むみたいに、佑月と赤葦の距離に波紋を広げたと思う。
「ツッキー、お疲れちゃんー」
「あぁ、黒尾さん。どうも」
休憩中、声をかけたツッキーは相変わらず淡々としている。でも、その目の奥に、昨日とは違う色があった。
「今日も夜、練習やるから来いよー佑月も誘っとく」
「はい、行きます。あぁ、それと僕、昨晩佑月さんに告白して振られました」
「えっ、まじで」
あまりにもさらっと言うから、飲んでた水を吹きそうになった。
「言わなくても、その内雰囲気で黒尾さんには気付かれそうですし、言っときます」
「俺はちゃんと忠告してあげたからね、ツッキー」
「…はぁ、まぁ後悔はしてないですし。佑月さん、あんな感じで変わらないですしね」
月島は肩をすくめて笑った。その笑い方が、妙に大人びていて、ちょっと悔しい気分になる。
「ツッキーって俺が思ってたより凄いわ」
「黒尾さんみたいに意気地なしじゃないので」
「…俺は、佑月くんとは末長くいいお友達でいたいだけ」
言い訳っぽく聞こえるのは自覚してる。でも、月島の言葉には刺さるものがあった。
それからまた練習が始まった。体育館の空気は熱く、ボールの音が響き渡る。だが、そしていつも通りじゃない光景が一つ。
「何嬉しそうに笑ってんだ、黒尾」
木兎が怪訝そうに俺を見る。
「あぁ、あれ。お前んちのお兄ちゃんと後輩くんだよ」
「佑月とあかーしのこと?」
「そ、」
木兎は「なんで?」と言いたげに首を傾げた。でも、俺の目は誤魔化せない。この合宿中、ずっと見てきた。佑月の視線も、赤葦の視線も。あっちも、なんかあったはずだ。
佑月の元へ赤葦が駆けつけて、何かを話している。言葉数は2、3回程度のやりとりだったが、赤葦に何か言われた佑月は、ふっと笑った。
その笑顔は、柔らかくて、どこか儚くて、でもちゃんと温かい。はい、アウト。俺は心の中で確信した。
そしてその直後、佑月がボールに足を取られかけた。
(危な——)と思った瞬間、赤葦が誰よりも早く動いて佑月を引き寄せた。
「うわ、佑月!大丈夫かー!?」と、木兎に腕を引かれて俺もその場へ移動させられる。
「大丈夫ですか」
赤葦の声は低くて、いつもより少し優しい声質だった。佑月は驚いた顔で「ありがとう」と言っう。
「佑月さん、怪我とかしたら許しません」
その言葉は、赤葦にしては珍しく強い。 普段なら絶対に言わない感情の乗った言い方だった。
「ごめんね、ありがと」
佑月はいつもの柔らかい声でそう返す。その瞬間、赤葦の目がわずかに揺れたのを俺は見逃さなかった。
(はい、決定。これはもう確定だ)
遠慮ばかりしていた赤葦くんの、この一言。あれはもう、ただの心配じゃない。好きな人に向ける言葉、だろう。赤葦が自覚して、佑月に仕掛けたんだと、俺は確信した。
俺は木兎に腕を引っ張られて近づいたけど、正直、邪魔したくなかったくらいの雰囲気を感じる。佑月が「ありがとう」と言ったあと、赤葦はすぐに手を離すかと思った。
が、離さない。いや、正確には離そうとしてるのに離れないって感じだ。
指先が名残惜しそうに佑月の腕に触れていて、佑月が気づかないのをいいことに、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと力を込めて握っている。その一瞬のためらいが、赤葦の気持ちを全部物語っていた。
おいおい、赤葦……お前、もう隠す気ないだろと、俺は心の中でツッコんだ。
やっぱり自覚した赤葦は、普段見せる冷静沈着な姿ではなく、どこか強引で、どこか不器用で、そして……面白い。
佑月の前だと、あいつは“赤葦京治”じゃなくて、
ただの高校二年生の男の子になる。
「あの…赤葦くんそろそろ離して…」
佑月が困ったように言う。声は弱くて、でも拒絶じゃない。むしろ、戸惑いの方が強い。
それを聞いた赤葦は——ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「…いいじゃないですか、今朝も人の気も知らないで寝起きであんなくっついてきたのに」
「それは…」
佑月の声が小さくなる。耳まで赤くなってる。
おい、赤葦……攻めるなぁ、普段の赤葦なら絶対に言わない台詞だ。自覚した赤葦は、思った以上に強引で、思った以上に感情的で、そして思った以上に……佑月に甘い。
「コラコラ、赤葦くん。佑月くんがそろそろ近すぎてしんじゃうから離してあげな」
俺がそう言うと、赤葦はほんの少しだけ眉を寄せて、ゆっくりと佑月の腕から手を離した。その“ゆっくり”がまた、名残惜しさ全開だ。
指先が、佑月の肌の温度を忘れたくないみたいに、最後の最後まで触れていた。
(……これはもう告白済みだな)
この感じだと、赤葦も佑月に告白したのだろう。佑月が知らないところで、赤葦はもう一歩踏み込んでいる。
そして佑月は、その変化に気づかないまま、赤葦の手の温度だけを頬に残している。
その温度に気づいていないのが、また青春らしくて面白い。
それから赤葦と木兎が別のコートに呼ばれて、二人で戻って行った。赤葦は振り返らなかったけど、佑月の方を気にしているのは、背中で分かった。
「佑月、なんかあっただろ」
「あぁ、うん…」
佑月は胸に手を当てて、落ち着かないように呼吸を整えている。顔は赤いし、耳まで熱そうだ。
さっきまで赤葦に触れられていた腕を、そっと押さえているのが見えた。
「どうした、嬉しくなかった?」
「う、嬉しかったけど」
「けど?」
佑月は唇を噛んで、視線を落とした。その仕草が、答えを全部物語っている。
「赤葦に応えてやらないのか」
「…、俺は、言えない」
「なんで、お前も好きなんだろ?好きならっ、」
思わず、強めの口調で言ってしまった言葉を飲み込む。佑月の顔が、苦しそうに揺れたからだ。
「俺、男だし、…まだ未成年だろ。一時の感情で、赤葦くんの人生台無しにしたくないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
(……そう来るか)
佑月は、自分の気持ちよりも赤葦の未来を優先している。
好きなら好きでそれでいいじゃないか。
相手の未来のために自分を犠牲にするなんて。
でも、それが佑月だ。
優しさであり、責任感であり、そして——佑月らしい繊細さだった。
「はい、この話おしまいー!じゃあ、クロも練習、頑張ってな!俺は戻って勉強ー」
「お、おう…あ、今日も第三体育館で夜練習あるから」
「…今日はやめておこうかな」
(そんな顔して何言ってんだよ、)
佑月は、赤葦の手の温度を忘れられないくせに、赤葦の未来を守ろうとして距離を置こうとする。
逃げるように去っていく背中が、どこか泣きそうで、どこか苦しそうだった。