先輩に振られる

赤葦あかあしさいど

 夜の第三体育館の練習には、佑月さんは来なかった。木兎さんは「佑月がいなくてつまんない!」と最初こそ騒いでいたが、日向の天然おだてスキルによって、練習は意外と順調に進んでいた。

 今日は早めに切り上げることになり、片付けをしていると黒尾さんに声をかけられた。

「赤葦くんさー、佑月に告ったデショウ」
「……なんでですか」
「ん、雰囲気で」

 軽い調子なのに、妙に核心を突いてくる言い方だった。

「でも、たぶん振られるね、今のままじゃ」
「…そうですか、でも仕方ないですね」
「今日、佑月が練習見に来なかったのもそのせい」

 言葉にしてみると、思っていた以上に苦かった。佑月さんには、他に好きな人がいる、そういう意味だと思ったからだ。

「昼間に佑月と話したんだけど……」

 黒尾さんは、ほんの少しだけ声を落とした。その“けど”が胸に引っかかる。

「……佑月、こう言ってたよ」

 黒尾さんから聞かされた言葉は、想像していたよりずっと重かった。

『俺、男だし……まだ未成年だろ。一時の感情で、赤葦くんの人生台無しにしたくないんだよ』

 胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。

(そんな理由で……俺から離れようとしていたんですか)

 驚きよりも、悲しみよりも、悔しさに近い感情が先に来た。佑月さんは、自分が俺の未来を壊すかもしれないと本気で思っている。そんなわけがないのに。

「…なんでこの話、俺にしてくれたんですか」
「黒尾さんが優しいからに決まってるデショウ」
「……黒尾さん、」
「…なんつーかさ、好きな人には幸せになってほしいわけ、俺は」
「…黒尾さん」
「何?」
「…、ありがとうございます」
「あー、まぁ俺のは“友達として”って意味だけどネ」

 いつもの冗談っぽい言い方に、その嘘は、今日だけ信じることにした。信じないと、胸が持たなかった。



 俺は佑月さんに迷惑をかけられたことなんて一度もない。むしろ、救われてばかりだ。

朝の寝起きの悪さも、
不器用な優しさも、
時々見せる弱さも、
全部含めて——
俺は佑月さんが好きだ。

なのに。

(俺の未来を守るために、距離を置く……?)

そんなの、望んでない。むしろ、一緒に未来に進みたいと思っているのは俺の方だ。

 佑月さんは、自分の気持ちよりも俺の未来を優先している。佑月さんらしい。優しくて、繊細で、自分より他人を優先してしまう。でも、その優しさが、今は痛い。

 どうして……そんなふうに自分を下げるんですか。佑月さんは、俺の人生を壊すような存在じゃない。むしろ、俺の人生に必要な人だ。

 黒尾さんの話を聞いて、佑月さんが本当に俺を拒絶したんじゃなくて、俺を守ろうとして、自分の気持ちを押し殺しているとしたら。

(……そんなの、苦しいに決まってるじゃないですか)

 胸が痛い。
息が少しだけ苦しい。佑月さんが苦しんでいるのに、
俺は何も知らずに距離を詰めていた。あの昼間の、掴んだ手も、佑月さんを追い詰めてしまったのかもしれない。

 佑月さんがどれだけ自分を下げても、
どれだけ俺の未来を気にしても、
どれだけ距離を置こうとしても。

「…俺は、あなたから離れるつもりはありません」

 佑月さんが怖がるなら、その怖さごと抱きしめたい。

 佑月さんが未来を心配するなら、その未来を一緒に作りたい。佑月さんが“言えない”なら、俺が言う。何度でも。

 体育館を出た瞬間、夜の空気が肌に触れた。昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

 暗い廊下を歩くたびに、胸の奥がざわついて落ち着かない。佑月さんは、きっとどこかで一人になっている。放っておけるわけがなかった。

(……どこに行ったんですか)

 夜の静けさが、余計に不安を煽る。呼吸が浅い。心臓が早い。足が勝手に速くなる。

(……逃げないでくださいよ、佑月さん)
 
 そう思うほど、自分が追いかけていることに気づく。普段の俺なら、こんなふうに感情で動くことはない。でも今は違う。

 佑月さんが“離れようとしている”と知った瞬間、身体が勝手に動き出した。

 体育館を出て、薄暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がざわつき始めた。

 曲がり角を抜けた先。薄暗い廊下の中で、自販機の白い光だけがぽつんと灯っていた。

 その光に照らされて、佑月さんがいた。

 壁にもたれて、胸に手を当てて、ゆっくりと呼吸を整えている。夜の静けさの中で、その姿がやけに弱く見えた。

その姿を見た瞬間、胸が、跳ねた。痛いほどに。

(……よかった。見つけた)

 安堵と同時に、胸の奥が熱くなる。逃げるように去った理由を知っているからこそ、その背中が苦しそうに見えて、どうしようもなく触れたくなった。

 一歩、近づく。また一歩。

 距離が縮まるたびに、胸の鼓動が早くなる。

(どうして……そんな顔してるんですか)

 佑月さんは、泣きそうな顔で、でも必死に堪えている。

 俺の未来を守ろうとして、自分の気持ちを押し殺して、苦しんでいる。そんな姿を見て、胸が締めつけられた。

 声をかけようとした瞬間、喉が詰まった。名前を呼ぶだけで、気持ちが全部溢れてしまいそうだった。

(……佑月さん)

 あなたが離れようとする理由を知って、胸が痛くて、でも同時に、あなたを手放したくない気持ちが、もっと強くなった。

 だから俺は、逃げる背中を追いかけてここに来た。そして今、目の前にいる。

(もう……逃がしません)

 そう心の中で呟いて、俺はそっと名前を呼んだ。

「佑月さん、」
 
 夜の静けさに溶けるような声で呼ぶと、佑月さんの肩がびくっと揺れた。
 振り返った顔は、自販機の光に照らされて、驚きと戸惑いと不安が混ざっていた。
 その表情が、胸に刺さるほど綺麗だった。

「……赤葦くん?あれ、練習は?」

 弱い声だった。逃げる途中で呼び止められたみたいな声。その声が、胸に刺さる。

「佑月さん」

 歩み寄ると、佑月さんは一歩だけ後ずさった。その動きが、痛いほど分かりやすい。

 離れようとしている。その事実が、胸を締めつけた。

「逃げないでください」

 気づけば、そう言っていた。声が少しだけ震えていた。佑月さんは目を見開いた。

「俺は……逃げてるわけじゃ」
「逃げてます」

 遮るように言った。普段の俺なら絶対にしない強い言い方だった。

「黒尾さんから聞きました」

 佑月さんの表情が固まる。

「俺の未来を壊すかもしれないから……言えないって」

 佑月さんは視線を落とし、唇を噛んだ。その仕草が、胸に刺さる。

「……だって、俺は男だよ、……赤葦くんの人生に、変な影響——」
「そんなの、どうでもいいです」
言葉が勝手に口から出た。
佑月さんが顔を上げる。
 驚いた目が、まっすぐ俺を見ていた。

「俺の未来を壊すなんて、ありえません。むしろ……佑月さんがいない未来の方が、考えられない」

 言ってから、胸が熱くなった。でも、もう止まらなかった。

「佑月さんが怖がる理由も、距離を置こうとした気持ちも……全部分かります」

 ゆっくりと一歩近づく。

「でも、俺は……そんな理由で離れてほしくない」

 佑月さんの呼吸が浅くなる。俺の胸も同じように苦しい。

「佑月さんが言えないなら、俺が言います」

 息を吸い、心臓の音がうるさいほど響く。

「俺は、佑月さんが好きです。未来ごと、一緒にいたいと思っています」

 佑月さんは目を見開いたまま、何も言わずに固まっていた。その沈黙が、胸に刺さるほど長く感じる。

(……怖がらせたかもしれない)

 でも、後悔はなかった。佑月さんが逃げる理由を知ってしまった以上、黙っている方がよほど残酷だ。だから俺は、ただ静かに佑月さんの返事を待った。佑月さんは、何か言おうとして口を開きかけては閉じ、視線を揺らし、胸に手を当てて呼吸を整えている。

 その姿が、苦しそうで、でもどこか嬉しそうで、余計に胸が痛くなる。

(返事が怖いなんて、思ったことなかったのに)

 こんなにも誰かの言葉を待つ時間が長いなんて、知らなかった。

「……赤葦くん」

 佑月さんが、ゆっくりと顔を上げた。その目は揺れていて、でもどこか覚悟があった。

「ごめん、」

 胸が一気に熱くなる。息が止まりそうだ。

「俺、赤葦くんが卒業するまで……待ちたいんだ」
「……卒業、まで」

 思わず聞き返してしまう。佑月さんは、ぎゅっと拳を握りしめて続けた。その続きが、胸の奥にじんわりと痛みを落とした。そんな甘い痛みが胸に広がる。

「俺が好きって言ったことで、赤葦くんの進路とか……周りの目とか……そういうのに負担をかけたくないし」

 その言葉は、優しすぎて、甘すぎて、胸が痛くなる。そんなふうに俺の未来を考えてくれていたんですか。佑月さんは、自分の気持ちよりも俺の未来を優先している。その優しさが、苦しくて、でも嬉しい。

「……赤葦くんが卒業したら、その時に……俺からちゃんと告白したい」

 佑月さんがそう言った瞬間、胸の奥が甘く締めつけられた。今じゃないという痛みと、未来を見てくれているという喜びが、同時に押し寄せてくる。

「その時……また返事を聞かせてほしい」

 佑月さんは、まるで俺の心をそっと撫でるみたいな声で言った。

(そんなの、断れるわけないじゃないですか)

 胸が甘く締めつけられる。痛いのに、幸せで、息が苦しい。

「……分かりました。待ちます」

 そう答えた瞬間、佑月さんは少しだけ目を伏せた。そして、ぽつりと、こぼした。

「……男同士って……まだ、いろいろ言う人いるだろ。俺は平気でも……赤葦くんが何か言われたらって思うと……怖いんだよ」

 その言葉が胸に刺さった。佑月さんは、自分が傷つくことよりも、俺が傷つくことの方を怖がっている。その優しさが、どうしようもなく愛しい。

 「佑月さん」

 そっと手を取る。触れた瞬間、佑月さんの肩が震えた。

「俺は……誰に何を言われても構いません。あなたといることで傷つくなら、それはあなたを選んだ証拠です」

 佑月さんが驚いたように顔を上げる。

「偏見なんて、俺の気持ちを揺らせません。むしろ……あなたがそんなふうに心配してくれることの方が、よっぽど胸に響きます」

 佑月さんの目が揺れた。涙が滲んでいるように見えた。

「だから……」

 指先で佑月さんの手を優しくなぞる。

「卒業の日、あなたが“好き”って言ってくれたら…俺は迷わず、その手を取ります」

 佑月さんの頬が赤く染まる。その反応が甘すぎて、胸が跳ねた。

「偏見なんて、関係ありません。俺は……あなたがいいんです」

 声が震えた。でも、佑月さんに安心してほしいから、笑って言う。

「待ちますよ。佑月さんが言ってくれるその日まで」

佑月さんが驚いたように目を見開く。

「卒業しても、俺の気持ちは変わりません。むしろ……もっと強くなってるかもしれません」

 佑月さんの頬が赤く染まる。その反応が、甘くてたまらない。

「だから……」

佑月さんの手を、指先で優しくなぞる。

「その時は、あなたの“好き”を、ちゃんと受け取りに行きます」

 佑月さんは、泣きそうな顔で、でも嬉しそうに笑った。その笑顔が、卒業までの時間を甘くしてくれる。

(……待つ時間すら、あなたがくれるなら悪くない)

 そう思いながら、佑月さんの手をそっと離した。夜の空気が、二人の間に甘く漂っていた。