俺は後輩を振る

しゅさいど

 夜の空気が肌に触れて、ひやりとした冷たさが胸の奥まで入り込んできた。昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、遠くの街灯の光がぼんやり揺れている。

 俺は部屋で勉強する気分にもなれず、薄暗い廊下の端にある自販機の前まで歩いて、壁にもたれかかった。

 胸に手を当てると、心臓がうるさいくらいに跳ねていた。

「……赤葦くん、」

 思わず小さく呟いた。赤葦くんの真っ直ぐな目が頭から離れない。あの目は、俺の弱いところを全部見透かしてくる。

 決意が揺らぎそうになる。だから、逃げたかった。でも、逃げたくなかった。

 その矛盾が胸の中でぐちゃぐちゃになって、息が苦しくなる。

 夜は静かすぎて、自分の心臓の音がやけに大きく響く。その時だった。

「……佑月さん」

 夜の空気を震わせるように、優しい声が響いた。肩がびくっと震えた。

 振り返ると、自販機の光に照らされた赤葦くんが立っていた。どうしようもなく好きで、苦しすぎて、胸がぎゅっと締めつけられた。

「……赤葦くん?あれ、練習は?」

 声が震えた。夜のせいにしたかった。

 赤葦くんが一歩近づく。俺は反射的に一歩下がる。でも、逃げられない。

 夜の廊下は静かすぎて、赤葦くんの足音がやけに大きく響く。その音が、俺の心臓の音と重なって、余計に苦しくなる。

「逃げないでください」
「俺は……逃げてるわけじゃ」
「逃げてます」

 その言葉が、夜の空気を震わせた。本当は、赤葦くんに捕まえてほしかった。でも、そんなこと言ったらもう、全部言ってしまいそうで。

「黒尾さんから聞きました」

 その一言で、心臓が止まったみたいに固まった。

 夜の廊下は静かすぎて、赤葦くんの声だけがやけに鮮明に響く。

 聞かれたんだ。胸の奥がぎゅっと縮んで、視線を落とすしかできなかった。

「俺の未来を壊すかもしれないから……言え
ないって」

 その言葉が、震わせて俺の胸に突き刺さる。言ったのは俺じゃない。クロに漏らしただけの弱音だったのに。
 でも、赤葦くんの口から聞くと、まるで俺が赤葦くんを拒絶したみたいで、胸が痛くてたまらなかった。違う。そんなつもりじゃない。でも言葉にならない。むしろ拒絶できたらよかったのにとすら酷い考えてすら浮かんでくる。唇を噛むと、自販機の光がその影を落とした。

「……だって、俺は男だよ」

 声が震えた。夜のせいにしたかった。

「赤葦くんの人生に、変な影響——」

 そこまで言った瞬間だった。

「そんなの、どうでもいいです」

 赤葦くんの声が、夜の静けさを切り裂いた。思わず顔を上げる。

 自販機の光に照らされた赤葦くんの目が、まっすぐ俺を見ていた。驚くほど真剣で、逃げ場がなくて、胸が苦しくなるほど美しかった。

 なんで。俺なんかのために。俺なんかを選ぶために。赤葦くんの言葉は、優しすぎて、甘すぎて、夜の中でまっすぐ刺さってくる。あぁ、好きだな、どうしようもなく。どうしたらいい。

 なのに俺は、赤葦くんの未来を壊したくなくて、周りの目も、男同士っていう現実が重くて、今こうして逃げている。

 だから距離を置こうとしたのに。赤葦くんは、その全部を一瞬で否定した。

まるで、俺の不安なんて存在しないみたいだ。

 顔を上げると、赤葦くんがまっすぐ俺を見ていた。
自販機の白い光が、赤葦くんの瞳に反射して揺れている。

その目が、
あまりにも真剣で、
あまりにも優しくて、
おかしくなりそうだ。

 赤葦くんの、名前を呼ぶことさえ、喉が詰まった。言いたいことが多すぎて、何も言えない。

 逃げたいのに、捕まえてほしい。
 触れられたら壊れそうなのに、触れてほしい。

 そんな矛盾が胸の中で暴れて、息がうまくできなかった。

「俺の未来を壊すなんて、ありえません。むしろ……佑月さんがいない未来の方が、考えられない」

 その言葉が、夜の静けさに甘く響いた。そんなの、言われたらどんどん揺らいでしまう。涙が出そうになる。
 
赤葦くんの未来に入っていいわけない。
男同士。
年齢も違う。
理解されないこともあるだろう。

 俺は平気でも、赤葦くんが何か言われたらって思うと、胸が苦しくてたまらないから。それなのに赤葦くんは俺の言えないこと、言ってほしいこと、を全部言ってくれる。

「俺は、佑月さんが好きです。未来ごと、一緒にいたいと思っています」

 この言葉だってそうだ、心の奥で赤葦くんならそう言ってくれるんじゃないかって結局俺は勝手に期待してた。

 嬉しい。嬉しすぎて、苦しい。でも同時に、怖くてたまらなかった。

 赤葦くんが卒業するまで、待ちたいと、そう言った自分が、どれだけ赤葦くんを好きなのか、その時ようやく分かった。

 本当は今すぐにでも「好き」って言いたい。赤葦くんの手を掴みたい。抱きしめられたい。

 でも、それが今だけの関係になって、否定され、赤葦くんがいなくなっしまうのが、それが怖かった。

「俺が好きって言ったことで、赤葦くんの進路とか……周りの目とか……そういうのに負担をかけたくないんだよ」

 夜の光の中で、自分の声が震えているのが分かった。

赤葦くんは、俺が思っている以上に真っ直ぐで、俺が思っている以上に優しい。
 だからこそ、俺は今の自分を差し出せなかった。

「……分かりました。待ちますよ」

 赤葦くんは、優しく笑った。その笑顔が、夜の光に照らされて、かっこよすぎて、胸が痛くなる。

「卒業しても、俺の気持ちは変わりません。むしろ……もっと強くなってるかもしれません」

 赤葦くんは俺を期待させるんだ、涙がこぼれそうになった。

「その時は、あなたの“好き”を、ちゃんと受け取りに行きます」

 その言葉が、夜の静けさに甘く響いた。胸が、苦しくて、嬉しくて、痛くて、やっぱりどうしようもなく赤葦くんが好きだった。

 卒業の日まで、なんてその先も何年先も、きっと俺は赤葦くんが好きなんだろうな、そう思った。

「っ、あ…」

 赤葦くんに握られた手が離れて思わず、声がでた。

「どうしました、」
「あ、いや…手、っまだ握ってたかったな…と」

 言った瞬間、顔が熱くなる。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。

「…そういうのはやめないでくれるんだ」
「そういうの?」
「いえ、別に…じゃあ、もう少しだけ」

 赤葦くんは、そっと俺の手を握り直した。
その温度が、夜の冷たい空気の中でやけに温かくて、離したくなかった。

 好き、赤葦くん。声には出せなかったけど、その気持ちは手のひらから溢れていた。