帰りのバスは、夕方の光を引きずったまま山道を下っていた。窓の外には沈みかけの太陽が見えて、車内はオレンジと影が混ざったような薄暗さに包まれている。
合宿が終わった安堵と、終わってしまった寂しさが同時に押し寄せてくる時間帯だ。昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、 部員たちの声も疲れと眠気で小さくなっていた。窓ガラスに映る自分の顔も、どこかぼんやりして見える。
隣には佑月さん。木葉さん達に言われるまま隣の席になったわけだが、それに納得がいかないとばかりに木兎さんが暴れたのでバスの出発が少し遅れた。「今日だけだから!」なんて捨て台詞まで吐かれて、俺が座りたいと言ったわけでもないので少し疲れてしまった。
隣に座っている佑月さんは、夕日の光が横顔にかかって、綺麗だな、そんな言葉が頭に浮かんだ。
沈黙が続くと、バスのエンジン音とタイヤが砂利を踏む音だけが響く。その静けさが、妙に落ち着かなくて、「佑月さんは卒業後、どうするんですか」と、気づけば声をかけていた。
「俺は進学」
短い返事なのに、夕方の光のせいか、いつもより優しく聞こえる。
「大学行きつつ、光太郎のマネージメント業務やろうかなと思ってる」
「木兎さんの?」
「バレーやってる光太郎見て決めた」
佑月さんの声は、どこか遠くを見ているような響きだった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
俺は木兎さんを尊敬している。誰よりも真っ直ぐで、誰よりも不器用で、それでも前に進む姿を、ずっと近くで見てきた。あの人の背中を追いかけて、ここまで来たと言ってもいい。
だからこそ分かる。木兎さんの“未来”を支えるというのが、どれだけ大きな決断か。佑月さんは、兄だからじゃない。
“バレーやってる光太郎見て決めた”
その一言に迷いがなかった。
その強さに、胸が静かに震えた。
「木兎さんも声、かかってるんですかね」
ふと口にした俺の問いに、佑月さんは少しだけ目を細めた。
「本人が今は春高しか考えらんなそうだよな。そういうのは、その後だろうね」
「そうですか、」
佑月さんは、窓の外に沈んでいく太陽を追うように視線を向けた。その横顔は、夕日の赤と影の境目に溶け込んで、どこか現実味が薄い。声は柔らかいのに、ほんの少しだけ遠く響く。
「まぁ、光太郎もとりあえず推薦で進学予定だし、オファーがくればって感じかな。将来、日本代表とか選ばれないかな」
その言葉には、期待と不安が同じくらい混ざっていた。兄としての願いと、未来を信じる強さ。
「なんか想像できないけど想像できますね」
「ね、それすげーわかる」
佑月さんは小さく笑った。けれどその笑みは、どこか遠くて、俺の隣にいるのに、手を伸ばしても届かない場所にいるように見えた。
言葉は確かに俺に向いている。でも、心は別の場所に触れているようだった。
木兎さんの未来。
あの人がどんな選択をして、どんな場所に立つのか。佑月さんは、そこを真剣に思い描いている。
その証拠みたいに、佑月さんの指先が膝の上でそっと動いた。無意識に何かを掴もうとするような、そんな仕草。
夕日の光がその手を照らして、指の関節の動きまで静かに浮かび上がる。
胸の奥がじんわり熱くなった。話の内容も、佑月さんの表情も、その視線の先も。全部が“弟の未来”に向いている。その想いの深さに、俺は少しだけ息を飲んだ。
(俺が尊敬している人を、この人は俺よりずっと深く見てるんだな)
そんな当たり前のことが、夕方の空気の中では妙に胸に刺さる。
「…木兎さんには?」
「…合宿中にそう思ってたから、まだ誰にも言ってない」
そう言って、佑月さんはふっと息を吐いた。その横顔が、夕日の光に照らされて揺れる。その仕草ひとつで胸がざわつく。
バスが揺れて、肩が触れた。佑月さんは気にせず、また窓の外へ視線を戻す。沈む太陽の光が、その横顔をやさしく照らしていた。
そして、佑月さんは少しだけ息を吸って、 言葉を選ぶようにして口を開いた。
「光太郎って、俺の自慢なんだよ。だから…あいつがどんな未来を選んでも、ちゃんと見ていたいんだ」
その声は柔らかくて、でもどこか祈るみたいで。胸の奥が静かに軋んだ。
(この人は、木兎さんの未来を本気で信じてるんだ)
兄としての誇りと、誰かを支えようとする強さ。その全部が、夕日の中で綺麗に見えた。
「……木兎さんなら、ちゃんと前に進みますよ。佑月さんが思ってる以上に、強い人です」
気づけば、少し強めの声が出ていた。自分でも驚くほど、迷いのない声。
「え?」
佑月さんがこちらを向く。夕日の光がその瞳に反射した。
「木兎さんには俺達もいますし、佑月さんが思ってるよりずっと強いです」
言いながら、自分の言葉がどこか必死に聞こえるのを感じた。
(…何を焦ってるんだ、俺)
佑月さんの心が“遠く”にある気がして、その距離に胸がざわついていたのかもしれない。佑月さんは、少しだけ表情を緩めた。
「……そうだね。光太郎は、強いよね」
「はい。だから、そんなに一人で抱えなくても大丈夫です」
そう言うと、佑月さんは少しだけ目を伏せた。
その仕草が、夕方の光の中でやけに優しく見えた。自分が憧れてた人の兄を好きになって、その兄が俺の憧れている人を応援してる。
自然と嫉妬はなかった。ただ、寄り添いたい。
「ありがとう、赤葦くん。そうだ、光太郎の試合があったら一緒に観に行こう」
「当然ですよ」
「その頃には恋人だ」
その言葉が落ちた瞬間、夕日の光が一段と赤くなった気がした。胸の奥が、静かに熱くなる。
言葉にはしなかったけれど、その気持ちは確かにそこにあった。夕日が沈む前のこの時間は、言葉にしなくても伝わることがある。
だから余計に、佑月さんの横顔が綺麗に見えてしまった。
バスが街に近づくにつれて、窓の外の景色は山の影から街灯の光へと変わっていく。夕方のオレンジは薄れ、代わりに夜の青がゆっくりと車内に入り込んできた。
佑月さんは、少しだけ眠そうに目を細めていた。疲れが出てきたのだろう。その横顔を見ていると、佑月さんが小さく呟いた。
「赤葦くん、肩使う?」
「いいんですか。佑月さんも疲れてるのに」
「うん。落ち着くから」
その言葉は、夕方の残り香みたいに柔らかくて、胸に静かに落ちていった。俺もです。とは言えなかったけれど、その気持ちは確かだった。
佑月さんの肩を借りると、髪が少し触れて、 微かにシャンプーの匂いがした。