俺と君と弟と

しゅさいど

 バスが山道を下り始めた頃、窓の外は夕日の赤と影がゆっくり混ざり合っていた。

(…眠い、流石に)


 合宿の疲れが一気に押し寄せて、車内は静かだ。

 隣には赤葦くん。木葉たちに押しつけられるように席が決まったのに、光太郎が「今日だけだから!」と騒いで出発が遅れたのは、正直笑った。

 赤葦くんは困った顔をしていたけど、あの子はいつも周りに振り回されてるのに、不思議と嫌な顔をしない。

「佑月さんは卒業後、どうするんですか」

 静けさを破るように、赤葦くんが声をかけてきた。夕日の光が横顔にかかって、少し大人びて見える。

「俺は進学。大学行きつつ、光太郎のマネージメント業務やろうかなと思ってる」

 自然と考えていたことが口に出しまい、言いながら、窓の外に視線を戻す。沈む太陽が、光太郎の未来みたいに見えた。

「木兎さんの?」
「バレーやってる光太郎見て決めた」

 その瞬間、赤葦くんの表情がわずかに揺れた。
驚きというより、胸の奥で何かが動いたような顔。赤葦くんは光太郎を尊敬している。それが言葉にしなくても伝わってくる。だからこそ、俺の決断がどう響いたのか、少しだけ気になった。

「木兎さんも声、かかってるんですかね」
「本人が今は春高しか考えらんなそうだよな。そういうのは、その後だろうね」

 赤葦くんは真剣に頷いた。光太郎のことになると、この子は本当に真っ直ぐだ。

「まぁ、光太郎もとりあえず推薦で進学予定だし、オファーがくればって感じかな。将来、日本代表とか選ばれないかな」

 言いながら、自分でも少し笑ってしまう。期待と不安が混ざった、兄としての勝手な願い。

「なんか想像できないけど想像できますね」
「ね、それすげーわかる」

 赤葦くんの返しが妙に的確で、思わず笑みがこぼれた。でもその笑みは、自分でも気づかないうちに少し遠くなっていたのかもしれない。

 光太郎の未来を考えると、胸の奥がぎゅっとなる。嬉しいのに、怖い。誇らしいのに、手が離れていく気がする。そんな気持ちが混ざって、指先が膝の上で無意識に動いた。

「光太郎って、俺の自慢なんだよ。だから…あいつがどんな未来を選んでも、ちゃんと見ていたいんだ」

 夕日の光が赤くなって、自分の声まで少し揺れた気がした。その時だった。

「……木兎さんなら、ちゃんと前に進みますよ。佑月さんが思ってる以上に、強い人です」

 赤葦くんの声が、いつもより少し強かった。
驚いて振り向くと、夕日の光が彼の瞳に反射していた。真っ直ぐで、迷いがなくて、
光太郎を信じてくれているのが伝わる。

 胸の奥が、ふっと軽くなった。

「……そうだね。光太郎は、強いよね」

 そう言うと、赤葦くんは静かに頷いた。赤葦くんは、光太郎のことを本当に理解してくれている。それが嬉しくて、安心して、少しだけ胸が温かくなった。

「ありがとう、赤葦くん。そうだ、光太郎の試合があったら一緒に観に行こう」
「当然ですよ」
「その頃には恋人だ」

 冗談みたいに言ったけど、赤葦くんの肩がわずかに揺れたのを見逃さなかった。はやくそんな日が来てほしいと思った。

 夕日の赤が濃くなって、胸の奥がじんわり熱くなる。バスが街に近づくにつれて、夕方の光が夜の青に溶けていく。眠気が押し寄せて、目を細めた時、赤葦くんがこちらを見ていた。

「赤葦くん、肩使う?」
「いいんですか。佑月さんも疲れてるのに」
「うん。落ち着くから」

 本当に落ち着く。
光太郎とは違う、静かな安心感。

 赤葦くんが肩に寄りかかってきた瞬間、髪が触れて、微かにシャンプーの匂いがした。夕日の残り香みたいに、胸に静かに落ちていった。



 合宿から帰ってきて、シャワーを浴びて、ようやく落ち着いた頃だった。

 リビングで水を飲んでいると、光太郎が濡れた髪のまま入ってきた。

「佑月、どうしたの」
「光太郎、おかえり」
「なんかあった?」

 いきなり核心を突かれて、少し笑ってしまった。

「……ちょっと話したいことがあるんだけど」

 光太郎はソファにどすんと座って、じっと俺を見ている。

「俺、進学して……それから、光太郎のマネージメント、やろうと思ってる」

 言った瞬間、光太郎の表情が固まった。

「…………は?」

 その声は、驚きよりも怒りに近かった。

「なんで?」
「光太郎がバレーしてるの見て、決めたんだよ」

 そう言った途端、光太郎の眉がぎゅっと寄った。

「それって……俺のため?」

 胸の奥が少し痛んだ。光太郎は、こういうところが本当に真っ直ぐだ。

「光太郎……」
「俺のために佑月の人生決めたの?そんなの……俺は嫌だ」

 声が震えていた。怒っているというより、怖がっている。俺はゆっくり光太郎の前に立った。

「光太郎のため“だけ”じゃないよ」

 光太郎が息を呑む。

「俺がやりたいんだ。光太郎の未来を近くで見たいって、俺が思ったんだよ」

 光太郎の目が揺れた。

「光太郎のために犠牲になるんじゃない。光太郎のそばにいたいって、俺が選んだんだ」

 光太郎は唇を噛んで、それからぽつりと呟いた。

「……佑月のため?」
「そう。俺のため」

 光太郎は目を伏せて、それからゆっくり顔を上げた。

「……佑月にそんなふうに思われてたなんて、知らなかった」

 その声は、怒りじゃなくて、ただまっすぐな感情だった。

「俺、佑月が選んだ未来、絶対後悔させない」

 その言葉に、胸がじんわり熱くなった。

「……うん。心配してないよ。コタローは強いから」

 そう言った瞬間、光太郎がぴくっと肩を揺らした。

「……今、なんて言った?」
「え? コタローって」

 光太郎は目を丸くして、それから少し照れたように笑った。

「……久しぶりに呼ばれた」
「そうだっけ?」
「そうだよ。小さい頃、佑月ずっと俺のこと“コタロー”って呼んでた」

 言われてみれば、確かにそうだった。幼稚園の頃、光太郎は自分の名前をうまく言えなくて、「こうたろう」じゃなくて「こたろー」になっていた。それが可愛くて、俺も自然とそう呼んでいた。

「……懐かしい…な」

 光太郎はソファの背にもたれながら、どこか遠くを見るように目を細めてそのまま目を閉じた。



 光太郎がソファで眠ったあと、俺はひとりでキッチンに立って、冷めたコーヒーを手にぼんやりしていた。

 リビングでは光太郎の寝息が、子どもの頃と同じリズムで聞こえてくる。

 その音を聞いていたら、ふと胸の奥にひとつの思いが浮かんだ。

(……俺、なんで梟谷に来たんだっけ)

 もちろん理由はいくつもある。環境、レベル、指導者、雰囲気。どれも間違っていない。
 でも、本当の理由は、もっと単純だった。

(光太郎がいたからだ)

 気づいた瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。思い返せば、ずっとそうだった。

幼稚園の頃、泣き虫で、でも誰より真っ直ぐな弟を守りたかった。
小学生の頃、悔しくて泣きながらもボールを追いかける光太郎を、誇らしく思っていた。
中学生になって、光太郎が本気でバレーに向き合う姿を見て、俺も何かを頑張りたいと思った。

そして高校を選ぶとき、気づけば、光太郎が目指す場所を自然と俺も目指していた。

(光太郎がいる場所なら、俺も頑張れる)

 その気持ちは、ずっと変わらなかった。

光太郎の未来を近くで見たい。
光太郎がどこまで行けるのか、
その瞬間を隣で見届けたい。

 それは“義務”でも“犠牲”でもなく、俺が心から望んだことだった。そして、胸の奥に、もうひとつの想いが浮かぶ。

「……光太郎」

 返事はない。でも、こういうときの光太郎は、なぜかちゃんと聞いている気がする。

「赤葦くんのこと、なんだけど」

 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。

「……俺、好きでさ」

 静かに、でも確かに心の底から出てきた言葉だった。

「…だから、赤葦くんが卒業したら、ちゃんと伝えようと思ってる。さっきの進路のことも、赤葦くんのことも……母さん達にも伝える予定」

 言いながら、自分の声が少し震えているのがわかった。

 光太郎の未来を近くで見たい。その気持ちはずっと変わらない。でも同時に、俺自身の未来も、ちゃんと選びたい。光太郎のそばにいたいという気持ちと、赤葦くんへの想いと、自分の人生をどう歩くかという不安と期待が、胸の奥で静かに混ざり合っていた。

 寝返りの音がして、光太郎が小さく呟いた。

「……佑月だけが俺を見てるんじゃない。俺も……ずっと見てるよ」

 一瞬、呼吸が止まった。寝言みたいに聞こえるのに、その声は妙にしっかりしていて、胸の奥にまっすぐ落ちてきた。

「……光太郎?」

 返事はない。光太郎は目を閉じたまま、 安心したように小さく息を吐いて眠りに戻った。

(……そうか。光太郎も、ずっと気にしてくれてたんだ)

 胸の奥がじんわり熱くなる。

「……ありがとう、光太郎」

 小さく呟いて、冷めたコーヒーを飲み干した。