昼下がりの陽射し。夏の光は強いのに、どこか合宿最終日の名残惜しさを含んでいて、影の輪郭まで少し滲んで見える。炭火の上では肉がじゅうっと音を立て、脂が落ちるたびに小さく火が跳ねた。香ばしい匂いが風に乗って流れていき、体育館とは違う、開放的で明るい熱気が広がっていた。
「腹減ったー」
その声が、夏の空気を震わせるみたいに響いた。振り向く前から、誰の声か分かる。
「日向」
日向が、太陽の下を全力で走ってくる。練習終わりだって言うのにすごい体力だな。日向は相変わらずいつもの笑顔だった。
「うおぉ!佑月さん!ちわっす!!」
勢いよく手を振ってくる日向の後ろには、烏野の部員たちがぞろぞろと続いていた。
「佑月さん、これ影山くん」
「日向、いつのまに梟谷のマネージャーさんと仲良くなったんだよ」
「ふっふーんまぁなー!」
「ちゃんと面と向かって挨拶するのは、初めてかな。梟谷のマネージャーの補佐できました。木兎 佑月です」
「うぉお、やっぱ双子だったんっすね!!」
「田中さん、うるさい」
「あん?月島やんのか?アーーン?」
「仙台のヤンキーだ」
「ぷぷ、佑月さんにも言われてるじゃないですかー田中さんー」
「月島テメェー!」
みんな楽しそうで、声も笑いも絶えない。夏の光に照らされて、烏野のメンバーが眩しく見えた。
「肉焼けたから持ってきなよー」
「うっす!あっざす!!!」
日向は返事と同時に皿を受け取ってそのまま頬張る。
「佑月しゃ…っんで、こっひがやまぐひで…」
「メンバー紹介は後でいいよ。なんとなくわかってるし」
「ほうですか?」
「ん、喉につっかえるぞ」
そのやりとりの横で、蛍がじっとこちらを見ていた。日向の背中を軽く押しながら、ほんの一瞬だけ、俺と目が合う。
何か言いたげで、でも言わない。言わない代わりに、日向を前へ押し出して、自分は半歩だけ後ろに下がった。
「なんだよ月島!言いたい事あるならちゃんと言えって!」
「…バカ日向、ウルサイ」
「なんだとー月島ー!!」
日向に絡まれながらも、蛍はふっと視線を俺に戻す。
「佑月さん、」
「ん?」
蛍は少しだけ息を吸って、ほんの一瞬だけ迷ったように目を伏せた。そして、いつもの淡々とした声で、でもどこか柔らかく言った。
「……会えて、よかったです」
「俺も蛍に会えてよかったよ」
蛍はその言葉に、わずかに目を見開いて、すぐにそらした。その横顔は、どこか嬉しそうで、でも少しだけ寂しそうだった。
炭火の匂い、焼ける肉の音、遠くで響く笑い声。体育館の張り詰めた空気とは違う、柔らかくて、どこか切ないような熱気が広がっている。
こういう賑やかさも、今日で終わりなんだと思うと、胸の奥が少しだけきゅっとした。
夏の終わりを、ほんの少しだけ先取りしたみたいな感覚。
そのときだった。
「……佑月さん、いつから烏野になったんですか」
背後から落ち着いた声がして、振り向く。そこに立っていたのは赤葦くんだった。紙コップを二つ持って、少しだけ首を傾けている。
陽の光を受けて、黒髪の一部がほんのり透けて見えた。汗で額に張りついた前髪が、練習の余韻を感じさせる。さっきまでの賑やかさとは違う、静かな空気がふっと流れ込んでくる。
「飲み物、持ってきたんですけど……どちらがいいですか」
どちらでもいいのに、赤葦くんがわざわざ二つ持ってきて俺に聞いてくれるのが、妙に嬉しかった。
「…二つ飲みたい」
「じゃあ、これ置いときます…俺も持ってくるので」
「あぁ、そうじゃなくて…わけっこしよ」
「はっ?」
「嘘嘘、冗談だって、じゃあ…こっち」
「……烏龍茶です」
赤葦くんが少しだけ眉を上げる。その反応がなんだか可笑しくて、つい笑ってしまう。
そのとき、横で蛍が小さく息を吸ったのが分かった。視線を向けると、蛍は日向の皿を受け取りながら、わざとらしいくらい自然に言った。
「日向、変わってあげなよ」
「はっ!変わります!俺、肉焼くの得意です!家でよくやってます!ホットプレートも経験者です!!」
日向が元気よく俺の手元からトングを奪う。蛍はほんの一瞬だけ、俺と赤葦くんの方へ視線を向けた。
その目は、どこか寂しそうで、でも優しい目。
「じゃあ、行きましょ」
赤葦くんに促されて歩き出すと、背後で蛍が小さく笑った気がした。蛍の笑い声が背中に落ちてきて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
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体育館の影に入ると、さっきまでの熱気が嘘みたいに静かになる。風が通り抜けて、汗ばんだ肌にひやりと触れた。
少し離れたところでは、光太郎が日向と何かを競い合っているらしく、
「おい日向ー!!俺の勝ちだろ!!」
「いやいやいや!今のは俺ですってば!!」
賑やかな声が響いていた。その声を聞きながら、赤葦くんが小さく笑う。
「焼肉食べるだけで、なんでそんなに騒げるんですかね」
「あの二人は特別でしょ…」
「…二人が仲良くなるのだけは阻止したかったです」
「なんか、似てるしな、あの二人」
「似てます。元気で、まっすぐで」
「赤葦くん、そういうの好きでしょ」
「……嫌いじゃないです」
赤葦くんの横顔が、風に揺れる前髪の隙間からちらりと見えた。その表情が、いつもより少し柔らかい。
「羨ましいです。ああいう風に、迷いなく笑えるの」
「赤葦くんだって笑ってるよ、今」
「……佑月さんが隣にいるからですよ」
「うわ、ずる…そんなこと言って」
「本当のことなので」
赤葦くんは気づいていないふりをして、紙コップの縁を指でなぞっている。
「あー日向、可愛かったね」
話題を変えるように、そういってみる。
「佑月さんが好きそうなタイプですよね」
「それ、光太郎に似てるって言ってる?そしたら赤葦くんもじゃん」
「まぁ、可愛い後輩だなとは思います」
「やっぱり」
笑い合うと、夏の空気が少しだけ軽くなる。ふと、赤葦くんが俺の方へ体を少し傾けた。距離が、ほんの数センチ近づく。その動きが自然すぎて、逆に心臓が跳ねた。
「今日の試合……佑月さん、見てくれてましたよね」
「うん」
赤葦くんは紙コップを両手で持ちながら、少しだけ目を伏せた。その仕草が、普段より年相応に見えて、胸がくすぐったい。
「……さっきの言葉、嬉しかったです」
体育館での赤葦くんとのやりとりを思い出して、また胸の奥で蘇る。昼の光のせいか、赤葦の横顔がいつもより柔らかく見えた。いや、光のせいじゃなく、たぶん俺が勝手にそう見てるだけだ。
「俺、…赤葦くんのプレー、好き」
言った瞬間、赤葦くんがわずかに瞬きをしたその一瞬の揺れが、やけに綺麗で、息が止まりそうになる。
「佑月さんに言われると、変な感じになります」
「変な感じ?」
「……落ち着かないというか。もっと見てほしくなるというか」
赤葦くんは言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「……今日、俺がツーを決めたとき。佑月さん、どんな顔してたんですか」
「え?」
「……見てなかったんです。でも、気になって。雀田さんたちがすごい顔してたって…」
「あぁ、まぁ…」
男のときめいた顔なんて見たって面白くないだろうに、赤葦くんは佑月さんは特別なんて言ってくるから恐ろしい。赤葦くん摂取しすぎて死ぬのかな、俺。
「赤葦くん、かっこよかったから…」
正直に言ったら、赤葦くんが一瞬だけ息を呑んだ。
「じゃあ…もっとかっこいいところ、佑月さんには見てもらわないとですね」
「…っ、」
その言葉の破壊力が強すぎて、心臓が跳ねる。 顔が熱い。視線を合わせるのが怖い。
「…そんな顔してたんだ、佑月さん」
攻めすぎじゃない、赤葦くんほんとに。
「あ、赤葦くんがかっこいいのが悪い」
言い返すと、赤葦くんが小さくため息をつきながら、でもどこか楽しそうに笑った。その笑い方がまたずるい。赤葦くんがほんの少しだけこちらに視線を寄せた。
(近い……近いって……)
赤葦くんが、ふっと息を吸う。その仕草だけで胸が苦しくなる。
「……離れたくないです」
その言葉が落ちた瞬間、心臓が一拍遅れて強く脈打った。
(無理……ほんとに無理……かっこよすぎる……)
「佑月さん」
「ん?」
「さっき……月島、何か言ってましたよね」
赤葦くんは前を向いたまま、声だけが少し柔らかい。気づいてたんだ、赤葦くん。
「会えてよかったって」
「……そうですか」
赤葦くんは小さく息を吐いた。それが安堵なのか、嫉妬なのか、判断がつかない。でも次の瞬間、赤葦くんがふっと俺の方へ体を寄せる。肩と肩が、かすかに触れた。わざとじゃない距離じゃない。でも、偶然にしては近すぎる。
「……佑月さん」
名前を呼ぶ声が、いつもより低い。昼の光が赤葦くんの横顔を照らして、汗の粒がきらりと光った。
「俺…ずっと言いたかったことがあって」
「え?」
赤葦くんは紙コップを持つ手を少し強く握った。その指先が、ほんの少し震えている。
「……佑月さんが、誰と話しててもいいんですけど」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。その“ゆっくり”が、逆に心臓に悪い。
「最後には……俺のとこに戻ってきてほしい」
胸が一瞬で熱くなる。
「…、ほんと、ずる」
そう言うと、赤葦くんがわずかに目を見開いた。そして、ほんの少しだけ近づいた。本当に、触れそうな距離。
「もっと頑張ります」
「…何を?」
「……佑月さんに、もっと見てもらえるように」
風が吹いて、赤葦くんの髪が俺の頬に触れた。
その一瞬が、やけに長く感じた。
▼
赤葦くんの横顔が近すぎて、その声が優しすぎて、これ以上ここにいたら、胸の奥の何かが決壊しそうだった。
喉がきゅっと締まって、呼吸が浅くなる。心臓がうるさくて、赤葦くんに聞こえそうで怖い。
「……ごめ、ちょっと、飲み物こぼしそうだから……」
自分でも意味の分からない言い訳を口にして、俺はその場を離れた。
体育館の裏手に回り込んだところで、ようやく息を吐く。背中にまだ赤葦くんの声が残っていて、振り払えない。自分から言っときながら、後一年半もこの気持ち引きずらなきゃいけないのかよ、赤葦くん、なんかずるいし。
胸の奥がまだ熱い。落ち着こうと深呼吸した瞬間。
「おっと、逃げ足速いじゃん」
「……クロ?」
壁にもたれていたクロが、片手をポケットに突っ込んだまま俺を見ていた。待ち伏せしていたくせに、どこか気まずそうに片眉を上げる。
「赤葦くんと仲良くなってよかったな」
「それはそうだけど、…赤葦くんの卒業まで待つことにして」
「…そんな待たせんのかよ」
クロは肩をすくめて笑った。興味なさそうに見えるのに、その笑い方がどこか優しい。
「俺もやりたい事見つけたし…」
「あ、そう」
返事は軽いのに、クロの視線が一瞬だけ俺の顔を探るように動いた。そのほんの一瞬が、妙に胸に引っかかる。
「佑月くんは、合宿どうデシター?」
「楽しかったかな、」
「へぇ、どんなところが?」
「去年までは、力仕事ばっかやってて、あんまりバレーしてる姿見なかったけどさ、今年見て面白いなと思った」
そう言った瞬間、クロの表情が止まった。
目がわずかに見開かれて、息を呑んだように肩が微かに揺れる。すぐにいつもの調子に戻ったけど、その一瞬の静けさが胸に残った。
「クロ?」
「佑月からそれが聞けてそれだけで満足」
クロは笑った。けれどその笑いは、口元だけが上がっていて、目の奥が少しだけ揺れていた。声の奥に、かすかな震えが混じっている。
「?」
俺が首を傾げると、クロはそっと手を伸ばして俺の頭を撫でた。その指先が、ほんの少しだけ震えているのに気づく。優しいけれど、迷いを含んだ撫で方だった。
「佑月、幸せでいて」
冗談みたいな言い方なのに、祈るような響きがあった。
「重……っ!あーもしかしてクロ、結構俺のこと好きだったり?」
軽口のつもりで言ったのに、クロは目を細めて、少しだけ息を吐いた。
「今更気づいたのかよ」
「…え、まじで」
「……友達としてね」
友達としてと言いながら、クロは俺の目をまっすぐ見なかった。
視線が一瞬だけ俺の胸元に落ちて、それからいつもの軽い笑顔に戻る。その優しさが、胸の奥をじんわり熱くした。
(あ、これ……クロ、ほんとは……でも、言わないんだ)
気づいた瞬間、胸が少し痛んだ。でもクロは、何事もなかったように笑っていた。
「…気づかなくてごめん」
そう言うと、クロは両手を広げて俺を見た。
「ハグミー」
ふざけた声なのに、その目だけはどこか真剣で、 冗談に逃げているようにも見えた。
「嫌だよ」
「この流れはするだろ、ふつーに空気読んでくださいよ、佑月くん」
「…赤葦くんが、そういうの嫌がるから」
「なるほどねぇ。じゃあ、俺から」
腕を引かれて、そのままクロの胸元へ。 抱きしめられた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩む。
「は、聞いてた?」
「聞いてた」
クロの腕はあたたかくて、優しいけれど、途中でふっと力がこもった。 離したくない気持ちが、腕の強さに滲んでいた。
「…クロも俺も、お互い、不器用だな」
「そ、友達同士で、似た物同士」
クロの声は軽いのに、抱きしめる腕だけが、ほんの少し強かった。
「…3秒だけだから」
いち、にー、と数え始めた瞬間、クロの腕がゆっくりと緩んでいく。
離れる直前、ほんの一瞬だけ、その腕にためらいみたいな力がこもったのを感じた。そして。
「っ」
額に、かすかに触れる温度。本当に触れたのか迷うほどの、弱いキス。驚いて顔を上げると、クロはいつもの笑顔を浮かべていた。
けれど、その目だけが違った。笑っているのに、どこか遠くを見ているような、何かをそっと手放すみたいな目。
視線が一瞬だけ俺の目を捉えて、すぐに逸らされる。その“ほんの一瞬”に、クロの本音が全部滲んでいた。
「……幸せになれよ、っていう祝福」
声は軽いのに、その奥に沈んでいるものは軽くなかった。祈るみたいで、願うみたいで、でもどこかで諦めているような響き。胸の奥がぎゅっと縮む。
「…まじでありえない」
そう言った俺の声が、少しだけ震えていたのを、クロは気づいたのか、気づかないふりをしたのか、ゆっくりと肩をすくめて笑った。
「いやぁん、もっとキュンキュンしてよ。みんなの黒尾鉄朗ですよ」
軽口なのに、その笑い方はいつもより少しだけ弱かった。
「はぁ、…馬鹿かよ」
そう言いながらも、胸の奥の重さが少しだけ和らいでいく。クロのこういうところは、ほんとに。
俺が歩き出すと、クロが後ろからついてくる。足音が静かで、いつもよりゆっくり。
「クロ、」
「ん?」
振り返ったクロは、さっきよりも柔らかい目をしていた。でもその奥に、まだ言えない何かが沈んでいる。
「…背中押してくれてありがと」
クロは一瞬だけ目を伏せて、息を整えるように小さく吸ってから、ゆっくりと笑った。
「どういたしまして」
その笑顔は優しいのに、どこかで“距離”を置いているようで、胸の奥がまた少し痛んだ。
クロが選んだ“友達”という距離。
その優しさに救われているのに、同時に、救われるほど苦しくなった。