俺が、三年生になってからの体育館の空気が少しだけ変わった。ボールの弾む音も、シューズが床を擦る音も、何ひとつ変わっていないはずなのに、そこに“木兎さんたち三年生の声がない”というだけで、世界の輪郭がわずかに薄くなったように感じた。
その事実は、思っていた以上に静かに胸へ沈んでいく。
ふとした瞬間に思い出す。あの日、佑月さんが少し照れたように笑って言った言葉。
『赤葦くんが卒業したら、その時に……俺からちゃんと告白したい』
その約束は、胸の奥でずっと灯り続けている。消えることのない、小さな光のように。けれど、会えない時間が長くなるほど、その光の輪郭は少しずつ揺らぎ、不安の影が伸びていく。
胸の奥がきゅっと縮むような、落ち着かない感覚。
(……本当に、来てくれるんですか)
そんな弱い気持ちが、時々胸をかすめた。自分でも驚くほど、簡単に。そのたびに呼吸が浅くなる。
部活終わりにLINEを開くと、木兎さんから連絡が入っていた。
『佑月が一緒に映画見に行かないかって。これ佑月の連絡先。見たら連絡してやって』
不安が積もったタイミングで、こうして絶妙に連絡をくれるのだから、この人は本当に。胸の奥がざわつくのに、どこか救われる。
けれど、落ち着かない気持ちのまま、すぐに佑月さんへ連絡する勇気は出なかった。指先がわずかに震えて、文字を打つ気になれなかった。家に帰ってからにしよう、と自分に言い訳をする。
「……これ」
歩きながらSNSを開くと、木兎さんのストーリーに木兎さんと佑月さんが映っていた。その一瞬だけが、画面越しなのに妙に眩しくて、胸の奥がふっと温かくなる。歩く速度が自然と緩む。
二人で、一緒にいるんだ。時間を確認すると、ちょうど一時間前くらいだろうか。
卒業してから、木兎さんは実家を出たらしい。
一方で佑月さんは「光太郎のことでお金がかかるから」と、この一年は実家に残ることにしたと聞いた。まぁ、全部木葉さん情報で、正確なところは分からない。
SNSの画面に映る二人の姿を見て、思わず指が止まった。
「……相変わらず一緒なんですね」
自分でも驚くほど、声が柔らかかった。木兎ツインズが、卒業後も変わらず寄り添うように笑っている。
その光景は、胸の奥に張りつめていた何かをそっとほどくように温かかった。
卒業しても、距離が変わっても、あの二人の間に流れる空気はそのままだ。
その事実が、思っていた以上に心を温めた。
(……良かった)
言葉にならない安堵が、頬の緩みとなって滲み出た。体育館で感じた“空白”が、少しだけ埋まったような気がした。
ふと、あることに気づく。
(……そういえば、連絡先、ちゃんと知らない)
佑月さんとはSNSで繋がっていたから、特に気にしたこともなかった。必要なときは木兎さん経由で届くし、それで十分だと思っていた。俺は断然“見る専”で、ストーリーを上げる側の気持ちはよく分からない。でも、二人が会っている時に、俺の話題が出たのかと思うと、胸の奥がじんわり温かくなる。
そんなときだった。
「あ……更新された」
木兎さんのアイコンが、また虹色に光る。
『連絡来ないって心配そうにしてるぞーストーリー見てんなら連絡してやれ!』
今度は飲食店らしき場所で、スマホを両手に持ってしょんぼくれている佑月さんが映っていた。
その表情が、妙に胸に刺さった。笑っている写真よりも、この“しょんぼりした顔”のほうが、ずっと心を揺らす。
「……佑月さんのしょぼくれモード…可愛いな、この人たち」
思わず呟いてしまう。この双子、可愛すぎる。
けれど、胸の奥の温かさは、ただの微笑ましさだけではなかった。
(……俺のせいで、あんな顔してるのか)
そう思った瞬間、胸の奥で小さな光がまたひとつ、強く灯った。
その光は、期待と不安が混ざったような、自分でも扱い方の分からない熱を帯びていた。気づけば、さっきのストーリーと今のストーリーをスクショして、そのまま家に帰る足を速めていた。
早く帰りたい。落ち着いた場所で、ちゃんと向き合いたい。そんな気持ちが、自分でも驚くほど自然に湧いていた。
▼
玄関の鍵を閉めた瞬間、外の空気がふっと遠ざかって、部屋の静けさが胸の奥に落ちてきた。鞄を置くより先に、スマホを取り出してしまう自分に気づく。
(……落ち着け)
そう言い聞かせても、指先はわずかに震えていた。
さっき見たストーリーの佑月さん。両手でスマホを持って、しょんぼりと肩を落としていた姿が、どうしても頭から離れない。
(……俺のせいで、あんな顔を)
胸の奥がきゅっと痛む。その痛みが、迷いを押し流すように背中を押した。
木兎さんから送られてきたLINEを開く。画面を見つめて、深く息を吸う。胸が上下するのが自分でも分かる。
『赤葦です。よろしくお願いします』
メッセージを送ったすぐに、LINEの着信音が鳴る。心臓が跳ねる。通話ボタンを押した瞬間、喉が乾くほど緊張した。
『……赤葦くん?』
その声は、思っていたよりずっと近くて、少しだけ震えていた。
「……はい。赤葦です」
自分の声も、わずかに掠れている。
『よかった……本当に、よかった。連絡、くれると思ってたけど……ても、ちょっと不安で』
その言葉が胸に落ちた瞬間、今日一日積もっていた不安がすっと溶けていく。
「……すみません。部活終わった後だったので、すぐに連絡できなくて」
『ううん。赤葦くんが連絡くれたなら、それで十分だよ』
電話越しなのに、佑月さんが微笑んだ気配が分かる。胸の奥が、静かに熱を帯びた。
「……映画、行きたいです。佑月さんと」
言葉にした瞬間、沈黙が落ちた。けれど、その沈黙は苦しくなくて、むしろ柔らかく包み込むような静けさだった。
『……ありがとう。本当に、嬉しい』
その声が胸の奥に染み込んでいく。赤葦は息をひとつ整えて、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じながら口を開いた。
「……あの、映画って……どんなのを?」
『赤葦くんが合宿の時に読んでたやつ』
「……え?」
思わず背筋が伸びる。心臓がひとつ跳ねた。
『俺も気になって、あの後見たんだ。面白かったからさ』
その声は、春の夕陽みたいに温かかった。胸の奥で灯った光が、もう簡単には消えないと悟った。
「……じゃあ、今度の土曜日。練習、終わらせてから行きます」
『うん。楽しみにしてる』
その言葉に、赤葦の呼吸が一瞬だけ止まった。
「……佑月さん」
『ん?』
名前を呼んだ瞬間、言いたいことが喉の奥でほどけてしまう。胸が熱くなり、言葉が出てこない。
「あ……その……おやすみなさい」
『赤葦くん、おやすみ』
通話が途切れた瞬間、部屋の中に深い静けさが戻ってきた。けれど、その静けさはさっきまで感じていたものとはまったく違っていた。スマホを握る指先に、まだ佑月さんの声の温度が残っている気がする。
指先がじんわり熱い。胸の奥が、ゆっくりと波打った。呼吸が自然と深くなる。
(……嬉しい、なんて)
そんな言葉を自分に向けるのは、どこか気恥ずかしくて、でも否定できるほど弱くもなかった。
ベッドの端に腰を下ろすと、緊張がほどけたせいか、身体が少しだけ沈み込む。
天井を見上げる。白い天井は何も語らないのに、心の中だけが妙に騒がしい。
佑月さんの声が、何度も胸の奥で反響する。
『……ありがとう。本当に、嬉しい』と、その言葉が、まるでゆっくりと染み込んでくるように心の奥で広がっていく。
自分が誰かに“嬉しい”と言われて、こんなにも心が動くなんて、思ってもみなかった。
(……俺も、です)
電話では言えなかった言葉が、遅れて胸の中に浮かぶ。言えなかったけれど、言わなくても伝わっていた気がする。そんな確信めいたものが、静かに灯っていた。
スマホの画面をそっと伏せる。画面の向こうにいた佑月さんの気配が、まだ消えずに残っている。胸の奥で、小さな光がまたひとつ、確かに強くなった。
(……会いたい)
その言葉が、今度ははっきりと形を持って胸に落ちた。
逃げるように目を閉じても、その光は消えなかった。