大学に入って最初の春。まだ新しい空気に馴染めずにいた頃、隣の席の男子が、まるで旧友にでも声をかけるように言った。
「ねぇ、君。モデル、やってみない?」
唐突な誘いに、思わず眉が動く。
「……は?」
「驚かせたよね。一年に“絵になるやつ”がいるって聞いてさ」
軽やかに笑いながら、彼は自分を佐伯と名乗った。写真学科。首から下げたカメラが、彼の言葉より雄弁に彼を語っていた。
「へぇ…指輪、素敵だね」
「あぁこれ俺が作った…まだ趣味だけど」
「まだって言うレベルじゃないよ。ブランド、始められる」
軽い調子なのに、言葉の芯は妙に真っ直ぐだった。
「もし本当にやるなら、僕に撮らせてよ。広告も、ビジュアルも。君の光を、写真に閉じ込めたい」
「俺の……?」
「そう。それに、モデルは君だけじゃない」
佐伯は、わざとらしく目を細めた。
「木兎光太郎と……赤葦京治」
胸が跳ねた。名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱を帯びる。
「帰りにスタジオに来なよ。後悔はさせないからさ」
その言葉に、気づけば頷いていた。
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スタジオの扉を開けた瞬間、白い光が視界を満たした。レフ板、三脚、無機質な床。大学の設備とは思えないほど整った空間だった。
「来たね。これ、プロット」
渡された紙には、
“光”“影”“手元”“非売品のリング”
そんな言葉が静かに並んでいた。
「……俺のブランドの?」
「そう。君の世界観を“最初の一枚”にするための設計図」
世界観。そんな大層なものを持っているつもりはなかった。けれど佐伯は迷いなく言う。
「佑月の指輪は、光が綺麗なんだ。だから“光を撮る”ってテーマにした」
「光を……撮る」
「そして、その光を一番美しく見せるのは——」
佐伯は、答えを知っている人間の笑みを浮かべた。
「君と、君の弟と……赤葦京治だよ」
胸がまた跳ねた。
「なんでそんなに俺たちに拘るんだよ」
「美しいからさ。写真家は、美しいものに抗えない」
冗談ではなかった。
その目は、光を探す者の目だった。
「でも……赤葦くんはまだ高校生だし」
「顔は写さない。むしろ“見せない美学”のほうが、物語は深くなる」
その瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
(……赤葦くんの手)
光を受けたときの柔らかさ。リングを置いたときの馴染み方。想像するだけで、胸がざわつく。
(この光を一番綺麗に見せてくれるのは……赤葦くんだ)
理由なんて、もう分かっていた。
でも、それを言葉にするのは怖かった。
「……誘いは嬉しいけど、この指輪は売れない」
「どうして?」
「…三人だけの指輪だから」
光太郎の太陽みたいな明るさ。
赤葦くんの静かな影の美しさ。
そして、自分の作る光。
三つが揃って初めて完成する指輪。
だから売れない。誰のものでもなく、三人のものだから。
「なるほど」
佐伯は笑った。だが、その目は鋭く光った。
「佑月。君は頭がいいのに……大事な人のことになると、途端に鈍くなる」
「……は?」
「責めてるわけじゃない。むしろ、作り手らしい」
佐伯は俺のを手に取り、光に指輪を透かした。
「これは未来のための指輪だろう?君が一歩踏み出さない限り、未来は形にならない」
胸が痛いほど跳ねた。
「それに——」
佐伯は静かに言った。
「君さ、今は他のデザイン作る気ないだろ」
「、っ」
「…勿体ないとは思う。君の作品は人の目に触れたら、欲しがる人が山ほど出る」
佐伯は少し笑って、続けた。
「でもね、それを“利用”しないと」
「利用……?」
「“誰にも渡せない三人の指輪”。
“ブランドの始まりを閉じ込めた指輪”。
呼び方は何でもいい」
佐伯は指輪を照明にかざすように見つめた。
「君の指輪にはストーリーがある。そのストーリーを感じ取れる人がどれだけいるか……それがブランドの価値になる」
「……」
「撮影の時、赤葦くんには指輪をつけさせないつもり」
「……え?」
「だって、その指輪は……まだ渡してないんだろ」
「……っ」
「ほら、やっぱり」
責めるでもなく、ただ“見えてしまった事実”を静かに置くような声。
「君が彼に渡せない理由も、渡したい気持ちも……全部、指輪に出てる」
言葉が出ない。
否定も肯定もできない。
佐伯は少し視線を落とし、静かに続けた。
「……僕もさ、高校時代、好きになったのが男だった」
淡々としているのに、その言葉の奥には確かな痛みがあった。
「周りの目とか、“普通じゃない”って言葉とか、色々あったよ。だから分かるんだ。大事な人のことになると、急に怖くなる気持ち」
そして、佐伯は指輪を照明にかざした。
「でもね、佑月。君の指輪は、僕たちみたいな人間にも“分かる”光だよ。誰かを大切に思う気持ちが、ちゃんと形になってる」
佑月の胸が熱くなる。
「……そんな光を作りたいならさ」
佐伯は指輪をそっと置き、
佑月の目をまっすぐ見た。
「もう悩む必要ないよ。佑月、未来の準備を今から始めたほうがいい」
「……未来の準備」
「そう。赤葦くんに、その指輪を渡したら——君のブランドは“完成”する」
その言葉は、俺の胸の奥に火をつけるようだった。
「……完成なんかじゃない」
「じゃあ、何?」
「俺が渡せた時から……やっと始まるんだ」
佐伯は満足そうに笑った。
▼
その日の夜。光太郎に誘われて、赤葦くんと三人で駅前の定食屋に入った。
「佑月、今日なんかテンション違くね?」
光太郎が唐揚げを頬張りながら言う。
「……そうか?」
「うん。なんかこう……“やるぜ!”みたいな顔してる」
図星すぎて返せない。赤葦くんは味噌汁を飲みながら俺のことを見た。
「何か、ありました?」
その問いに、胸が少し跳ねた。赤葦くんの声はいつも落ち着いているのに、なぜか自分の心だけがざわつく。
「……あのさ」
箸を置き、二人を見た。
「ちょっと……手伝ってほしいことがある」
光太郎が目を丸くする。
「佑月が俺らに頼みごと?珍しっ」
赤葦くんは静かに頷いた。
「内容を聞いても?」
俺は深呼吸をした。
「指輪のこと、…ブランドを、ちゃんと形にしたいんだ」
光太郎が目を輝かせる。
「…まだ“売る”とかじゃないんだ。でも……“最初の光”をちゃんと見せたい」
赤葦くんの目がわずかに揺れた。その反応に、胸が少し熱くなる。
「それで……二人に協力してほしい」
「協力って、何を?」
赤葦くんが静かに尋ねる。
「撮影。佐伯ってやつが手伝ってくれるんだけど……光太郎と赤葦くんにも、モデルになってほしい」
光太郎は即答した。
「やる!佑月のためならなんでも!」
赤葦くんは少しだけ考えてから、ゆっくりと頷いた。
「…俺でよければ」
その言葉に、胸がじんわり熱くなる。
「ありがとう。本当に……二人がいてくれないと、始められないから」
光太郎が笑う。
「佑月、なんか今日かっけぇな」
赤葦くんは静かに微笑んだ。
「……未来の準備、ですか?」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
(……聞こえてたみたいだな)
「……あぁ。未来のために、一歩踏み出したいんだ」
赤葦くんはその言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ……僕も、その一歩に協力します」
その瞬間、まだ誰のものでもない光が少しだけ未来に近づいた気がした。