俺は合宿前の手伝いもする

しゅさいど

 それから程なくして、合宿の準備が本格的に始まって、部室はいつも以上に騒がしくなっていた。
光太郎の声が飛び交い、後輩たちが走り回り、ホワイトボードの前では赤葦くんが淡々と指示を出している。その喧騒から少し逃げるように、俺は体育館裏の倉庫へ向かった。


 光太郎に頼まれたボールの数確認。別に難しい作業じゃないし、静かな場所で一息つけるなら悪くない。

 倉庫の扉を開けると、薄暗い空気がひんやりと肌に触れた。夕方の光が隙間から差し込んで、積まれたボールの影が長く伸びている。

「……はぁ」

 思わずため息が漏れた。今年も結局、合宿に参加することになった。断るつもりだったのに、気づけば頷いていた。まぁ、いつものことだ。そう自分に言い聞かせてボールを数えていると、倉庫の扉が静かに開いた。

「……あ、赤葦くん」

 振り返ると、赤葦くんが立っていた。薄暗い倉庫の中で、彼の落ち着いた表情だけがはっきり見える。

「光太郎に頼まれて、ボールの数確認してて」
「そうだったんですね。俺も、メニュー表の控えを取りに来たところです」

 赤葦くんの声は、いつもより少し柔らかく聞こえた。倉庫の静けさのせいか、それとも……別の理由か。俺はボールを数える手を止めた。

「合宿、……結局、今年も参加することになっちゃった」
「佑月さんは木兎さんの事、断れないですもんね」
「それは赤葦くんもだろ?というか、光太郎のお願い事って誰も断れない気がする」
「なんか悔しいけど分かります。それ」
「本当にな、困ったものだよ」

 苦笑しながら言うと、赤葦くんはほんのわずかに目を細めた。

「……嬉しいですよ」
「え?」

 思わず聞き返してしまった。赤葦くんは少し視線を落としながら続ける。

「去年、佑月さんがいてくれて、助かったので。だから、今年も来てくれるのは……正直、ありがたいです」

 その言葉は、静かで、まっすぐで、嘘がないように聞こえて。胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 俺なんかが役に立ってるなんて思ってなかった。ただ、光太郎に頼まれたから手伝ってただけで。でも、赤葦くんがそう言うなら、少しくらいは意味があるのかもしれない。

「赤葦くんにそう言われると、なんか……頑張ろうかなって思うな」

 自然と笑みがこぼれた。赤葦くんは、ほんの少しだけ表情を緩めた気がした。

「……無理はしないでくださいね。でも、いてくれると助かります」

 その言葉が、倉庫の静けさに溶けていく。なんでもないようで、妙に心に残る声だった。

 そのとき、倉庫の外から光太郎の大声が響いた。

「おーい!あかーしー!佑月ー!どこ行ったー!」

 二人で顔を見合わせて、同時に小さく笑った。ほんの数分の出来事だったのに、この静かな時間が、合宿のどの準備よりも心に残る気がした。



 合宿の準備がひと段落した頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。部室の窓から差し込む橙色の光が、床に長い影を落としている。

「じゃあ今日はここまで!」

 マネージャーの雀田の声で、部員たちが一斉に動きを止めた。光太郎はまだ元気に跳ね回っていたが、秋紀に軽く肩を叩かれて、ようやく帰る気になったらしい。

 俺は荷物をまとめて廊下に出る。すると、少し先で赤葦くんが立ち止まっていた。

「佑月さん、帰る方向……一緒ですよね」
「あ、うん」
「よかった。じゃあ、行きましょう」

 よかったって何が?そう思ったけれど、聞くほどのことでもない気がして、俺はそのまま隣に並んだ。

「光太郎は?」
「木葉さん達とカラオケ行って帰るみたいです」
「元気すぎるだろ」

 校舎を出ると、夕風が少し冷たかった。赤葦くんは歩幅を合わせてくれているのか、ゆっくり歩いている。

「今日、倉庫で手伝ってくれて助かりました。合宿の準備まで」
「いや、俺は頼まれただけだし」
「それでも、助かりました」

 赤葦くんは、ほんの少しだけ横目で俺を見る。その視線が、妙に丁寧で、優しい。なんだろう、この感じ。
倉庫で話したときと同じ、静かで落ち着く空気。

「……赤葦くんってさ、光太郎の扱い上手いよな」
「慣れです。でも、佑月さんも上手いと思います」
「俺はただ振り回されてるだけだよ」
「それでも、木兎さんのことちゃんと受け止めてる。それって、誰にでもできることじゃないです」

 そんなふうに言われたことがなかったから、少しだけ胸が熱くなる。道の途中、赤葦くんがふと足を止めた。

「……少し寄り道してもいいですか」
「え?」
「今日、頑張ったので。甘いものでも食べませんか。近くに、静かな喫茶店があるんです」

 赤葦くんが甘いものなんて言うのが意外で、思わず笑ってしまった。

「いいよ。俺も疲れたし」
「よかった」

 そのよかったは、さっきよりも少しだけ柔らかかった。

 夕暮れの街を歩きながら、俺は気づく。赤葦くんと並んで歩くのは、思っていたより心地いい。光太郎や秋紀といるときの賑やかさとは違う、静かで、穏やかで、落ち着く時間。

 喫茶店の灯りが見えてきたとき、赤葦くんが小さく言った。

「……佑月さんが合宿に来てくれるの、やっぱり嬉しい」

 その言葉は、夕暮れよりも温かくて、胸の奥にそっと染み込んだ。

 道を少し外れたところに、その喫茶店はあった。外観は古く、木の扉には小さな鈴がついている。

 赤葦くんが扉を押すと、ちりん、と控えめな音が鳴った。店内は落ち着いた照明で、夕方の名残が窓に薄く映っている。お客はまばらで、静かなクラシックが流れていた。

「ここ、よく来るの?」

 席に着きながら聞くと、赤葦くんは少しだけ首を傾けた。

「たまに、ですね。落ち着いて考えたいときとか……木兎さんから逃げたいときとか」
「逃げてんのかよ」
「必要なときは」

 冗談まじりに淡々と言うその声に、思わず笑ってしまう。赤葦くんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。メニューを開くと、ケーキの写真が並んでいた。赤葦くんは迷いなく“チーズケーキ”を指さす。

「甘いもの、食べるんだ」
「疲れたときは、たまに」
「へぇ……意外」
「そうですか?」
「うん。もっと、なんか……苦いコーヒーだけ飲んでそう」
「それは佑月さんのイメージが悪いですね」

 また笑ってしまう。赤葦くんのツッコミは、静かだけど的確だ。注文を終えると、店内の静けさがふたりの間に落ち着いて広がった。気まずさはなく、むしろ心地いい沈黙だった。

「……佑月さん」
「ん?」
「合宿の話……来てくれて、本当に助かります」

 倉庫で言われた言葉と同じ。でも、今はもっと近くで、もっと柔らかく聞こえる。

「俺なんかで役に立つなら、まぁ……いいかなって」
「なんか、じゃないですよ」

 赤葦くんは、まっすぐこちらを見た。その視線は強くないのに、逃げられない。

「佑月さんがいると、木兎さんが調子がいいので。それだけで、俺たちは助かります」
「……そう?」
「そうですよ、いつも大変なんです」

 ふっと笑いが漏れる。赤葦くんの言葉は、いつも静かで、でも芯がある。

「それに……」

 赤葦くんは少しだけ視線を落とした。照明が彼の横顔を柔らかく照らす。

「俺も、佑月さんが来てくれると……安心します」
「安心?」
「はい。去年……佑月さんがいてくれたから、俺は余裕を持てたんだと思います」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。そんなふうに言われるとは思っていなかった。

「……なんか、褒められてる?」
「事実を言ってるだけです」

 赤葦くんは淡々としているのに、どこか照れているようにも見えた。その微妙な変化が、妙に嬉しい。

 ちょうどそのとき、注文したチーズケーキと紅茶が運ばれてきた。

「これ本当に美味しいんですよ」

 赤葦くんはフォークを手に取り、ひと口食べる。その瞬間、ほんの少しだけ目を細めた。

「やっぱり、美味しい」

 その表情が、驚くほど柔らかかった俺は思わず見とれてしまう。赤葦くんって、こんな顔するんだ。

「佑月さんも、どうぞ」
「あ、うん」

 ケーキをひと口食べると、甘さが疲れた身体に染み込んだ。

「……うま」
「でしょう」

 赤葦くんの声が、どこか誇らしげだった。こう言う顔もするんだ。

 喫茶店の静かな空気の中で、ふたりの距離は、言葉よりも自然に近づいていく。

 この時間が、思っていた以上に心地よくて、帰りたくないと思ってしまったのは俺だけだろう。