合宿の準備で部室が慌ただしくなり始めた頃、僕は忘れ物を取りに体育館裏の倉庫へ向かった。夕方の光が差し込む廊下は静かで、さっきまでの喧騒が嘘のようだった。
倉庫の扉を開けると、先客がいた。
「……あ、赤葦くん」
振り返った佑月さんが、少し驚いたように目を瞬かせた。薄暗い倉庫の中で、その表情だけが柔らかく浮かび上がる。
「光太郎に頼まれて、ボールの数確認してて」
「そうだったんですね。俺も、メニュー表の控えを取りに来たところです」
言いながら、自分の声がいつもより少しだけ落ち着いていることに気づいた。二人きりになると、どうしてこんなふうに呼吸が静かになるのか、自分でもよく分からない。
「合宿、……結局、今年も参加することになっちゃった」
佑月さんは苦笑しながら、ボールを数える手を止めた。
「佑月さんは木兎さんの事、断れないですもんね」
「それは赤葦くんもだろ?というか、光太郎のお願い事って誰も断れない気がする」
「なんか悔しいけど分かります。それ」
「本当にな、困ったものだよ」
その横顔は、どこか諦めているようで、それでも優しさが滲んでいる。
「……嬉しいですよ」と、気づけば、言葉が口をついて出ていた。
「え?」
佑月さんがこちらを見る。驚いたような、でも責めるでもない目。俺は少しだけ視線を落とした。
「去年、佑月さんがいてくれて、助かったので。だから、今年も来てくれるのは……正直、ありがたいです」
嬉しいと言うには、あまりにも直接的すぎる気がして、言葉を選んだ。だが、胸の奥では確かにその言葉が響いていた。佑月さんは、少しだけ頬を緩めた。
「赤葦くんにそう言われると、なんか……頑張ろうかなって思うな」
その言葉に、胸の奥がふっと温かくなる。倉庫の薄暗さのせいか、夕方の光のせいか、それとも別の理由かは分からない。
「……無理はしないでくださいね。でも、いてくれると助かります」
そう言うと、佑月さんは「うん」と短く頷いた。その仕草が、妙に胸に残る。
倉庫の外から、遠く木兎さんの声が聞こえた。
「おーい! あかーしー! 佑月ー! どこ行ったー!」
二人で顔を見合わせて、思わず小さく笑った。ほんの数分の出来事だったのに、この静かな時間が、合宿のどの準備よりも心に残る気がした。
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家に帰り、制服を脱いで机に向かったものの、勉強はまったく進まなかった。
急に一緒に帰りたいなんて、先輩を誘うのは非常識だっただろうか。
ノートを開いたまま、ペンを持つ手が止まっている。喫茶店での佑月さんの顔が、ふと浮かんでしまう。
チーズケーキを食べて「うま」と言ったときの、あの素直な表情。慣れない部活動の合宿準備に、木兎さんに振り回されて疲れているはずなのに、どこか柔らかく笑っていた。
あんな顔をするんだ、と、思った。倉庫で話したときもそうだった。
夕方の薄暗い光の中で、佑月さんの横顔は妙に落ち着いていて、その静けさが、俺の心まで静かにしてくれた。
安心する。と、喫茶店で言った言葉は、嘘じゃない。むしろ、あれ以上に正確な言葉が見つからなかった。
佑月さんがいると、木兎さんが調子がいい。それは事実だ。でも、それだけじゃない。佑月さんがいると、俺自身も余裕を持てる。そんな人は、今までいなかった。
帰り道、歩幅を合わせて歩いたときの静けさも心地よかった。無理に話さなくてもいい沈黙。 それが苦じゃない相手なんて、そう多くない。
喫茶店の扉を出たとき、夕暮れの風が少し冷たかった。そのとき佑月さんが、袖を軽く押さえながら言った。
「なんか……こういうの、久しぶりだな」
そのこういうのが何を指しているのか、聞かなかった。聞いたら、何かが変わってしまいそうで。でも、胸の奥が静かに温かくなったのは確かだった。
また一緒に帰れたらいい。
そんなことを思ってしまった自分に、少し驚く。でも、不思議と嫌じゃない。
机の上のノートを閉じる。
あと数日で夏休みが始まる。明日も部活がある。きっとまた忙しくなる。合宿に、佑月さんが来てくれる。だからその忙しさも、悪くない。
そんなふうに思える自分が、少しだけ新鮮だった。
▼
翌日の放課後、部室は昨日と同じように慌ただしかった。
ホワイトボードには新しいメニューを書き足すスペースがもうほとんど残っていない。俺は後輩に指示を出しながら、ふと視線を上げた。
佑月さん、何処にいるだろう。探すつもりはなかった。
でも、昨日の喫茶店での時間が、思っていた以上に心に残っていて。気づけば、視線が自然と彼を探していた。
部室の入り口近くで、段ボールを抱えている姿が見えた。その瞬間、胸の奥が静かに軽くなる。
(……よかった)
理由は分からない。ただ、そこにいてくれることが、妙に安心だった。
佑月さんは段ボールを運びながら、ちらりとこちらを見た。その視線が一瞬だけ合う。
驚いたような、探していたような。そんな微妙な色が混ざっていた気がした。
俺は小さく頷いた。それだけで、佑月さんはほんの少しだけ表情を緩めた。
その変化が、昨日よりも近く感じる。
「赤葦さーん!これどこ置けばいいですか!」
後輩に呼ばれて振り返る。指示を出しながらも、意識のどこかで佑月さんの気配を追っていた。段ボールを置き終えて戻ってきた佑月さんへ、さりげなく近づいていく。
「佑月さん、昨日の喫茶店……ありがとうございました」
「え、なんでお礼?」
「……楽しかったので」
素直に言葉が出た。昨日の時間を思い返すと、自然とそう言いたくなった。佑月さんは少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに柔らかく笑った。
「俺も、楽しかった」
その笑顔は、昨日よりも近い。距離が縮まったと、はっきり分かる。
「…じゃあ、今日も頑張りましょう」
「うん」
たったそれだけの会話なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。佑月さんが来てくれるだけで、合宿の準備が少しだけ楽になる。
そんなふうに思ってしまう自分が、昨日よりも少しだけはっきりしていた。気づけば、佑月さんの背中を目で追っていた。
(……また一緒に帰れる日があるかな)
そんな考えがまた浮かんだことに、自分で驚く。でも、不思議と嫌じゃなかった。
「佑月もこれ持っててーー!」
木兎さんの大声が体育館に響いた。
「呼ばれた」
「呼ばれてますね」
振り返ると、木兎さんが重そうなボールバッグを抱えて、こちらへ歩いてくるところだった。
「赤葦くん、これ……光太郎が持ってけって。どこに置けばいい?」
「すみません、俺も行けばよかったですね」
「いや、これぐらい平気。それに慣れてるし」
佑月さんは苦笑しながらボールバッグを差し出す。その手が少し震えているのに気づいて、俺は自然と手を伸ばした。
「持ちますよ。重いでしょう」
「いや、大丈夫」
「無理しないでください」
指先が触れた瞬間、胸の奥がわずかに熱くなる。ほんの一瞬の接触なのに、意識してしまう。昨日の喫茶店での柔らかい表情が、また蘇る。
「あ、すいません」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。佑月さんは少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。
「大丈夫。やっぱりせっかくだから一緒に持ってもらおうかな」
その笑顔は、昨日よりも近い。佑月さんと距離が縮まったと、はっきり分かる。
そのとき、体育館の向こうから木兎さんの声が響いた。
「おーい!あかーしー!佑月ー!早くー!」
僕と佑月さんは顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
「そんなすぐ持ってけないだろ、光太郎待ってろって」
「木兎さん待っててください」
「もー早くしろーよー!」
木兎さんは、きっと何も考えていない。でも、その無自覚な行動が、また二人の距離をそっと近づけていた。
「……木兎さんには、感謝しないといけませんね」
思わず口にすると、佑月さんが首を傾げる。
「なんで?」
「佑月さんを、俺のところに連れてきてくれたので」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。でも、嘘ではなかった。佑月さんは、照れたように笑った。
「赤葦くん、結構恥ずかしいこと言うじゃん」
その笑顔を見たとき、胸の奥が静かに温かくなる。
(……今日も、来てくれてよかった)と、そんな言葉が、自然と浮かんでいた。