「赤葦ー!俺ら先行ってるからなー!」と、木兎さんの声が廊下に消えていき、佑月さんの「じゃあまたね」という柔らかい声が続いた。
扉が閉まると、部屋は一気に静かになる。さっきまで三人で歩いていたときの賑やかさが嘘みたいだ。
すでに部屋には布団が三つ敷かれており、その部屋に俺ひとり。
静かすぎる。…いや、静かだからこそ、さっきまで胸のざわつきが余計に気になる。
布団の端に腰を下ろし、深く息を吐いた。一日目からこんなので俺の心臓は堪えられるのか。
距離が近づいたとき。 夕食で手を振られたとき。 廊下で袖を引かれたとき。
その全部が、胸の奥をざわつかせた。理由は分からない。分からないのに、思い出すたび心臓が跳ねる。
「……緊張、?」
自分で言ってみても、しっくりこない。緊張なら、もっと分かりやすいはずだ。でもこれは、違う。
もっと曖昧で、もっと厄介で、もっと……説明しづらい。布団に手をつき、天井を見上げる。
(佑月さん……)
名前を思い浮かべただけで、やっぱり胸が熱くなる。
こんな反応、今まで誰に対してもしたことがない。でも、分からなくても、いいんだと、そう自分に言い聞かせた。
理由を探そうとすると、余計に混乱する。理屈で説明できない感情なんて、扱いづらいだけだ。
けれど、今日一日を思い返すと、胸のざわつきは嫌なわけじゃない。むしろ……少しだけ、嬉しかった。
(……このままでも、いいかもしれない)
理由が分からなくても。名前をつけられなくても。
今は練習に集中するべきだ。それに佑月さんとは同室で毎日会えるんだ。それだけで、十分だ。
そう思った瞬間、胸の奥のざわつきが、少しだけ優しくなった気がした。
そんな事を考えてたら、時間が経っていたようだ。俺は立ち上がり、タオル等が入った手提げ袋を手に取る。
胸のざわつきはまだ残っている。 でも、さっきよりずっと軽い。理由は分からないまま。 でも、それでいい。大浴場へ向かう足取りが、少しだけ軽くなった気がする。
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二年の俺たちが大浴場へついた頃には、三年生はほとんど上がっていて、木兎さんと佑月さんの姿もなかった。
湯に浸かると、疲れた身体が一気に軽くなる。それから髪を乾かして部屋に戻ると、布団の上に誰かがうつ伏せで丸まっていた。
髪は濡れたまま、肩にはタオル。木兎さんだろうか。風邪を引かれたら困る。
「木兎さん、起きてください」
「んん……あ、赤葦くん?」
意外にも、佑月さんだった。髪がおりてると木兎さんと色味が似ているのと、さっきまでの雰囲気と違いすぎて、気づかなかった。
「佑月さん、疲れましたか?」
「んー……まぁ。でも楽しかったな」
眠気の残る声。少し掠れた息。その全部が、胸のざわつきを刺激する。
「あ、悪いんだけどさ。それ塗ってくれない?」
佑月さんが指をさした机の上には軟膏があった。
「背中だけでいいんだけど。光太郎、卓球するとか言って飛び出してってさ。全然、帰ってこないから」
「それで寝たんですか」
「そ。お願いしてもいい?」
「それくらいなら手伝いますよ」
薬を手に取りながら、佑月さんがぽつりと言う。
「俺、皮膚弱くて。夏は汗もかいて服と擦れてすぐかぶれるんだよ」
その言葉に、昼間の灰羽の話が頭をよぎる。腰のあたりをそっと覗くと、赤くなっている部分が見えた。
「……これだ」
「びっくりした。なに?」
「いえ……その、これがキスマークに見えたとか」
「キスマーク?誰が言ってたの、そんなこと」
「内緒です」
佑月さんは俺の言葉にくすっと笑い、冗談めかして言った。
「じゃあ赤葦くんがつけてみる?」
「いいんですか」
言った瞬間、自分でも驚いた。胸が熱くなる。佑月さんが驚いた顔をして俺を見る。
「いいんですか、って返ってくるとは思わなかった。ダメだよ、ダメ」
「男に二言はないですよね」
「なんだそれ。でも薬塗ったから本当にダメ」
「……」
「そんな顔しないでよ。なんか俺悪いことしたみたいじゃん」
「タチが悪いです。他の人にはそんなこと言わないでください」
「赤葦くん、面白い」
「心配してるんですよ」
「そっか。じゃあ気をつける」
分かっているのか、分かっていないのか。それから薬を塗った後、佑月さんは髪を乾かしに洗面台へ向かい同時に木兎さんが戻ってきてそのまま俺たちは寝る準備をすることにした。
部屋の灯りが落ち、木兎さんはすぐに寝息を立てた。佑月さんも、静かに布団に潜り込んでいる。
俺は、眠れなかった。
背中に触れたときの体温。 近づいたときの息遣い。 「赤葦くん、面白い」と笑った顔。
全部が頭の中で何度も再生される。分からなくてもいいと決めたのに、考えるのをやめられない。
隣の布団から聞こえる静かな寝息。その音だけで、胸がざわつく。明日も朝早く部活動が始まる、目を閉じて、夜が更けていった。