「あの、コーヒー嫌いじゃなければ、どうぞ」
七月の下旬。いよいよ夏本番で、夜とはいえ外も溶けるような暑さだというのに、公園でぼんやりと煙草を吸う青年がいた。どこか憂いのある表情で私を見て、差し出したコーヒーに目線を落とす。なんのつもりだとか、余計なお世話だとか言われることを覚悟していたけれど、次の瞬間彼の目は輝いていて本当にいいのかと言われた。どうぞ、コーヒー飲めないし、間違えて買っちゃったので。飲めないのは本当だが、間違えて買ったというのは嘘だった。何となく、この人が可哀想に見えたから。私が彼に差し出したのは、なけなしの慈悲だったのかもしれない。
その人は有栖川帝統といった。「帝統くん?」「いや、帝統でいいわ」というわけで、お言葉に甘えて呼び捨てで呼ばせてもらう。仕事はギャンブラーで、たぶん年下。黙っていれば同い年くらいに見えたけれど、話してみると年下のように思えた。今は有り金を全部ギャンブルに使ったようで、一文無し。途方に暮れているところに私がコーヒーを差し出したのだ。
「ご飯は?」
「ねえよ。言ったじゃねえか、一文無しだって」
「良かったらうちで食べる?一人分増えるだけならまあなんとか作れると思うし……」
「えっ、マジで?」
「別にいいよ」
知らない男の子を家に上げるというのは少しだけ怖いけれど、このまま別れるのもなんだか見捨てたようか気になって申し訳ない。家に人を呼ぶのも、ましてやそれが異性ともなるとかなり久しぶりだった。
「人が作った飯なんて食べるのいつぶりくらいかねぇ……」
そう言う彼は、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。何でもないただの焼き魚なのに美味しそうに食べてくれるのだから、作った甲斐があったというものだ。焼いただけだけど。
「そんなに長くホームレスやってるの?」
「ギャンブラーだっつの。…まあ、家がないことには変わりねえか」
若いのに大変ねと言うと、だからこそだと言われた。生きているという感覚だとか、生きるか死ぬかのスリルだとか、そんなようなことを言われたけれど、私の頭にはハテナがたくさんである。とりあえず生きている世界が違うというのだけはなんとか理解できた。あなたの話は私には難しい。眉間にしわを寄せる私に、彼はそういうもんさと言ってからからと笑った。
「じゃあ俺帰るわ。飯、ごちそうさん」
「うん。気をつけて」
家がない人に気をつけてというのもどうかと思ったけれど、言ってしまったものは仕方がない。手を振って彼を送り出す。テーブルにはさいころが二つ残されていて、なんだかお代みたいだと思った。
明くる日仕事から帰ってくると、見覚えのある青い髪の人が公園のベンチに座ってぼんやりと煙草を吸っていた。「こんばんは」顔を上げる。ほら、やっぱり昨日の子。帝統。顔を上げた彼はたいそう驚いた顔をしていた。何よ、おばけでも見たみたいに。
「いや…まさか会えるとは思ってなくて……」
「私に?」
頷かれたので今度は私が驚く番だった。
「昨日は世話になった」
「ううん、いいの。誰かとご飯を食べるの、結構久しぶりで楽しかったから」
こちらこそありがとうと言うと、彼は少し居心地が悪そうにした。そんな顔する必要ないのに。「で、なんだけどさぁ…」言いづらそうにするので、何かあったのと首を傾げる。
「俺、お前ん家にさいころ忘れていかなかったか」
さいころ。……ああ、あれ!あのお代みたいに置かれていたやつ。やっぱり帝統のものだったんだ。ちゃんと二つ揃ってるから今から取りにおいでと言うと、悪いと言って彼は立ち上がった。…ところで、なのだが。
「昨日どうやって夜過ごしてたの?」
「あー……公園でオールだな」
「何それ」
思わず吹き出した。そんなの初めて聞いた。オールと言うくらいだからきっとずっと起きていたか眠ってもほんのちょっとだけなのだろうと思う。確かに疲れた顔をしている。
「それでも、帰る家を買わないんでしょ」
「そんな金があったら賭けに使うね」
「私あなたのそういうところ割と好き」
自分の欲に忠実というか、本当にやりたいことだけをやって生きているというか。少なくとも私に真似できるような生き方ではないし、周りにそんな人もいなかった。誰も彼も現実だけ見て生きているような気がして、見ていて苦しい。その点この人は、見ていると清々しい。お金が無くても幸せそうだなと思うのだ。
「でもきちんと寝ることも大事よ。どこか適当に……公園じゃなくてちゃんと眠れるところを見つけなさいね」
「なんか母ちゃんみたい」
「それで結構です」
私あなたよりも歳上だし。このくらい言っても罰は当たらない。
今日は何してたの。――ギャンブル。それしかすることねえもん。
好きねえ……でもちょっと楽しそう。――お、やるか?
ううん、きっと負けちゃうからいい。――じゃあ勝負しようぜ。
ちょっと、言ったじゃない。負けちゃうからいいって。――そう堅いこと言うなって。
……何を賭けるの。――俺が今日泊まるとこ。
「うちじゃダメなの?」
「おま……あのなあ、一人暮らしの女のとこに、言っちまえば住所不定無職の男が泊まるわけにはいかねえだろ」
なんだ、ちゃんと自分でも分かってるんだ。「今失礼なこと考えただろ」まさか。滅相もございません。
「じゃあ私はうちに泊まるに賭ける」
「じゃあ俺はそれ以外な」
それはさすがに範囲が広すぎでは。そうこうしているうちに家に着き、ちょっと待っててと玄関先で彼を待たせる。
なくさないように大切にしまっておいたさいころを彼の元に持っていくと、丁か半かと言われた。咄嗟に丁と答えたけれど、どっちが丁でどっち半か分からないのだから勝ったとしても分からない。
「あー……負けか。悪いな、世話になるわ」
「うそ、勝ったの私」
「マジかよ、ルールわかってなかったのかお前」
帝統はからからと笑った。
まだ少しだけ太陽の恩恵が残る時間。帝統が暑いと言ったので、今日は食後にアイスクリームでも食べようか。