07.5

 手芸部室には眠り姫がいる、という噂。


 しがない手芸部員である僕は、その日の面子を見て部活動に参加するか否かを決めている。斎宮先輩が居ると怖いから高確率で帰り、青葉先輩しか居ないなら挨拶をして部屋に入る。その程度。

 細々と活動しているユニットの衣装の手直しに、昼休みの合間を縫って手芸部室を覗いた。中に青葉先輩しか居ないことを確認して足を踏み入れた僕は、部室に見覚えのないベッドが置いてあることに気づいた。ベッドといっても簡易的なもので、けれど上品なレースや装飾が施されている高そうな見た目をしていた。そしてそれは、誰かによって使われていて、薄手の布団が控えめに弧を描いていた。

「……えっと、青葉先輩。これって?」
「はい?」

 ちくちくと衣装らしきものを塗っていた青葉先輩は、わざわざ手を止めて僕を振り返ってくれた。僕の指の先にベッドがあることに気づくと、先輩は「ああ」と針を置く。

「最近、噂になっている音楽科の子ですよ」

 アイドル科に訪れる音楽科の美少女。僕も耳にしたことがある有名な噂だ。誰が言い始めたのかわからないけれど、夢ノ咲学院では噂がどんどん広まり、それにどんどん尾鰭が付き始めるということは、去年から在籍していることもあって何となくわかってはいた。

「どうしてそんな子が此処で寝てるんですか?」
「美雪ちゃん……あ、この子の名前なんですけど。美雪ちゃんはValkyrie専属の作曲家で、宗くんのお気に入りなんですよ。詳しいことは知らないんですけど、この子はお昼寝をしないと午後が持たないらしくて……聞いた話によると、廊下とか棺桶とか、あちこちで寝ちゃってたみたいで。『それはいかん』と思った宗くんが、こうしてベッドを用意した、という経緯みたいですよ」
「は、はぁ……」

 青葉先輩は自分のわかる範囲で教えてくれたんだろうけど、なんだか腑に落ちない。昼寝をしないと午後が持たない、なんて幼児みたいな子だ。隣のクラスの朔間もよく寝てるって聞くけど、男がそこら辺で寝ているのと女の子がそこら辺で寝ているのとじゃあ、事の重大さが違う。此処は男しかいない場所だから。アイドルという肩書だけを得て堕落した日常を過ごしている連中も少なくはない。僕はそいつらに比べれば、まだ日の光を十分に浴びられているわけではないにしても、真面目にコツコツと活動をしている方だと思っている。才能がない、と突き放さないで欲しい程度には努力をしているつもりだ。努力を努力と思っている内はまだ駄目だ、と偉い誰かが言っていたような気もするけれど。

 ベッドを覗き込んでみると、絹みたいに艶やかな髪が見えた。可愛い女の子が寝ている。それはもう、今まで見たことがないくらいに可愛くて、可愛くて堪らない女の子が。御伽噺に出てくるお姫様と言われても疑わない。森の奥に咲いている秘密の花園の妖精とか、魔女にお願いして足を貰った人魚とか、間違えて空から落っこちて来てしまった天使とか、そんな風に言われても納得できる女の子だった。

 口の中に唾が溜まっていた。ごきゅり、と飲み込む。

「すみません、ちょっと席を外しますね〜。夏目くんも人使いが荒くて困りますよ……あ、美雪ちゃんのこと見ててください。宗くんに任されていたんですけど、一瞬だけお願いします」
「……え、あ。はい」

 申し訳なさそうに腰を低くして青葉先輩が部室から出て行った。シン、と静まり返って、ミシンの音一つしない空間。女の子と、二人きり。

 恐る恐る女の子に近づいて、布団を剥がした。ふわり、と甘い香りがする。
 女の子って、皆こんなに良い匂いがするものなのかな。

 鼻の穴を大きくして、クンカクンカと嗅いでみる。クラクラするくらい甘くて、お菓子のようで、果汁の滴る果実のようで、とろ〜りとした蜂蜜のようで。

 薄い桜色の唇から目を動かすことが出来なかった。

 キスをしたら、目を覚ましてくれないだろうか。
 そうしたら、僕が王子ということではないだろうか。

 起きなくても良いかもしれない。
 目を覚まさなければ、無理矢理にでも事に及んで、攫って。

 あと数センチで、彼女の唇は僕のものになる。
 あと少し、あと少し。あと少しで、彼女は僕の

「何をしている」

 地鳴りのような声に振り返ると、斎宮先輩が立っていた。常に機嫌の悪い彼の眉間には皺が刻まれているのは当たり前だけれど、いつも以上に、それが濃く深いように見えた。目を吊り上げて、怒りの形相を浮かべている。影片のように八つ当たりをされたくなくていつも避けていたけれど、彼のオーラが幾千もの刃になって、突き付けられている気分だった。

「今、何をしようとした。貴様」
「……ぁ、あ、僕は」
「……君、僕の氷室に手を出そうとしたね?」
「ち、ちが」
「何が違う」

 ダン、と一歩を踏み出された。ジン、と振動が伝わる。

「答えろ」

 蛇に睨まれた蛙とはこの事だろうか。僕は蛙で、斎宮先輩が蛇。
 まるで身動きが取れなくて、汗がぶわりと噴き出た。
 失墜したはずの帝王が、凄まじい貫禄で、僕を処刑しようとしていた。

「乙女の唇を無理矢理奪い、その甘い体を暴くつもりだったな。君のことは大人しく行儀の良い生徒だと思っていたのだけれど、残念だよ」
「斎宮先輩、僕は、そんな」
「弁解できると言うのかね? 生憎だけど、僕はもう聞く耳を持っていないよ。見てしまったからね。君が、僕が氷室のために用意したデュベを剥ぎ取り、鼻息を荒くして氷室に迫っている様を。ああ、悍ましい光景を見せつけられた。気分が悪い……」

 ツカツカと歩み寄ってくる斎宮先輩に、僕は見っともなく後ずさりをする。掛け布団──デュベと言うらしい──を踏んづけてしまい、更に緊張が奔った。

 斎宮先輩は僕の足元を見下ろした。その瞳が暗くて、僕は急いで足を退けた。

「チッ……これはもう使えないね。汚くなってしまった。氷室に相応しくない」
「す、すみませ……」
「君程度では弁償することも出来ない代物だからね。反省したまえよ」

 先輩はデュベを拾い上げて汚れを見つけると、床に捨てて踏み躙った。グリグリと、穴が開いてしまうくらいに繰り返し。

「チッ、チッ、チッ!」

 抉るように床を蹴り続ける斎宮先輩が、大きな舌打ちをした。
 ガン、と一際大きく踏みつけると、斎宮先輩は落ち着いたのか「フゥ」と息を吐く。

「……いつまで突っ立っているつもりなのかね。姿を消せ。僕の前に二度と顔を見せるな。良いかい、二度と。二度とだよ。僕は君を許さないからね。無断で僕の氷室に触れようとした罪は重いぞ。この場で処刑されないだけマシだと思うことだ」

 ギロリと睨まれ、尻尾を巻いて逃げるように、僕は部室を飛び出した。
 もう此処に来ることはできないだろう。退部届を出して、他の部活に入れてもらうしかない。

「…………ああ、氷室。怖かったね、大丈夫だよ。僕が君を守る。この斎宮宗が、君と僕の愛しいValkyrieの創造主である僕が、君を何からも、全てから守ると誓う」

 勢いよく飛び出したせいで扉を閉めることすらできなかった僕は、逃げ惑いながらそんな声を聞いた。


 手芸部室には眠り姫がいるという。
 そして、彼女を守る帝王が居るらしい。

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