12

 七月下旬頃、夏休み。Trickstarはサマーライブで合同ライブを行うことになり、協力し合うユニットであるEveと対面することになった。

 集合時間に大幅に遅れても申し訳なさそうな顔をすることなく、自分たちの有利に事が進むよう一方的に話す巴日和だったが、北斗もされるがままに流されることはない。英智が同席していることもあり、日和は一先ずこの場で事を荒立てることはせず、好物のサーモンのキッシュで腹を満たして一息ついた。

「じゃ、君たちの実力を見させてもらおうかな! レッスン室まで案内すると良いよ!」
「ああ。その高い鼻をへし折ってやる」
「僕の鼻はエベレストより高いから折りたくなるのも仕方ないね!」

 英智は二人の会話を作業用の音楽にしながら食器を片付けていた。お茶を用意し、食器の後片付けまでしている御曹司を見たら、天祥院財閥の関係者は卒倒するだろう。あの天祥院英智すらも奴隷にように扱う巴日和、と傍から見た者は思うだろうが、英智にとっては相手が自分の意のままに動いてくれるのであれば謙ることは苦痛ではなかった。

 日和に案内するよう言われた北斗はきびきびと席を立ち、生徒会室の扉を開けて廊下を歩く。英智に別れの挨拶をした日和は北斗の後に続き、去年まで過ごしていた母校を懐かしそうに眺めた。

「うんうん♪ あんまり変わってないね!」
「アンタが在籍していたのは昨年度末までだろう。半年やそこらで学院がガラッと変わるわけがない」
「うわっ、アンタって呼び方良くないね⁉ ジュンくんもたま〜に、ぼくの相手をするのが面倒になって雑に扱うときにそう言うんだけどっ、ちゃんと名前で呼んでほしいね! ぼくの名前はもう覚えたよねっ、覚えてないとは言わせないよ、耳元で大声で言ってあげようか⁉ と・も・え・ひ・よ・り!」
「あ〜、わかったから止してくれ。巴先輩はただでさえ声が大きいんだ。比喩ではなく耳が痛い」

 日和は冗談では済まさず、本気で大音量で北斗の耳につんざくような声を放った。北斗は顔を顰めてウッと身を引いた。

「フフン。……まあでも、永遠に変化をしないものはないね。劣化したり、その逆に補強されたりするものさ。ぼくたち元fineが革命を起こしたお陰である程度は見違えたんじゃないかな、秩序がもたらされているよ。昨年はと〜く〜に酷かったからね! みぃんな殺伐としていて、常に悪い日和が続いているかのような……んん?」

 相手をするのに疲れた北斗が喋り続ける日和をスルーしながら歩いていると、日和が突然立ち止まった。北斗は振り返り、「どうした?」と尋ねる。

「あの子……女の子? それも余所の学科の子だね? アイドル科って部外者が入りにくいようになっているはずだけど……緩くなったのかな?」

 日和の視線の先には、艶やかな髪を靡かせながら歩く少女の後ろ姿があった。音楽科の一年生であり、Valkyrie専属の作曲家でもある氷室美雪。彼女の顔は、二人の角度からは覗くことができなかった。

「ああ、美雪か」
「──美雪?」
「アイツは音楽科の生徒で、アイドル科のいくつかのユニットに楽曲提供をしてくれている作曲家だ。頻繁にこっちに顔を出してくれるから、警備員も彼女に対しては寛容らしい。あれだけ綺麗な顔をしているからな、絆されてしまうのも致し方ない」

 何故か誇らしげに微笑んでいる北斗の隣で、日和は深刻そうな表情で「ふむ」と考え込む。薄緑色の柔らかい髪の毛が揺れた。

「……彼女、何年生?」
「? 一年だが」
「一年……あの子はいくつだったかな……」
「……? 巴先輩、いつまでも立ち止まられているとレッスンの時間が減ってしまうんだが」
「生意気だねっ。でもまぁご尤もだから従ってあげるね! さっさと案内するんだね!」
「っおい! 背中を叩かないでくれ!」
「早く早くぅ!」

***

「お〜い、美雪さぁ〜ん!」
「……三毛縞先輩」

 日和と北斗が立ち去り、美雪がそのまま廊下を進んで暫くした頃、美雪の対面から手を振って登場したのは斑だった。いつものようにカラカラと笑っている。敬礼するかのように額の前で影を作るように手を掲げた斑は、窓から差し込んでくる陽の光を見て満足そうに頷いた。

「今日も良い天気だなあ!」
「……? 天気に良いとか、悪いとか、あるんですか?」
「おっと、美雪さんは使わないか? そうだなあ……天気の良し悪しは個人、あるいはタイミングによっても違うだろうからなあ。一概に良い悪いと言えるものではないのかもしれない」

 斑は美雪に解説しようと窓の外、空を見上げながら言う。

「例えば屋外のライブだった場合、雨が降っては中止になってしまうだろう? この間の七夕祭も、天の川が見えていた方が風情があって良かったはずだからなあ。もし雨が降ってしまえば、『天気が悪い』という表現になるわけだ」
「……では、晴れているのが、『天気が良い』なのですね?」

 質問された斑は「ううむ」と唸る。自分の偏見を無垢な少女に植え付けるのは如何なものか、と考慮していた。斑は別の視点から考えてみる。

「逆に梅雨をモチーフにしたライブだった場合は、雨が降ってくれた方が都合が良かったりもするなあ。雨だと濡れたり、湿気でじめじめしたりするだろう? 挨拶として『お足元の悪い中』と言うこともあるしな。雨が嫌な人からすれば、晴れている方が有難い、『良い』と思うものなんだ。雨が好きな人もいるだろうが、俺がよく聞くのは晴れているときの『天気が良い』だな。……いやあ、純粋な子は着眼点が違うなあ。此方がハッとさせられる」
「……そうですか? 私はあまり、常識を知らないので。……皆さんに沢山教えていただけて、成長できているように思います」

 丸い瞳で見上げてくる美雪に、斑は「可愛いなあ♪」と頭を撫でる。暫く撫でていたところで、斑は「おっと」と手を引っ込める。

「美雪さんは罪な女性だなあ。可愛さのあまり、うっかり本題を忘れてしまっていた」
「……罪? 私は、罰を受ける必要がありますか?」
「いやいや、物の例えだ。一生懸命生きている子に、無条件に理不尽な罰は与えられないさ」
「……なら、良いんですが。……それで、本題とは?」
「ああ。美雪さん、今日はどのユニットの日なんだ? もし時間に余裕があるなら、少しばかり俺の話を聞いて欲しいんだが」
「……今日は『UNDEADの日』ですが……まだ時間はあるので、今から伺えますよ?」
「それは重畳! では一先ず移動しても良いか? 誰が聞いているかわからないからなあ」
「……ええ、問題ありません」

 斑は事前に部屋を取っていたのか、迷わず足を進めていく。辿り着いた先は斑がよく使っている部屋だった。斑は「レディ・ファーストだぞう」と言って扉を開き、美雪を先に部屋に入れた。互いに腰を落ち着けたところで、早速本題に入る。

「実は来週に有名なオーケストラを招いたコンサートがあるんだが、その前に同じ会場で、MaMとして小規模なコンサートを行うことになってなあ。そこに俺の友人が出ることになったんだが……もし良かったら、美雪さんも一緒に出演しないか?」
「……コンサートに、私が?」

 ぱちくりと瞬きをする美雪に、斑は頷いて続ける。

「その友人というのは……美雪さんは知っているかな。Knightsの作曲家の月永レオという子だ。お節介かもしれないが、同じ作曲家として彼と関わるのは良い機会なのではないかと思ってなあ。彼にとっても美雪さんにとっても、お互い良い刺激になるかもしれないだろう?」

 斑の言葉に、美雪は俯いて考え込んでいる様子だった。斑は(余計な申し出だっただろうか)と不安に思いながら美雪の返答を待つことにした。彼女は会話のテンポがゆっくりだ。それをむず痒く感じる者も少なくはないが、斑は皆のママとして、子どもに対しては優しく接することを志していた。

「……折角なんですが、ごめんなさい。人前に出るのは遠慮したくて」
「……そうか。君にも事情があるんだろう。難しいことを言って済まなかった」
「……いえ、お誘いいただいたのに、すみません」

 美雪の台詞に、斑は(勿体ないなあ、こんなに綺麗で可愛い子なのに)と思う。しかし彼女の意志を尊重するべきだ、と瞬時に思い直した斑は深く詮索せずに身を引いた。

「都合がつくようであれば来てくれると嬉しいぞお! 美雪さんが見てくれていると思うと、俺も背筋が伸びる。やる気に満ちるというものだ」
「……お家の人と、相談してみますね」

 ポケットからチケットを取り出した斑は美雪に差し出した。美雪は小さな手でチケットを受け取り、斑の言う本題を終えた二人は部屋を出て、それぞれの方向へと別れて行った。

 UNDEADの本拠地は軽音部室だ。同じ階には手芸部室もあり、美雪はその前を通りながら軽音部室を目指す。予定の時刻より少しばかり早いが、美雪は宗やみかから「一人で寄り道はしないように」と言われているため、真っ直ぐに軽音部室まで足を運んだ。

「あ、美雪ちゃんだっ!」
「……羽風先輩。御機嫌よう」
「うんっ、御機嫌よう! 相変わらず美雪ちゃんは可愛いねぇ♪ ほんと、女神様みたいだよ……」

 美雪が活動に顔を出す『UNDEADの日』には、薫は確実に参加する。部室の前で遭遇した美雪にパァッと表情を明るくした薫はデレデレしながら話しかけた。

「……今日は、良い天気、なんですよね」
「えっ。ああ、うん、そうだね? なんで確認する感じで言ったの?」
「……はじめて使う表現だったので」

 美雪の小さく可愛らしいピンク色の唇から飛び出して来た極めてありふれた常套句に薫は面食らう。薫は先程の斑と同じように軽音部室の扉を開けて「レディ・ファーストだよぉ〜」と中に促した。ぺこりと会釈をした美雪は部室に足を踏み入れる。

「お、来たか美雪」
「む。珍しいな、羽風先輩が集合時間よりも早く来るなんて」
「そりゃあね〜。今日は『UNDEADの日』なんだから、美雪ちゃんと少しでも一緒に居られる時間を長くしたいでしょ〜」
「ケッ」

 時計は集合時刻の十五分前を示しているが、真面目なUNDEADの二年生たちは既に部室で待機をしていた。晃牙はギターの手入れをし、アドニスは窓を開けてオカリナを吹いていた。窓辺には小鳥が集まっていて、ちょっとしたメルヘン空間が広がっている。晃牙が「くそ暑ィんだから窓閉めろよ」と文句を言うと、アドニスは「……暑いか?」と首を傾げた。

「暑ィに決まってんだろ。今日真夏日だぞ」
「真夏日……だが、そのもう一段階上の猛暑日というのがあるのだろう? それに比べれば大したことはないのではないか? 俺の祖国は日本ほど湿気はないが、気温はもっと高かった」
「良いから閉めろっつーの、冷房が利かねぇだろうが。電気代の無駄だ」
「む……そうか、それは俺が悪かった。……すまないな、お前たち。暫しの別れだ」
「小鳥さんに話しかけてんじゃねーよ……」

 アドニスは窓辺の小鳥たちに語り掛けると、小鳥たちが大空に羽ばたいていくのを見届けてから窓を閉めた。晃牙の台詞を聞いた薫が「ぷぷっ」と吹き出す。

「わんちゃんが『小鳥さん』って言うと、なんだか面白いよね」
「アァン?」
「おぉ、怖い怖い。……っていうか、朔間さんは? 棺桶に入ってるの?」
「いや、コイツの冷房機器が壊れたみたいで徘徊してる。たぶん時間になったら来んだろ」
「うわぁ……マジでおじいちゃんじゃん」

 コンコン、と棺桶を拳で軽く叩いた晃牙の「徘徊」というワードチョイスに、薫はげんなりする。いくら留年していて最年長とはいえ、ボケるには早すぎる年齢だ。ギリギリでもまだ十代だと言うのに。

「まぁいいや。朔間さんが来るまで美雪ちゃんとイチャイチャしよ〜っと♪ ほらほら、美雪ちゃんこっちおいで。お兄さんのお膝の上に座って♪」

 零が使っていないなら良いだろう、と思った薫は棺桶の上に無遠慮に座り、膝をポンポン叩いて微笑んだ。これがあんずであれば白い目でスルーされるのだが美雪は違う。促されたままに薫の元に近寄ると、膝の上にちょこんと座って薫を見上げた。至近距離に美少女の顔がある状況に薫は耳まで顔を赤くさせた。

「えっ、えっ? う、嘘っ、ほんとに座ってくれた……⁉」
「……? 『座って』と言われたので座ったのですが……座らない方が良かったですか?」
「う、ううん! 全然! ありがとう! だ、抱きしめても良い⁉」
「……それはちょっと」
「ンン、残念……! でもいいや。このぬくもりと羽みたいな軽さを嚙みしめる……!」

(うわぁ……美雪ちゃんが俺の膝の上に……! す、すっごい良い匂いする。シャンプー何使ってるのかな……? というか、膝から伝わってくるちっちゃなお尻の感触が……最高)

 手の置きどころに困りながらガッツポーズをした薫の間抜けな姿を白い目で見下ろした晃牙がため息を吐いて口を開く。

「……おい美雪。この変態の言うことは真に受けなくていいぞ。変なところ触られる前にこっちに来い」
「あ、ちょっとわんちゃん。俺と美雪ちゃんの逢瀬の邪魔しないでよ。何、嫉妬? やきもちぃ〜?」
「ちっげーよ! ……美雪、コイツはな、女なら誰でも良いんだ。あんずのことも口説いてるし、真面目に登校しないで女と遊び歩いてるようなヤツなんだぜ?」
「ちょ、ちょっと! やめてよ、美雪ちゃんにそういうこと吹き込むの!」
「事実だろうが」
「……あんず先輩にも? 羽風先輩は、女性が好きなんですか?」
「い、いやいや。大体の男は恋愛対象女の子だからね⁉」

 晃牙に暴露された薫は大慌てで弁解しようとする。無垢な少女にまで幻滅され、塩対応をされては流石の薫も堪える。美雪は薫の言葉に純粋な疑問を持った。

「……恋愛……アイドルが、ですか?」
「あ、そっちに被弾した……⁉ え、えっとねぇ……確かにアイドルに恋愛はご法度、っていう人もいるけど……結婚してる人とか普通にいるしねっ? 週刊誌に撮られて炎上するとかあるけどっ、アイドルだって人間だから普通に恋愛くらいするよっ……?」
「どうした、羽風先輩。汗が凄いぞ」
「そりゃあね⁉」

 薫が尋常ではない量の汗を流しているのは、エアコンから出ている冷気が部室内を十分に満たしていないことだけが原因ではなかった。必死に言い訳をする薫の膝の上で、美雪が俯いて小さく言う。

「……でも、私だったら、好きなアイドルが結婚したら……ちょっと、嫌です」
「……美雪ちゃん、好きなアイドルがいるの?」
「……いますよ?」
「だ、誰? 俺?」
「いいえ」
「否定が早い……! ショック……!」
「……すみません。……でも、UNDEADは好きです」
「ほんとっ? アイドルの中で一番っ?」
「……一番では、ないです」
「ンガァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「うるっせぇ!」
「……二人共、静かにしてやってくれ。美雪は大きい音が苦手だ」

 びくっと肩を震わせた美雪に気づいたアドニスが二人を窘めた。薫はすかさず謝罪する。

「あっ、ご、ごめんね美雪ちゃん、五月蠅かったよね……ついわんちゃんみたいに吠えちゃった、下品だったよね」
「アァ? 俺様の遠吠えを下品だと?」
「ふふ……羽風先輩も夜闇の魔物、UNDEADということだな」
「男は皆ケダモノだよ……」
「何カッコつけてんだナルシスト」
「ほんと辛辣だよね、わんちゃんって」
「だから俺様はっ」
「はいはい。孤高の狼様ね」

 薫と晃牙が言い合いを始めたところに、部室の扉がガチャリと開き、ぬっと零が現れた。あまりの暑さに体調が優れないのか、へにょへにょと力無く扉に寄りかかって「うう〜」と唸っている。血が不足して空腹状態の吸血鬼のようだ。

「……おや? 我輩が最後かえ? すまないのぅ……暑くて敵わん。……ん? なんで薫くんの膝の上に美雪ちゃんが座っておるんじゃ?」
「ふふん、良いでしょ。……あ、あれっ? なんで降りちゃうの、美雪ちゃん」

 ひょい、と膝の上からいなくなってしまった美雪に薫が狼狽えた。立ち上がった美雪は薫を振り返って言う。

「……朔間先輩がいらっしゃったので。……羽風先輩を椅子にしながらお話するのは、お行儀が悪い気がしました」
「良いのに! 俺のこと一生椅子にして良いのに! 話し合いの最中も俺のお膝の上にいてよ〜う……!」
「お前マジで気持ち悪いぞ」
「こら、わんちゃん! めっ! 美雪ちゃんの前で俺の株を下げるようなこと言わない!」
「じゃあ日頃の行いを正せよ」
「うぐっ、今のは突き刺さったよ……」

 いまだに良い争いをしている晃牙と薫を横に、美雪はきょろきょろと辺りを見渡してスペースを見つけると、そこに座り込んだ。その隣に「よっこいしょ」と零が腰を落とす。

「あ、ちょっと朔間さん、ずるい!」
「さっきまで一番羨ましいことしてたじゃろ。薫くん強欲すぎ」
「じゃあ俺も床に座るぅ〜!」
「……では俺も続こう」

 美雪の右隣に座った零に対抗した薫は左隣に胡坐をかいた。先輩二人が床に座るなら、とアドニスもその輪に加わる。

「なんで四人揃って床に座ってんだよ……」
「じゃあわんちゃんは立ってれば?」
「……一人だけ突っ立ってたら話しづらいだろうが」
「とか言っちゃって〜。ほんとは寂しいんでしょ」
「ちげぇ!」

 意地になった晃牙はドスン、と勢いよく座った。
 五人で輪になったところで、『UNDEADの日』の話し合いが始まる。

「さて。次のライブについてなんじゃが、舞台は海らしい」
「お、海! いいねぇ〜、テーマは?」
「海賊じゃ」

***

 細波の音が美雪の耳に染み渡る。押し寄せては戻り、押し寄せては戻り。裸足になった美雪はお風呂のお湯でも、噴水の水でもない海水にはじめて足をつけたのだった。

 海賊フェスに向けて新曲を書くことになった美雪は、会場になるという海を車の中から遠目に見たことはあっても、砂浜に足を踏み入れたことはなかった。話し合いの最中に美雪がそう言うと、美雪の前ではやる気になる海好きの薫が「じゃあ今から皆で行ってみようよ。美雪ちゃんもその方がイメージしやすいでしょ」と誘った。カンカン照りの中、浜辺まで行くのは億劫な零だったが、一人置いて行かれるのも癪だったため、晃牙に日傘を持たせて外に出ていた。

「……貝殻」
「あ、ほんとだ。綺麗だねぇ」

 波が去った後の湿った砂の上に白くて小さな貝殻を発見した美雪はしゃがみ込んで拾い上げる。潮風が頬を撫で、美雪の艶やかな髪を靡かせた。

(足首ほっそいなぁ……強風吹いたら折れちゃうよ。風で舞い上がっちゃうかも)

 美雪の後に続く薫は、スカートから覗く彼女の生足を見てぎょっとする。

(足も小っちゃくて、『あんよ』って感じ。ほんと可愛いなぁ……世界の産んだ奇跡だよ。ああ、大切にしまっちゃいたいなぁ……それか齧っちゃいたい。絶対甘い)

「……薫くん、絶対邪なこと考えておるな」
「ア? アイツはいつも変態だろうが……つーか日傘くらい自分で持てよ」
「わんこや。日焼け止めは持ってきたかえ?」
「おい無視すんな。……おらよ」

 文句を言いつつしっかりと日焼け止めクリームを取り出した晃牙から受け取った零は「おうい、美雪ちゃん」と声を掛ける。立ち止まった美雪は裸足で砂浜を歩き、零の元へと歩み寄った。

「折角の白い肌が焼けてしまうからのぅ、しっかり日焼け止めを塗らんとな。ほぅれ、塗り塗り〜……♪」
「……おめーも似たようなもんじゃねーか」

 呆れた様子の晃牙を置いて、零は美雪の肌にクリームをのばしていく。

「見ろ、美雪。蟹だ」
「……蟹」
「ああ、危ないぞ。ハサミがあるからな。触りたいならここを持つと良い」

 零によって右腕にクリームを塗られている美雪は、利き手でもある左手をアドニスが捕まえた蟹に伸ばした。アドニスの手の中にいる蟹は小ぶりで、砂浜をすばしっこく走っていたものだ。小さなハサミをチョキチョキ動かして威嚇をしている。名曲を生み出す美雪の指に傷でもついては危険だと思ったアドニスは胴体を持つよう促した。
 蟹を受け取った美雪はまじまじと見つめる。

「……赤く、ないんですね」
「そうだな。最初から赤い蟹もいるが、海老や蛸のように茹でてから赤くなる蟹もいる。……海の生物は、俺よりも羽風先輩が詳しい。海洋生物部だからな。種類を尋ねてみると良い、もしかしたら知っているかもしれない」
「……はい」
「ああ、美雪ちゃん待っておくれ。顔が塗り終わっておらん」

 零は蟹を持って薫の元へ行こうとする美雪の腕を引っ張って止めた。そのままほっぺたにクリームを乗せて塗り込むと、美雪はくすぐったそうに身を捩った。そこに薫がやってきて手のひらの上に乗せた貝殻を見せてくる。

「美雪ちゃん、見て見て〜。ピンクの貝殻あったよ〜♪ ……って、うわっ。蟹?」
「……はい。この子の名前、知っていますか?」
「んー……たぶんスナガニじゃないかな。はは、怯えちゃって色が違うや」
「……? ……色を変えられるんですか?」
「そうそう。いつもは赤っぽいんだよ」
「そうなのか……俺が捕まえたせいで色が変わってしまったらしい」
「……この子は、怯えていたんですね」

 美雪の指に掴まっているスナガニの色は黄色っぽい。アドニスに掴まる前に砂と似ている保護色になろうとしたのだろう。美雪が地面に逃がしてやると、スナガニはあっという間に遠くへ逃げていき、波に攫われていった。

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