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「影片」
「んあ? え、あれ、どしたん、お師さん。クラスの席に行かんでええの?」

 わざわざアイドル科の生徒も体育祭に集中できるよう、練習期間中ドリフェスの開催は禁止されている。その間に体育祭に向けて練習する者もいれば、気を抜かないためにいつも通りのレッスンを重ねる者もいた。

 体育祭当日。二年B組の座席にいるみかの元に、日傘を差した宗がやってきた。宗の腕にはガラスケースに入ったマドモアゼルと、ピクニックに持っていくようなバスケットがあった。中にはお昼に食べる弁当と紫外線・熱中症対策のキットが入っている。

「あそこには天祥院がいるからね。ヤツの無駄に大きいパラソルが邪魔すぎて僕の日傘が差せないのだよ。……それに、君。ちゃんと日焼け止めは塗っているのかね。九月に入ったとはいえ、日差しは油断するんじゃあないよ。丸焦げになった人形と踊る趣味は僕にはないからね」
「ちゃんとこまめに塗り直してるで〜。なるちゃんにもよう言われるからなぁ」
「ふん……さっさと日傘に入りたまえ」

 みかの隣の席に座っている生徒は競技のため不在だった。これ幸いにと宗はその席に座り、日傘をみかに持たせた。

 夢ノ咲学院は学科も多い。中でもアイドル科は他の学科との交流が少ないため、こうして合同の行事をするのは稀だった。校庭に並べられた椅子は学科ごとに分かれており、またアイドル科は万が一事件が起こってはいけないということで、他学科の立ち入りが禁止されている。そのため、宗とみかは美雪の近くに行くことができない。

「音楽科は……あそこか。……氷室はどこかね」

 バスケットの中から双眼鏡を取り出した宗は音楽科の座席から美雪を探し出そうとしていた。みかも目を凝らして眺めてみるが、肉眼ではそれらしい姿は見当たらない。

「あっ! いた、いたぞ! ポニーテールにしている! かぅわいいぃ……♪ ……体育着を着た氷室を見るのははじめてだな……写真に収めておこう」

 いつもの一眼レフカメラを取り出した宗はこなれた姿勢で構えてシャッターを押す。みかは「また始まった」と苦笑いだ。

「影片。君はこのビデオカメラをセットしてくれ」
「び、ビデオも撮るん?」
「当たり前だろう。静止画の氷室も愛らしいが、動画の氷室も欲しいのだよ。体育祭のあの子なんて今後何度見れるかわからん」
「あ〜……わかったでぇ」

 宗の圧に押されたみかは試行錯誤しながらビデオカメラを設置し、「これでええ?」と位置を確認して宗のオッケーをもらうと再び椅子に戻った。

「しかし、横にいる男は誰だ……? んん? ……もしや、執事か? あの子の身の回りの世話をしているのか……なんて羨ましい。僕も氷室家の執事に立候補しようか……」
「お師さんは仕える側ちゃうやろ」
「だってずるいだろう。氷室のお世話、僕もしたい……あっ、お茶飲んでる。可愛いな……何茶だろう……ニルギリかな……」
「え、この暑い中ティーカップで飲んでるん?」
「横の執事も気が遣えない……僕なら氷室のために冷たいお茶くらい用意するけどねぇ。冷たすぎるとあの子のお腹を壊してしまうかもしれないから、やや常温に近づけた完璧なものをね! ……しかし、こうもカメラに目線が合わないと寂しいな……なんだか盗撮しているみたいだ」
「いつもしてるやん」

 格式高いコントが繰り広げられる中、呼び出しの放送がかかる。
 合同行事ゆえに人数が多すぎるという理由で、玉入れであれば「玉入れA」「玉入れB」「玉入れC」といった具合に一つの競技を複数回に分けて行う。基本的には学科ごとに分かれているようだ。アイドル科は他の学科からも注目されているということで、大抵はどの競技でも大取りになっている。

 借り物競争の呼び出しだった。出場する学科は音楽科。美雪が何の競技に出るのか事前に聞いていた宗の胸が躍り出す。

「氷室の出番だ! 影片、ビデオを開始しろ。……借り物のお題はなんだろうな、『意中の相手』なんて俗物的なお題じゃないと良いんだけど。『夢ノ咲学院の帝王』とか『Valkyrieのリーダー』とか『斎宮宗』だと良いな」
「そこまで個人で指定してくるお題ある?」
「あるかもしれないだろうっ」
「いやぁ……ないと思うで?」

 流石に宗を敬愛するみかであっても、そのお題が出てくると賛同することはできなかった。
 双眼鏡の中で美雪が動き出す。席を立ってグラウンドの白線、みかでも肉眼で確認できる距離まで移動した。

「白い肌だ、美しい……ああ、細い手首、折れてしまいそうだ。しかし氷室の体育着姿を全校生徒に晒すのは如何なものか。これは一つの芸術作品だぞ? ……待て、ピストルと同時にあの子が走るのか? はじめて会ったとき追いかけっこをしたが」
「何してん」
「あのときは追いかけるのに必死で真面に観察できていなかった……あの美しく可愛らしいポニーテールが揺れる様をゼロコンマ一秒も見逃してなるものか」

 みかの突っ込みをスルーして独り言を話し続ける宗が姿勢を正し身を乗り出してカメラを構えると同時に、審判の「位置について」という声が響く。
 ピストルと同時に美雪が動き出すと、宗の連写するシャッター音がみかの隣で鳴り響いた。

「美雪ちゃん、がんばれ〜!」

 みかはにこやかに手を振って応援する。宗にはそんな暇もないのだろう、無言でシャッターを押し続けている。ビデオを任されたみかは美雪の動きに合わせてカメラを動かした。

 紙が散りばめられている場所に辿り着いた美雪は、どれを拾うか悩んでいるらしい。きょろきょろと見渡して、一番近くにあったお題を拾い上げて中身を開いた。ぱちり、と瞬きをして唇が動く。

「……なんて書いてあったんやろ?」
「夢ノ咲学院の帝王、Valkyrieのリーダー、斎宮宗。どれでもいい、来い」
「だからそれは有り得へんって」

***

 お題の書かれた紙を見下ろした美雪は、お題に当てはまるものが何かを考えてその場に停止していた。

 周りのお題を確認した生徒が駆けだして散らばっていくのを見た美雪は、一先ず体育館に足を向けようとした。先日の司との会話を思い出し、お題の内容に適するものがそこにあるのではないかと考えたからだった。

 一歩踏み出したそのとき、美雪の視界に夕日色が映る。
 美雪は体育館に向けた足を止めて、何人か知った顔が並んでいる場所に進んだ。

 アイドル科の席に辿り着いた美雪に、席に座っていた薫が「あれっ、美雪ちゃんだ〜!」と声をあげた。

「借り物なんだね〜。なになに、お題は『好きな人』で、俺に着いてきて欲しかったりする〜?」
「……いえ、そういうお題ではなく」
「あはは、だよね〜……」

 自分で言っておきながら勝手に傷ついている薫を置いて、美雪はさっき見つけた夕日色を探した。どうやらそれは三年A組の席ではなく、隣のB組にあるらしい。

「どうした、美雪の嬢ちゃん」
「……鬼龍先輩。御機嫌よう」
「おう、御機嫌ようさん」

 席に座って観戦していた紅郎が近づいてきた美雪に目を丸くした。挨拶を返して「借り物か?」と声を掛ける。

「……はい。──月永先輩を」
「……月永?」
「うお〜〜〜! 名曲が生まれる! これは最高傑作だな、あははははっ☆」

 美雪が指を差したのは地面に音符を書き殴っているレオだった。尻尾を揺らしながらきらきら星を歌っている。紅郎はお題はわからないが、美雪がレオを連れて行きたいのを察して彼に呼びかける。

「おい、月永」
「ふんふん、ここはもっと壮大にぃ〜……? いや待てっ、今メロディが降りて来た! よぅし、このまま突っ切るぞ〜! ベートーヴェンがおれの背中を押してくれている! 見ていてくれヴィヴァルディ!」
「月永、月永……おーい、月永」
「うおっ? 何すんだよクロ〜! ……ああっ、メロディが! バッハ、バッハ! 助けてくれバッハ! メロディが消えた!」

 首根っこを掴まれて引っ張られたレオが暴れ出す。

「ううっ、最悪だぁ〜っ! 何てことしてくれるんだ、クロ! 名曲が消えたぞ、お前のせいで! お前のせいで〜っ!」
「そりゃ悪かったよ……」

 ぽかぽかと叩いてくるレオにくたびれた様子で謝罪をした紅郎は「この嬢ちゃんが、お前に来て欲しいんだと」と美雪を示した。レオと美雪の視線が交わる。夢ノ咲学院の天才作曲家二人が対面した。

 レオは自分を見下ろしている美雪を見て目を丸くして停止した。紅郎は(まあそうなるよな。美雪の嬢ちゃんは生きてるのかわかんねーくらい、綺麗な顔してるから)と頷く。

「……お前、誰?」
「……氷室美雪と言います。はじめまして、月永先輩」
「……何か用?」
「……借り物競争の、お題で。来てくれませんか?」
「…………いいよ」

 素直に従ったレオに、今度は紅郎が目を丸くする番だった。美雪と共に行かせるために援護をするべきだろうと思っていたため拍子抜けしてしまう。

 レオは立ち上がってジャージについた砂を払うと美雪に向かって手を差し出した。美雪は不思議そうに見つめる。

「ん? 繋がないのか?」
「……繋ぐんですか?」
「繋ぐもんじゃない?」
「……じゃあ、繋ぎます」
「なんだ、じゃあって」

 レオは美雪の手を引っ手繰るようにして掴むと、本来先導すべき美雪に変わって走り出した。引っ張られた美雪はレオに続く。
 手を繋いで駆け出していく作曲家二人を、席に座っている三年生たちが見送る。「……お題、なんだろう」という薫の独り言を、隣に座っている英智が拾った。

「……変人とか?」
「美雪ちゃんと月永くん初対面でしょ。月永くんの奇行を知ってるとは思えないけど」
「今さっき奇行をしていたと思うけどね。僕たちは慣れてしまったけど」
「うーん……でも、あの子が『変人』と『一般人』の違いを認識してるとは思えないなぁ……」

 ゴールまで辿り着いた美雪はお題を審査員に渡す。審査員の生徒は紙を見て、レオを見て、「ははぁ」と納得する。

「はい、確かに。お題クリアです」

 審査員にオッケーを貰った美雪とレオはゴールの白線を跨いで、借り物競争の出場者である美雪は指定された場所に座ることにした。

「そう言えば知らずに来ちゃったけど、お題って何だったんだ? ……あ、やっぱいい! 言うな! 想像するから!」

 席に戻ろうとしたレオがふと振り返り美雪に問いかけるが、美雪が口を開いて告げる前に静止した。こめかみに指をぐりぐりと押し当てて「うむむ」と考えている。

「う〜ん、おれだから『天才』か? それとも『裸の王さま』? うん、わからん!」
「……答えは要りますか?」
「ん? あ〜……いいや。謎を謎のままにしておくのも空想世界が広がって良いだろ?」
「……謎のまま。成る程」
「──あ、あ〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 ふっと目を伏せた美雪の顔を見たレオがいきなり声をあげる。美雪がレオを見上げると、彼は頭を抱えて足をばたつかせた。

「メロディ! メロディが戻ってきてくれた! いや、これはさっきと違うヤツか⁉ なんでもいいっ、名曲には変わらない! 今すぐ戻って書き起こさないと! じゃ〜な〜、えっと、カワイ子ちゃん!」
「……? はい、さようなら」

 美雪は手を振って全速力で駆け出していくレオの背中を見つめた後、その場に腰を下ろしてちょこんと校庭の砂の上に座った。

***

 最初から最後まで美雪の行動を眺めていた帝王は絶望していた、憤っていた。
 同じ芸術家である月永レオが、美雪の手を繋いでゴールをしていたからだ。

「つぅぅぅきぃぃぃなぁぁぁがぁぁぁッ! おのれ、おのれ月永! 氷室の手を繋いで走るなんて、俗物的な青春をッ! おのれ、甘酸っぱい青春! なんて羨ましいッ……!」
「お師さん、お師さん。欲が、欲が出てるで。あとお師さんが嫉妬で動き回るせいで画面いっぱいお師さんになっちゃって、美雪ちゃんがしっかり映ってない部分があるんやけど……」
「僕を撮ってどうする……⁉ ちゃんと映しておけ、出来損ない! ああ、だが月永と手を取って走っている氷室の映像なんて見てしまったら僕は……僕はまさしく、グリーン・アイド・モンスターになり果てる……!」
「グリーンアップルモンスター? 何それ可愛い〜♪」
「ノンッ、ノンノンッ! ノンノンノンッ! くそッ、どうにかなりそうなのだよ! 今すぐ氷室にお題が何だったのか確認してくる!」
「アイドル科は競技に出るとき以外あんま動くなって言われてんで?」
「チッ!」

 怒りの帝王は今にもカメラを壊しそうな勢いで髪を振り乱していた。宗は唇を掻き毟るように指をごちゃ混ぜて舌打ちを繰り返す。

「……あ、お師さん出番やで。次はおれたちの『借り物競争』や」
「ハッ! そうか……僕がここで氷室を連れていけるようなお題を引けば良いだけのこと……! あの子に相応しい、『美しい女性』や……い、『意中の相手』でも、許さんことはないっ……」
(……さっき俗物って言ってへんかった?)

 欲に塗れた宗の矛盾だらけで支離滅裂な願望に、みかは憐れんで突っ込みを入れないでおいた。美雪のことが絡むと暴走する宗に、みかはもう慣れていた。頬を染めて息巻く宗は席を立つとすぐさま開始位置に向かった。みかもそれを追いかけたところで、つむぎに声を掛けられる。二人が会話をしている内にピストルの合図が鳴り、宗・みか・つむぎはそれぞれお題を拾う。

「何故っ……氷室は『半ズボン』を履いていないじゃないか……!」

 みかの耳に宗の悲痛な叫び声が聞こえて来た。みかは苦笑いを浮かべて自分のお題の紙を開く。飛び込んできた文字にみかは色違いの目を見開いた。

「んあっ? ……『綺麗な女のひと』? ……そんなん美雪ちゃんしかおらんやん」

 冷や汗を流す。みかの頭に浮かんだのはValkyrie専属の作曲家である、何故アイドルにならないのか・芸能界に出ないのか不思議に感じる程の美少女である美雪だった。思い浮かんだと同時に、先程の宗の怒りの形相を思い出す。もしみかが美雪の手を引いてゴールまで行けば。

(お師さん絶対怒るよなぁ……でもこのお題で美雪ちゃんを連れて行かなかったらもっと怒りそうや)

 そもそも自分のお題の内容を言わなければ良いだけの話だが、みかは隠し事が苦手なのに加えて、宗に嘘を吐くことなど出来るはずもなかった。

 みかは何とか知恵を振り絞り、まずは宗の元に向かうことを決めた。光を追いかけるが足の速さで追いつけるはずもなかった宗を見つけ、みかは「お師さぁん」と情けなく声を掛ける。

「あ、あんなぁ? お題が、その、『綺麗な女のひと』やったんだけど……」
「何っ? ……影片、今すぐ僕とお題を交換したまえ」
「それ不正になるやん⁉ あかんやろ……」

 咄嗟にお題の紙を庇ったみかの言葉に、宗は「ぐぬぬ……」と唸りながらもその意見を尤もだと理解できたのか腕を引っ込めた。

「それで? 何かね」
「んっと、美雪ちゃん以外に思いつかんから……美雪ちゃん連れてってもええ?」
「却下」
「んあ〜……」

 やっぱそうなるか、とみかは肩をがっくり落とした。

「じゃあ別の綺麗な人探して声掛けてみるわぁ……」
「……待て。氷室以外に『綺麗な女のひと』がいると思うのかね?」
「お師さんが駄目って言ったんやけど⁉」
「ふん……マドモアゼルを持って行けばいいだろう。彼女も『綺麗な女のひと』に含まれるはずだ」
「ああ! マド姉、その手があったで! ……でもええの?」
「慎重に持って行きたまえ。あのガラスは頑丈なものだから万が一にも割れるようなことはないけれどね」
「了解したで! おおきに〜♪」

 宗から別の案を出されたみかはマドモアゼルが置いてある席まで向かおうと走り出す。その背中を眉を顰めて、何か言いたげに見届ける宗は口を開けたり閉めたりしている。みかが完全に離れて行ってしまう前に引き留めなければ、と焦った宗は「影片!」と呼び止める。

「んあっ?」
「……や、やはり、その……ごにょごにょ」
「え? ごめん、聞き取れへんかった……もうちょい大きな声で言ってくれん?」

 みかは耳の横に手を添えて、少しでも宗の声を拾えるように努める。宗はカァッと顔を赤くさせて、恋する乙女のように叫んだ。

「……っ、だ、だからっ! その、やはり! マドモアゼルではなく! ……氷室を! 連れて行きたまえ!」
「──えっ⁉」

 耳に飛び込んできた宗の言葉にみかはぎょっと飛び退く。宗はゼェハァと肩で息をして、涙目でみかを睨んでいた。みかはモジモジしながら尋ねる。

「……ええの? そしたらおれが美雪ちゃんと手つなぐことになるで?」
「そこまでは許可していないよ」
「えぇ……?」

 ではどう連れていけと言うのか。みかは困り果ててしまう。

「華麗にエスコートをするんだ。それくらいは許そう」
「……エスコートって手繋いでる気がするんやけど?」
「あれは繋ぐではなく『添える』だろう」
「? ……まぁ、お師さんがええなら、ええか」
「その代わり」

 宗はみかが美雪の元に方向転換しようとする前に条件を突き付けた。

「先程のお題の内容が何だったのか、氷室に聞くのだよ。明らかにしなければ僕は三日三晩、いや五日五晩、いや七日七晩……最早一生眠れなくなるからね」
(絶対聞かな……)

 使命感で定規を差し込まれたのではないかというくらいに背筋が伸びたみかは「おん!」と拳を握って美雪の元に走った。

「あ、おった……」

 ついさっき競技を終えた美雪は椅子に座り、パラソルの下で分厚い本を読んでいた。みかが美雪に近づくと、横に立つ執事が目を細めてみかを睨む。その視線にみかはびくっと跳ねて恐る恐る美雪の顔を覗き込んだ。

「美雪ちゃ〜ん……?」
「……影片先輩?」
「おん、おれやで〜。御機嫌ようさん♪」
「……ええ、御機嫌よう」

 挨拶をしたみかは本題に入る。

「えっとな? 借り物競争でお題が『綺麗な女のひと』やったんやけど、美雪ちゃん、一緒に来てくれへん?」
「……私が、借り物?」

 お題の内容まできっちり伝えたみかを見上げた美雪は、自分が借り物になることを想定していなかったため目を丸くした。こくり、と頷いて席を立つ。

「……お気をつけて」
「…………はい」

(……な、なぁ〜んか空気が重い気が……執事とお嬢様ってこんな感じなん? 確かfineにも執事さんとお坊ちゃんがいたはずやけど、もっと仲良さそうやったのに)

 温度のない言葉をかける執事に対し、美雪は目線を合わせずに返す。違和感を覚えたみかだったが、美雪が棒立ちしているのに気づいてサッと手を出した。宗の言いつけどおりに華麗なエスコートをしなければいけない。慣れていないみかはステージ上の自分を思い出せば良い、と纏う空気を変える。

 いつものみかの和やかな表情を知っている美雪は、彼が舞台上の顔になっていることに気づいて一瞬息を止めた。みかの手に自分の手を乗せて、借り物『競争』だと言うのに優雅にゴールまで歩いていく。

 無言・無表情で気を張っていたみかだったが、突如宗から与えられた任務を思い出し「あっ」と声をあげる。呼吸まで止めていたのか、みかは勢いよく息を吸い込んで吐き出す。

「あ〜、そうやった……忘れるとこやった。あか〜ん、ほんまに鳥頭や……」
「……?」
「えっと、さっき美雪ちゃん、借り物競争出てたやん? お題、何だったんかな〜って……」
「……ああ」

 みかは固唾を飲んで美雪の唇が動くのを待った。もし、宗が言っていた『意中の相手』だったら。みかはそのまま宗に伝えることができるかどうか。隠し事が出来ない彼が嘘を吐いていることは、宗はすぐにわかってしまうだろう。かと言って正直に「『意中の相手』だった」と伝えてしまえば、宗は灰になってしまうだろう。

「オレンジ」
「……ん?」
「……『オレンジ』です。お題」
「……おれんじ」
「……はい。月永先輩は、髪の毛が、オレンジだったから」
「…………おれんじ、おれんじ」

 放心したみかはブツブツと繰り返し、『オレンジ』が何かを漸く理解することができた。

「なぁ〜んや、オレンジかぁ……! もうっ、オレンジ味の飴ちゃんくらいおれが持っとるのに〜! ハラハラさせんといて!」
「……私、怒られてますか?」
「あっ、ごめんごめん。怒ってへんよっ」

 ゴールに到着し、みかは紙を審査員に渡して「良し」を貰った。

 その後、合流した宗に美雪から教えてもらったお題の内容を伝えると、宗は「お題次第では息の根が止まるところだった……」と心底安心した様子で椅子に座り込んだ。

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