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 音楽科からアイドル科へ移動するほんの少しの時間であっても、この時期は防寒具が欠かせない。美雪はマフラーと手袋を装着して出て行こうとするが、執事が引き留めてコートを着せられる。マフラーと手袋は宗の手作りしたものだった。家の用意した高級品よりも、不思議なことに美雪はそちらの方があたたかいように思えたのだった。

 とっとっと、と小走りでアイドル科に訪れた美雪は白い息を吐いて、鼻を少し赤くしていた。手芸部室に辿り着くと中にはみかしか居ない。美雪に気づいたみかが申し訳なさそうな顔をして言う。

「ごめんなぁ、こないだはおれが風邪引いたのに……今度はお師さんが寝込んでしもて」
「病気……ですか? ……大丈夫、ですか? お医者さん、呼びますか?」

 宗が居ないのが不安なのか、美雪は自分にできることはないか必死に考えて提案する。みかは緩く首を振った。

「大丈夫やで。お師さんのお家の人がちゃんと面倒見てくれてるし、おれも看病してるから……たぶん、おれのせいや。イブイブライブのとき、お師さん、おれのこと看病してくれて。うつったかもしれん……うつせば治る、みたいなことも言うけどなぁ」
「……うつせば、治る」
「今の制度でValkyrieが生きていくにはスタフェスに出るのが必須みたいで……だからお師さんも出るつもりみたいなんやけど、このままで間に合うかどうか……お師さんには無理して欲しくないけど……んあぁ、どないしよ」

 宗の不在はみかにも影響を与える。みかは宗が居ない間は自分が美雪を守らなければならないという使命感に駆られているため、(っておれが弱気になっちゃあかんやろ!)と頬をぺちぺちと叩いて笑みを浮かべた。

「ま、まあ、大丈夫や! Valkyrieには美雪ちゃんがおるし、お師さんもおる。Valkyrieが失われたら大問題やって他の人たちもわかってるはずやから……」
「……斎宮先輩のお家、行っても良いですか?」
「……ほぇ?」
「……看病って、何をすればいいですか?」
「かかか、看病っ? 美雪ちゃんが、お師さんをっ?」

 狼狽えるみかを余所に、美雪はスマートフォンを取りだすと何度かタップしたあと耳に当てて「……私。……放課後、寄りたい場所があるから……うん、アイドル科の前に着けて置いて」と誰かに電話をしてしまった。

「……放課後、校門の前で待っていてください」
「う、うん……あ、でも、大丈夫かな……お師さん、怒るかも」
「……どうしてですか?」
「んん……美雪ちゃんにうつってしまうかもしれんやろ?」
「……うつしてもらう為に行くんですが」
「はぇ?」

 ぽかんと口を開けたみかだったが、美雪が小さく欠伸をしたのを見て慌ててベッドに促し、衣装の手直しをしながら眠っている美雪の様子をせわしなく観察していた。

 時は流れ放課後。みかは美雪に言われたとおり、アイドル科の校門で彼女の到着を待っていた。そこに黒塗りの高級車がやってきて、みかの前で停止する。ドアが開くとひ弱そうな男性が登場し、みかにお辞儀をした。

「お待たせいたしました、影片様」
「え、ええっと」
「わたくしは美雪お嬢様のお付きをさせていただいております、代谷(しろや)と申します。以後お見知りおきを」
「あ、は、はい。どうも……」

 顔を上げた執事が体育祭で自分を睨んできた男性だと気づいたみかはどきりと心臓を跳ねさせる。冷たい印象の執事はみかを車内に促した。みかが中を覗き込むとふかふかの触り心地の良さそうなソファに腰掛けている美雪が目に入る。

「……どうぞ」
「あ、はい。失礼します〜……」

 みかが乗り込み、しっかりと座ったのを確認した執事はドアを閉め、自分の座席へと戻って行く。

「影片様、どうもどうも。俺はそこで仏頂面してる執事の兄貴で運転手をしてます! 苗字が同じでややこしいですが、気軽に『代谷兄、そこ曲がりや!』って仰ってくださいね!」
「うええぇっ⁉ は、はい⁉」

 運転席からズイッと顔を出して来た男に、みかはぎょっと飛び退いた。運転手は執事の兄で、どうやらみかが関西出身であることを知っているらしかった。

「というわけで、斎宮様のお屋敷への道順を教えていただけますか?」
「あ、ああ、えっと、取り敢えず真っ直ぐで……」
「承知致しました〜♪ いやぁ、車内の空気が重たくてすみませんね、いつもこんな感じなんですよぉ。お嬢は本ばっかり読んでますし、弟も全然喋らないんでね。俺も話し相手が居なくて退屈……げふんげふん」
「お、お嬢?」

 運転手の男の言うように、車内には重たい空気が流れているようにみかは感じていた。男の美雪の呼び方に戸惑ったみかは思わず聞き返してしまう。

「氷室財閥が暴力団だと思われる。その呼び方はやめろって言っただろ」
「ほぼヤのつく人みたいなもんだと思うけどなぁ、若様は」
「……おい、いい加減にしろよ」
「へーへー、わぁーったよ。……すみませんねぇ、影片様。兄貴にもこんな感じなんですよ、コイツ」

 兄弟ということもあってか、執事はみかに応対していたときよりも砕けた口調で兄を叱責しているようだった。

 みかはふかふかのソファに慣れず、居心地がいいはずのそこに居心地が悪そうに身を固くしていた。ちらりと横を見ると、美雪がごそごそと袋を漁っているのに気づく。

「美雪ちゃん? どうしたん?」
「……看病するときは、氷嚢と、消化に良さそうなものを、用意するべしと」
「ああ……お師さんのために、色々用意してくれたんやね。美雪ちゃんは本当にいじらしくて、可愛いわぁ……♪ それだけでお師さん、元気になってしまうと思うで」

 美雪の手元を覗き込んだみかはウンウン頷いて美雪の頭を撫でた。バックミラーでその様子を確認した運転手はふっと表情をやわらげ、執事は目を伏せた。

 斎宮家に辿り着いたみかと美雪は氷室家の送迎車を降りて玄関をくぐった。氷室家の令嬢がやってきたことに宗の母はてんやわんやと言った様子で、美雪からの手土産を恐る恐る受け取っていた。宗自身から時折聞いていた話ではあったが、美雪の家が斎宮家が恐れるほどの強大さであるということをみかは再確認した。

 宗の部屋の前まで来たみかは扉をノックし、「お師さぁん?」と声を掛ける。ごほごほ、と咳き込む音が聞こえ、みかと美雪は宗が無理をして返事をしようとしているのだと気づいて扉を開けた。

「っ、すまない、かげひ……えっ、氷室⁉」
「……無理はなさらないでください」
「い、いやっ、な、何故きみが此処に……ッゴホ、ゲホ」

 美雪は動揺のあまり咳が止まらなくなってしまった宗に駆け寄って肩を押してベッドに戻させた。宗は顔を赤くして腕で隠そうとする。弱っている自分を見せたくなかったのだ。

「あまり、近づかないでくれ……うつしてしまうよ」
「……うつしてもらうために来ました」
「はっ?」
「……うつせば治るって、聞きました」
「そ、そんな医学的根拠のないものを信じたのかい……?」
「……だって、貴方が居ないと……困ります」

 しゅん、と眉を下げた美雪に宗はずきゅん、と胸を打たれる。熱を下げなければいけないのに、逆に上がってしまいそうだ。

「……どうすれば、うつりますか? 近くにいれば、うつりますか? ……私、たぶん、あまり免疫力はないけど、貴方が風邪を引くより、私が風邪になった方が、良いです」
「う、うぅ……気持ちは、わかったから。その……そんなに近づかないでくれ。君が可愛すぎて動悸が激しくなってしまう」

 宗はデュベを引っ張って顔を隠してしまった。美雪はきょとんと目を丸くして、みかが用意した氷嚢を受け取るとチョンチョンと蓑虫のようになっている宗を突く。

「……斎宮先輩? お顔を出してください。……私が貴方の看病をしますから……ねぇ、見せて?」
「ぐ、ぐぅ……いつもとは逆だな……」

 麗しの乙女におねだりをされては断れない。宗は真っ赤な顔を大人しく露わにし、おでこに氷嚢を受けた。冷たさがしん、と染み渡り、宗はふぅと息を吐いた。

「……食欲は、ありますか?」
「……あぁ、幸いね」
「そう……では、すった林檎とお粥、どちらがいいですか?」
「へっ……き、君が、作るのかい?」
「いえ……私は、料理は苦手らしいので。……キッチンに立つなと言われたので、立ちません」

 宗の誕生日にクロワッサンを作り、それを食べたレオに言われた一言が美雪の中に残っている。あれはレオが素直になれなかった結果であり、「不味い」という言葉も「食材に失礼だ」という言葉も全て事実ではないのだが、美雪はそのまま受け取っていた。美雪の手料理を今度こそ食べられると思っていた宗はがっくりと項垂れる。美雪は身を乗り出して宗を覗き込んだ。

「……具合が、悪いですか?」
「いや……大丈夫だ。君の手料理を食べられると思って、期待してしまったんだ」

 美雪の前では気持ちが悪い程に素直になる宗だったが、格好つける元気もないのか弱っている様を見せつけていた。美雪はもじ、と指を揉んで口を開く。

「……林檎なら、するだけですから。……用意できると思います」
「本当かっ?」

 宗はカッと目を見開いて美雪を見上げる。美雪は「ふむ」と考えて浮かんだ疑問を宗とみかに尋ねた。

「……これ、料理って言えますか?」
「言える。言えるとも」
「真心が籠った食べ物は全部料理やで」
「……そう、でしょうか」

 美雪はすっきり納得できない様子で林檎を取りだし、みかがキッチンから持ってきたおろし器を使ってシャリ、シャリと林檎をすっていく。ちまちまと几帳面に集めてお皿に移すと、小さなスプーンを添えて宗の前に出すが、宗は目をキラキラさせたまま受け取らない。みかは宗が美雪に何を求めているのか察してソワソワと二人を見守った。

「……? 食べたくないですか?」
「えっ⁉ た、食べるぞっ? 食べるけど、その……あ〜、う、腕が重いなぁ……スプーンなんて重いものは持てないかもしれない、なぁ……?」

 大根演技でチラチラと美雪を見る宗には格式の欠片もない。美雪はじっと宗を見つめてスプーンを持つと、宗の口元に運んだ。宗はパァッと表情を輝かせると「あーん♪」と口を開け、林檎を口に含んだ。舌の上に乗った林檎がじゅわり、と広がり、宗は目を閉じて味わう。ゆっくり堪能し、ゆっくり飲み込んだ。

「…………世界一美味しいよ、氷室」
「……そうですか。林檎の育った環境が良いんでしょうね」
「否、否。君の腕がいいんだよ。君の手にかかればどんなに不出来な料理であっても三ツ星レストランに出てくるような高級料理になる。間違いない」
「……そう。……まだ要ります?」
「要る」

 即答した宗に、美雪は大人しく次の林檎を集めて運んだ。

「……はい」
「あー……ん♪ ……うん、僕はもう元気だよ」

 飲み込んだ宗はすっかり熱が下がった気になって言うが、真に受けた美雪が彼の額に手を当てた。宗はビシリと固まり、美雪の冷たく小さな手のひら一つで動けなくなる。

「……嘘。まだ熱いです、熱があります。……食べ終わったら、寝ないと駄目」
「……う、うむ。わかったよ」
「……だいたい、お二人は動き過ぎなんです。……たくさん寝ないと、駄目です。……私も、頻繁に栄養は取らないけど、たくさん寝てるから、病気には、あまりなりません。……影片先輩も、寝ましょう」

 二人を静かに見守り、後で宗に見せるためにそっとスマートフォンで撮影もしていたみかは突然自分の名前が出てきて目を丸くする。

「え、おれも?」
「私はうつっても良いけど、影片先輩はうつっちゃ駄目。……だから、出て行ってください」
「んああ……で、でもその、」
「……大丈夫。看病、できます」
「ん〜……わかった。でもなんかあったら呼んでな……?」
「……はい」

 美雪に背中を押されたみかは不安そうに振り返りながらも、美雪を信用して宗の部屋を出ることにした。キィ、バタン、と扉が閉まり、美雪は宗のベッドの横にある椅子に腰掛けた。
 時計の音だけが響く中、宗が口を開いた。

「…………氷室」
「……はい」
「……君には、とても、世話になったね」

 目線を落とした宗は手持ち無沙汰にデュベをなぞった。手触りの良い滑らかなシルクだ。
 外は既に暗くなり始めていて、宗は早く美雪を帰さなければと思いつつも、ゆっくりと語り出した。

「……七夕のとき、すまなかった。今更と思うかもしれないが、僕はあのときになって漸く……君が、Valkyrieのことを愛してくれているということを実感した。君は、失墜した僕らを見捨てることなく、力を貸し続けてくれたね。使い物にならず、ただ影片に世話をされながら、影片に生かされるだけの人生になっていた僕に、君はずっと、曲を送り続けてくれた。……椚先生は、ずっと僕に君の曲を預けてくれていたよ。あの人は生徒会側の人間だと言うのにね」

 窓の外を見ていた宗は、そこで言葉を切って美雪を見た。美雪は口を結んだまま宗の言葉を聞いている。

「……こんなことを聞くのは、無粋かもしれないが。君はどうして、僕たちに……僕にここまでしてくれる? 君は……その、乱と、親しいのだろう? だとしたら一年前、君が力を授けるのはfineでも可笑しくはなかったはずだ。それなのに何故、Valkyrieを……?」

 美雪はフッと目を伏せてきゅっと手を握った。時計の針が何度か鳴った後、漸くゆっくり話し始める。

「……始まりは、ただの、お父様の気まぐれ」
「……お父上が?」
「……そう。お父様は、椚先生と親しいらしいので。……椚先生が、あのとき、夢ノ咲を代表していた貴方たちの映像を、お父様に送ったんです。……そして、お兄様が来なくなった私の部屋に、機材を持ってきてくれた。……それに映ったのが、貴方」

 灰色の部屋の中。薄暗い世界に舞い降りたValkyrieが、そのときの美雪には何よりも光輝いて見えた。

「貴方が、忘れていた私の光を、思い出させてくれた。……聞こえなくなった歌が、また聞こえてくるようになって、だから、私、貴方に……貴方に、歌って欲しいと思った。それで、カモフラージュのために名前を用意して、椚先生に送って、使ってもらえるようになって、嬉しかったのに、なのに…………あの日、助けることができなかった。何か、Valkyrieにとって良くないことが起きるって、私、知ってたのに」

 Valkyrieの命運を分けたあの日。美雪は事前に、凪砂から夢ノ咲学院で渦巻いている陰謀、革命の話を手紙で聞かされていた。fineとValkyrieが戦うことになるが、それは『ただの勝ち負け』だと、手紙にはそう書いてあった。美雪は凪砂を信じ、凪砂もそうなるものだと思っていた。
 しかし、そうはならなかった。舞台を壊されただけでなく、裏で宗は英智に決定的な一言で突き刺され、精神までも壊された。そのとき凪砂は英智の胸倉を掴んで精一杯罵声を浴びせようとした、「聞いていた話と違う」「美雪にどう説明すればいいんだ」と。しかし言葉が出て来なかった凪砂は日和に止められ、fineはそのまま革命の道を進んだ。

「……ごめんなさい」
「何故謝る。君のせいじゃない。……それとも、君が今まで献身してくれたのは、罪滅ぼしだったと?」
「違う……違います。……失墜したと言われても、日陰に行ったとしても、私の中で、貴方たちは揺るがなかった。……また、私の歌を歌ってくれる、貴方たちを見たかった。再び、舞台の上に立ってくれれば、それで、私は、良かったんです。そのためなら、何曲だって書ける」

 ぎゅ、っと制服のスカートを握った。

「貴方たちに私の全部を与えて、そのまま死んで良い。それが私の選んだ人生だから。それだけは、誰にも邪魔させない。例えお兄様にも」

 美雪の言葉を聞き届けた宗は、彼女の頬に手を伸ばした。

「君も影片も、『死んでも良い』なんて言うんじゃないよ。僕を残して逝くつもりか?」

 美雪は宗の指に触れられ、漸く自分が涙を流していることに気が付いた。宗の目も赤くなって潤んでいる。

「……僕は、君を泣かせてばかりだね。いつもそうなんだ。愛しい人の笑顔が見たいのに、悲しませてばかりで」

 宗はそっと美雪の涙をぬぐって微笑む。

「……聡い君ならわかっていると思うけど、Valkyrieも今後は変わって行かなければならない。……それを察して、影片を臨時ユニットのリーダーにしてくれたんだろう?」
「……余計なことをしたかもしれませんが」
「そんなことはない。君のユニットは素晴らしかったよ、臨時ユニットの部類に収めておくのが勿体ない程に。君の世界は、とても美しかった」
「……ありがとうございます」
「……変化したValkyrieはもしかすると、君が愛したValkyrieの形とは、異なってしまうかもしれない……それでも、許してくれるかい?」
「……えぇ。私は、授けることしかできませんもの」
「そう悲観しないでくれ。君が、僕に力を与えてくれるんだ」

 美雪から手を離した宗はデュベを握って再び窓の外を見た。下では氷室家の送迎車が令嬢の帰還を待っている。

「……安心してくれ、氷室。僕は這ってでも次のS1……スターライトフェスティバルとやらに必ず出る。君の愛しいValkyrieを終わらせやしない」
「……」
「絶対に、間に合わせるから。どうか僕を信じて待っていて欲しい」
「……はい。ずっと、待っていますから、来てくださいね」
「ああ。約束だ」

 美雪が小指を出すと、宗は目を丸くして薄く微笑み、自分の小指を絡めた。

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