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 新たな年を迎え、冬休みを終え、夢ノ咲学院の校舎は再び生徒たちによって活気づいた。流石のアイドル科生徒も年末がSSで忙しかったこともあり、年始はゆっくり過ごしたようだ。正月で怠けたものもいれば、ライブが出来ずにうずうずしていたものもいる。

 夢ノ咲学院は休日や長期休み以外は基本的に廊下を含む全校舎の冷暖房が完備されている。そのため廊下が寒いからといって教室内やスタジオに居座るようなことは滅多にないのだが、良い事ばかりというわけではない。

 廊下が冷たければ、寒さに弱いKnightsの王はKnightsのスタジオ・通称セナハウスに逃げ込むはずなのだが、アイドルのために管理が行き届いているせいで彼は寒くなろうと鼻歌を歌いながら壁に名曲を落書きしてしまう。楽譜に起こせばそれは傑作になるというのに、彼はいつも壁に書いて、そして壁に書かれたそれは消されるのを待つばかり。

 現在レオが書いているのは近々開催されることとなった歌劇で用いる楽曲だった。あんずと紅郎が衣装制作をするということで、あんずの負担を減らすのと純粋に面白そうだからという理由でレオは脚本制作も兼ねることになっていた。

「ド〜はドン・キホーテのド〜、レ〜はレ・ミゼラブルのレ〜♪」

 本当に歌劇で使う曲を書いているのか疑いたくなる奇行。レオは誰もが知っている歌を自分流に歌詞を替えながら歌っていた。

「ミ〜はミケランジェロのミ〜♪ ファ〜はファタ・モルガナの……ア?」

 順調に上がってきていた音階は突然『ファ』で区切られる。レオは壁にくっつけていたマジックペンを離しムムッと眉間に皺を寄せ、今書いたばかりの『ファ』の音を睨んだ。無意識に美雪の臨時ユニットの名前を出してしまった。イタリア語で蜃気楼を意味する単語だ、あくまでその意味で使っていると貫けば良いものを。いちいち引っかかってしまうのが美雪に対しては素直になれない、月永レオという男だった。

「なんで今おれは名波のことを考えたんだ? アイツなんて知らんっ、知らんったら知らん! 名波め、おれの陣地に入ってきやがって〜!」

 レオと美雪が衝突したのは十一月中旬頃の話だ。あんずが退院してから数日後だった。あの一件があってから、レオは何度も美雪にちょっかいを出してはスルーされている。最初はレオの言うことがわからずに首を傾げたりムッと少しでも表情を変えていたりした美雪だったが、慣れたのか段々素通りすることを覚えるようになった。レオが矛盾だらけのことを言う人間だと認識してしまった。

 レオが言っている『陣地』というのは、彼が学外において別名義で活動をしている領域のことだ。先日とある賞を取ったレオは授与式に参加していたが、その副賞を取ったのが『名波哥夏』。美雪は表舞台に出ることはしないため授与式に姿を現さなかったが、レオは自分より一つ下の賞を取った作曲家の名前が呼ばれた瞬間、ヒクリと引き攣った笑みを浮かべたのが記憶に新しい。その首元にはクリスマスに後輩からもらったネクタイがきっちり締まっていた。

「夢ノ咲のアイドルだけに書いてりゃ良いのに……誰かさんが余計なことを言うせいで名波までコンクールに出るようになりやがった。まぁ、アイツの曲は凄いから色んなヤツに聴かせるべきだけど……って何でおれは名波を褒めてるんだ⁉ 違う違う、天才はおれ! アイツじゃなくておれ! ナイトキラーズは負けたけど受賞したのはおれだもん!」

 先日、敬人が壁を楽譜にしている二人を見つけて叱りつける際、コンクールの話を持ち出したのだった。敬人は美雪とレオの臨時ユニット騒動の話を聞いて思う所があったのか、「喧嘩をするなら作曲家らしく、公正な場で、第三者というプロの審査員に評価をしてもらえ」と苦言を呈したのだ。今までコンクールに参加したことのなかった美雪は敬人の助言に素直に納得し、レオが受賞した例のものに応募したということだろう。

「……なんでアイツ、授与式に来なかったんだろう。おれに負けたのが悔しかったのかな、副賞だって賞金とかトロフィーとか色々あるのに……おれは曲を書ければ良いだけだから、ああいうのは要らないけど。名波もそういうヤツなのか? お嬢様って聞いた気がする……折角あんなに可愛いのに、なんで公の舞台には出て来ないんだ? ……あ、いや! 可愛くはないけど!」

 独り言でもツンデレは健在だった。
 レオは壁に出来上がった曲を見上げて不備はないか・納得できないところはないか・改良すべきところはないかを確認してみる。歌劇に使用するに申し分ない仕上がりだ、とレオは満足気に頷き、「さて脚本をどうするか」とロダンの『考える人』のようなポーズを取った。器用に空気椅子をしている。そこに椅子をスライドしたらそのままぴったりハマりそうだ。

「辻斬りに夜警だろ、皇帝が書生で……ん〜、なんかキャラが少ないな。もうちょっと役が欲しいところだけど、これ以上人員を増やそうとすると声を掛けるのが面倒か?」

 ブツブツと独り言を言っていると、コツン、と軽い足音が聞こえる。音のした方にレオが顔を向けると、すぐ近くの階段を美雪が上ってきたところだった。レオと美雪の視線はばっちり絡み合い、美雪はこの階に用はないのか会釈をして上の階へと足を向けようとする。彼女の顔を見た瞬間に何かが舞い降りて来たレオはすかさず声を掛けた。

「名波」
「……? はい、なんでしょう」
「お前、歌劇に出ろ」
「……かげき?」

***

 どんがらがっしゃん、と廊下から鳴り響く騒音に珍しく教室内にいた三奇人は揃って目を丸くした。驚いた渉の鳩たちが次々に彼の懐から飛び出して窓の外へと逃げていく様子を、零と奏汰がぽーっと見つめる。三年B組の常識人であるなずなと紅郎は「なんだなんだ」と教室の扉を開けて廊下の様子を覗き見た。

「待てって言ってんだろ!」
「……」
「おい、コラー! 無視すんな名波! おれ先輩だぞ⁉」
「……廊下は、走っちゃ、いけないと思います」
「お前も走ってるだろうが!」
「……月永先輩が、追いかけてくるからです」

 廊下で追いかけっこをしているのはレオと美雪だった。レオは廊下で見つけた道具やそこら辺で拾ったものなどをポイポイ投げつけて美雪の逃走を妨害しようとしているようだが、上手くいっていない。

 B組の隣に位置するA組も騒動を聞きつけたのだろう。敬人が眉間に皺を寄せて飛び出し、「月永ッ、氷室ッ! また貴様らか!」と怒声をあげている。「まあまあ」と敬人を宥めるようにして出て来た斑が持ち前の反射神経で美雪とレオの間に挟まった。美雪はこれ幸いにと斑の背後に隠れ、レオは斑という巨体が立ちはだかっているというのに気にせず突っ込んでくる。斑を柱にしてクルクルと仔猫二匹が追いかけっこをしている状況。斑は予想外の展開にぎょっとしつつも、すぐに朗らかに笑って左腕に美雪を、右腕にレオを捕まえた。

「うぎゃあっ! 離せ〜!」
「こぉら、レオさん! 好きな女の子にアプローチするときは方法に気をつけなさい!」
「は、はぁ⁉ 好きじゃないし! アプローチなんてしてないし!」
「美雪さんも廊下は走っちゃいけません! 君は軽いんだから、誰かとぶち当たったらピューンと壁に飛んで行って激突して、打ちどころが悪ければ最悪命を落としそうで気が気じゃない」
「……人は、死に向かって生きています。私もその内、死にます」
「論点をずらすんじゃあない! そんなことで死にたくはないだろう? それに、また敬人さんに怒られたくはないだろう?」

 斑がそう言うと美雪はきゅっと口を噤んだ。斑は大人しくなった美雪だけを床に下ろし、いまだに手足をばたつかせているレオは首根っこを掴んで持ち上げたままにした。レオは「うにゃぁああああ〜!」と猫のような鳴き声をあげている。

「まったく度し難い……どうせまた月永がちょっかいを出したんだろう」
「だから何でケイトはいっつもおればっかり責めるの⁉ ちゃんと事情を聞いてから言えよな!」
「ほう? 今回は違うと?」
「違わないけど!」
「そらみたことか。氷室が可愛いのは全校生徒が周知の事実だし、お前も氷室があまりに可愛くて後先考えずに行動してしまうのだろうが、もう少し関わり方を考えろ。小学生男子じゃないんだから、からかって自分に意識を向けさせようとするのは卒業しろ」
「う、うう……違うのに……なんで皆決めつけるんだよぅ……」

 ズンズン責められ、流石のレオも堪えたのかシュンと大人しくなった。斑が地面に下すと、レオはそのまま綺麗に床に正座をする姿勢になる。そして小声で一言。

「つーかケイトきも……」
「何か言ったか?」
「キモい」
「ほーう? ほうほう、言い直すのか。良い度胸だ」
「だってお前が女子のこと素直に『可愛い』って言うのって変態臭がすご……痛い痛い痛いッ、暴力反対!」

 敬人は拳骨を作ってレオの頭をぐりぐりと痛めつけた。一通りレオが反省したのを確認した敬人は斑の後ろに隠れている美雪に目をやって、事情を聞き出そうとした。

「それで? 何故二人して廊下を走り回っていた? 氷室、お前は最近月永のちょっかいを躱すスキルを身に着けたはずだろう。何故コイツに構ったんだ」

 斑の背中から顔を出した美雪は、地べたに座っているレオをちらっと見てから言いにくそうに口を開く。

「……月永先輩が、歌劇に出ろって」
「歌劇? ……まさかとは思うが、氷室を出そうとしたのか?」
「……だってキャラが少ないから」
「はぁ……お前は知らないかもしれないがな、月永。氷室はアイドル科の生徒ではなく音楽科の生徒だ」
「それくらい知ってるっつーの」
「ならば何故、歌劇に出そうなんていう考えが思い浮かんだんだ」
「それは、その、あれだよ……キャラが少ないから」
「……理由が先程と同じなんだが」
「それしか理由がないんだよ! そんくらい理解しろ!」

 言い切るとレオはぷいっとそっぽを向いた。敬人が度し難い彼に溜め息を吐くと、B組の教室から事態を窺っていた奇人の一人が薔薇を撒き散らしながら飛び出して来た。一番扉の近くに居たなずなと紅郎は頭から花びらを被ることになった。

「Amazing! 美雪さんが歌劇に出演! 素晴らしいではありませんか! 女形が必要なら正直私でもどうにかなったのですが、私はすでに辻斬り役ですし、美雪さんは世界で唯一の神秘的な存在ですからね! 役は? 町娘と言ったところでしょうか?」

 薔薇の香りを纏いながらレオの前に現れた渉が質問をすると、レオは自分の意見に耳を傾けた奇人に気を良くしたのか、懐いた子どものように渉を見上げる。

「うん、小さな社交喫茶の看板娘にしようと思ってさ」
「社交喫茶! お客様と濃厚な接触をすることもあったという女給の役を美雪さんに宛がうとは……貴方、とても良い趣味をしていますねぇ♪」
「ふふん♪ そうだろう、おれは天才だからな。清純な女がそうやって男を知り、やがて男を誑かしていく……『痴人の愛』のナオミみたいなのをおれは求めてるんだ」
「ほうほう、ナオミズムですね! 確かに美雪さんならナオミに相応しい美女でしょう!」
「だろッ⁉ 名波が和洋折衷の給仕服を着てご奉仕してくれるんだぜ、良くないッ⁉」

 渉に肯定されたのが余程嬉しかったのだろう。レオは目をキラッキラ輝かせて渉に同意を求めた。にっこり笑った渉が弾んだ会話の空気を変える。

「…………随分、美雪さんがお気に入りのようで♪」
「アッ、ちが、違う! 違うけどな⁉ おれはその、給仕服が異様に好きなだけだから! 和洋折衷の衣装が好きなだけだから! 衣装に興奮してるだけだからッ……ってシュウみたいなこと言っちゃった!」

 レオが慌てふためいて弁解するのを、渉は貼り付けた笑みで見下ろしていた。A組の扉から顔を覗かせて見守っていた英智が出てくる。

「へぇ、美雪ちゃんが社交喫茶の女給さんかぁ……じゃあ、書生の僕が奉仕を受けることができるのかな♪」
「いや、辻斬りのおれ」
「え、辻斬りが接待されるのかい? 夜警ならまだわかるけど……それは脚本家の欲が出過ぎじゃないかな?」
「は、はぁ? 欲なんてないけど?」
「じゃあ僕にして」
「駄目だ」
「…………ツンデレ」
「おい、小声でぼそっと悪口言ったなお前!」
「ツンデレが悪口になる世の中なんだねぇ」
「英智、お前が出てくると話がややこしくなる」
「ごめんごめん。楽しそうだったから」

 収拾がつかなくなる前にと敬人が横槍を入れた。カチャリ、と眼鏡を押し上げて本日何回目かのため息を再びお送りした後、「そもそもだな」と説明を始める。

「今回の歌劇はS2だ。S1ほどではないにしても規模は大きく、演者はアイドル科の生徒で構成せねばならない。つまり音楽科の生徒である氷室は歌劇には出れん。追いかけ回していたということは、参加を断った氷室に無理矢理迫ったということだろう」
「でもワタルが出てる舞台には演劇科のヤツが出てただろ?」
「いつの話をしているんだ貴様は……あれはコイツが演劇部として、演劇科と交渉しながら進めていただけの話だ。今回の件とは関係ない。他学科の生徒の参加は不可能だ」
「詰まらないですねぇ、英智」
「ああ。とても詰まらないね、敬人は頭が硬い」
「貴様らはどちらの味方なんだ」
「勿論、美雪さんですよ!」
「勿論、美雪ちゃんだよ♪」

 自分が困っているのを楽しそうに眺めている二人に、敬人は苛立ちを隠すことができない。美雪の味方だと言うのならば、美雪の意見に耳を傾けるべきだと言うのに。流石に哀れに思えた斑は助太刀をすることにした。

「というか、美雪さん本人が断っているというのがまず大前提ではないかあ? なあ、美雪さん。君は舞台には立ちたくないんだよなあ? コンチェルトに誘ったときも、俺にそう言って断っただろう?」
「……はい」
「そういうわけだ、レオさん。美雪さんは出たくないと言っている。今回は残念だが、看板娘はシナリオから消した方が良いなあ」
「…………わかったよ」

 レオは三毛縞斑という人間を信頼している。彼に言われたからには、逆らうわけにはいかないと思ったのだろう。レオは不服そうに立ち上がって斑の後ろに隠れている美雪を見つめた。

 後日、渉によって和服にエプロンという社交喫茶の女給に扮した美雪の写真が送られてきたレオはすっかり機嫌を直したと言う。

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