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 氷室財閥の執事は、自らが仕える令嬢の小さな背中を見つめていた。
 夢ノ咲学院音楽科のある一室。本来であれば他の生徒も使えるスタジオのはずだが、美雪の家の存在感と彼女自身の異質さのせいで誰も近寄らず最早彼女のためのスタジオと化しているそこで、ヴァイオリンの音色が響いていた。

 切ない音色がじん、と身に染み渡るような錯覚に陥った執事は瞼を閉じて魅入った。美雪自身は掴みどころのない無感情な人形のようだが、楽器の音だけは彩りが鮮やかなように思える。ヴァイオリンが美雪の代わりに感情を持ち、軽やかに歌っているかのようだった。

 ブーッと鈍い音が、滑らかな弓の動きを遮った。執事は思わず主人のスマートフォンを睨んでしまう。美雪はヴァイオリンを置いてけたたましく震えるそれを取ると「斎宮宗」と表示された画面をタップして耳に当てた。

「……はい」
「やあ、氷室。突然済まないね。今日は『Valkyrieの日』ではないが、どうしても君に伝えたいことがって……放課後、来て欲しいところがあるのだけれど……良いかな?」

 美雪はスマートフォンを耳から遠ざけてもう一度画面を確認した。取る前と変わらず、そこには青い画面に白地でValkyrieのリーダーの名前が書かれている。パチリと瞬きをして耳に戻す。

「……日々樹先輩ですか?」
「ん? 何を言っている。僕だよ? 斎宮宗だ」
「…………」
「……氷室? 無言になられると怖いのだけれど」
「…………」
「すみませんでした。そうです貴方の日々樹渉です」

 諦めた渉は電話口で観念する。電子機器を好かない宗は、現代人のようにスマホが無いと落ち着かない、といった感情を持ち合わせていない。放置されているスマートフォンを渉が盗むのは赤子の手を捻るよりも簡単だった。渉は宗のスマートフォンを使って、宗の振りをして美雪に電話を掛けたのだった。

「私の声帯模写は完璧のはず……ですが美雪さんは天才作曲家。聴覚が超人並み、ずば抜けて良いんでしたね。騙そうとした私が愚かでした……宗、似てませんでした?」

 自信を喪失した渉はしょぼくれながら美雪に尋ねた。常人であれば渉だと気づくことはなかっただろう、相手が悪かったのだ。

「……声紋が違ったので」
「せっ……そうですか、流石の私も声紋までは誤魔化せませんね」

 がっくりと肩を落とした渉は一先ず本題に入ろうとシャキッと身を入れ直した。

「えーっとですね? ふざけて宗の声で言いましたけど、放課後に来て欲しいところがありまして……」

***

 人生で箱に閉じ込められた経験がある人間は一握りしかいないだろう。泉と敬人は不審な手紙に呼び出されて庭に向かうと、そこには斑と、更には音楽科の生徒である美雪がいた。呼び出された四人が集合したところで何処からともなく渉が現れ、泉と敬人・美雪を一列に並べると箱の中に閉じ込めた。流石の渉も斑を捕まえるのは無理だと思ったのだろう、斑は除外されていた。男二人に加えて女の子が一人、狭い空間で時間を共にしている。

「くっそ……なんなわけぇ⁉ 意味わかんないんだけどっ……」
「日々樹め……三人閉じ込めるならそれなりのスペースを用意しろっ。狭すぎて氷室を潰しかねん」

 箱は中にいる三人を気遣うことなく乱暴に運ばれているらしく、ガタガタと不安定に揺れるせいで敬人と泉はうまくバランスが取れない。一際大きく揺れ、敬人は「うおっ」と声をあげて倒れ込んだ。衝撃でずれた眼鏡を元の位置に戻して状況を確認すると、暗がりの中、自分に押し倒されている美雪が飛び込んでくる。散らばった艶やかな髪、敬人を見上げる丸い目。

「──だっ、ぐぅっ……⁉」
「何いまの声。……蓮巳?」

 同じようにバランスを崩して箱の壁にぶち当たっていた泉が振り返り、敬人と美雪の姿を視界に収める。

「……うっわ。最低」
「ち、違う! これは事故だ!」
「ならさっさと美雪の上から退きなよ。なぁに馬乗りになってんのぉ?」
「退きたいのは山々なんだが……こ、このままでは氷室が圧死する……!」
「とか言っちゃって。本当はこの状況を楽しんでるんでしょ、俺にはわかるよ。俺がアンタの立場だったらどさくさに紛れて美雪の体をまさぐって匂いを嗅ぎまくるから」
「お前みたいな変態と一緒にするな!」
「はぁ? 聞き捨てならないんだけど、むっつり」
「言いがかりだ! 名誉棄損で訴える!」
「なに、裁判? 受けて立つよぉ」

 このように罵倒のバトルを繰り広げているが、かく言う泉も上手い具合に体勢を保つことができずに長い脚で踏ん張ってガッタガタのポージングを披露している。
 美雪は視線を落とし、自分を潰すまいとしている敬人の腕がぷるぷる震えているのを見て肘を曲げさせようとツンツン突いた。ぎりぎり保っている状況では地味に響く攻撃だ。

「なっ……や、やめろ!」
「……でも蓮巳先輩、辛そうです」
「も、問題ない……俺はそこまでやわでは──うっ⁉」
「……どうぞ、楽にしてください。……私は平気ですから」

 ガクン、と肘が崩れた敬人は耳元で美雪に囁かれる。男を惑わす甘い声に敬人はグルグルと目を回した。芳しい薔薇のような蜂蜜のような香りも合わさり、頭がクラクラして正常では居られない。
 危険を察知した泉がバレエで培った可動域の広い柔軟な足で敬人を蹴り飛ばす。

「ぐっ、何をする!」
「今アンタ絶対美雪に手出そうとしたでしょ」
「はぁ⁉ 俺の意思も理性も鋼だぞ! 氷室に誘惑されたところで……め、目を瞑ればどうと言うことはない! コイツは顔さえ見なければ問題ない!」
「は? 美雪の顔を見ないとか正気? というか美雪の魅力が『顔だけ』みたいな言い方やめなよね。目を瞑ったところでセイレーンみたいな声でズルズル引きずり込まれるよ。アンタだって、たった今そうなってたでしょうが」

 泉はなんとか体勢を立て直し、敬人と美雪に這い寄る。

「い〜い? 美雪。アンタが善意で男に優しくしてもね、相手は『自分に気があるんだ』って勘違いして舞い上がって、アンタを自分のものにしようとするよ。そういう蓮巳みたいな男ばっかなんだから気を付けな」
「待て。心外だ。俺は羽風のような男ではない」

 すぐに反論する敬人を置いて泉は美雪に指導を続ける。

「怖い男に迫られたら股間を蹴るんだよ。そこが男の弱点だから」
「……蹴ったら可哀想です」
「あ〜もう、美雪ったら優しいお馬鹿さん。これは正当防衛だよ、自分の身を守るの。前に二年のモブにレイプされそうになったの忘れたぁ?」
「何ッ……? それは本当か、瀬名」
「半年前くらいだったかな〜……椚先生には報告したけど、生徒会はその話聞いてなかったんだ? ま、アンタたちも忙しいし自分だけで処理するって判断したのかもねぇ〜。これを機にちゃんと治安も維持しなよ」

 泉は美雪を安心させるように頭を撫でつけながら敬人に忠告をした。敬人は耳が痛いと言わんばかりに唸り、渋々頷く。

 すると突然、箱の蓋が開いて光が差し込んできた。外の会話が聞こえていた美雪は平然としているが、会話に夢中になっていた敬人と泉は「何事か」と目を丸くして顔を上げる。

 そこは生徒会室だった。箱を運んできた張本人である渉と、彼についてきた斑以外に英智とレオ、なずな、紅郎までいる。全員が箱を覗き込み、中にいる三人にスンッと表情が抜け落ちる。美雪を押し倒している敬人と美雪の横に寝転んで頭を撫でている泉を見て、誰が『何もなかった』と思えるだろうか。

「……何してるの敬人」
「文句は俺ではなく日々樹に言え!」
「いえいえ、私は箱に入れただけです。……まさか蓮巳敬人くん十八歳こと『右腕さん』が美雪さんに手を出すとは思ってもいませんでした。箱を分けるべきでしたね」
「僕の右腕は女の子に手を出すようなろくでなしだったのか……切り捨てようかな」
「物騒なことを言うんじゃあない。例え切り落とされても地の果てまで追いかけるぞ、お前を一人にはしない」
「え、手首の状態で追いかけてくるってこと? 怖。気持ちわる。そういうホラーゲーム見たことある気がするよ」

 皇帝の目で冷たく見下してくる幼馴染に敬人は弁解しようとした。英智と渉を皮切りに、居合わせた面々は次々と罵倒を繰り出す。

「敬人さん、ママは失望しました」
「お前に失望されたところで痛くも痒くもないわ」
「……へぇ、蓮巳ってそういうヤツだったんだな」
「お、お前のそんな顔ははじめて見たな。去年ですら見た覚えがない」
「……旦那」

 斑となずなの後に声を発した紅郎が何とも言えない表情で立ち尽くしているのがわかった敬人はハッとして頭を下げる。

「す、すまん、鬼龍。これは事故なんだ。紅月を脱退しないでくれ」
「…………」
「しないよな……⁉ しないと言ってくれ! というか何故貴様らは俺ばかり責める⁉ 瀬名も同罪だろう!」
「いや、俺は押し倒してないし。刑罰はアンタより軽いよ」

 泉は手を横に振って自分は罪に問われないと主張する。にっこり笑った渉が敬人を、満面の笑みの斑が泉を掴んで箱から引きずり出した。上に被さる男が居なくなった美雪は箱の淵に手を乗せて、ひょっこり辺りを見渡す。興味津々な仔猫のような行動に、英智は微笑んで頭を撫でた。

 箱の中身がわかってから、ナイトキラーズのリーダーであるレオは鋭い目つきで美雪を睨んでいた。そんな彼と目があった美雪がぱちくりと瞬きをするとレオは面白くなさそうに目を逸らした。

「あはは。まだ名波と仲良くできないのか、レオちん?」
「──え?」

 なずなはレオと美雪の臨時ユニット騒動に巻き込まれ、そして先日廊下で追いかけっこをしていた二人を教室から眺めていただけあって、レオが美雪に対して意地を張っていることを理解していた。今の一連のやり取りを見ていた彼がレオをからかうように言うと、レオは目を見開いてまじまじとなずなを見つめる。てっきり「違う!」と叫んで否定すると思っていたレオの予想外の行動に、なずなも首を傾げてしまった。

「……ナズ、お前、名波のこと『名波』って呼んでるのか?」
「うん。……ん? それがどうかした?」
「……それやめろよ」
「え、な、なんで?」
「いや、だって、なんか……キャラ被るじゃん」
「キャラぁ……?」

 怪訝そうにした後、瞬時にピンと来たなずなは「はっはーん」と口角をあげる。

「成る程な、特別感が薄れるって言いたいわけだ。名波って呼んでいいのは自分だけっていう独占欲だな♪」
「違うし」
「じゃあおれが名波って呼んでも問題ないんだ?」
「う……べ、別にぃ? 好きにしろっ」
「まあ呼び方一つでいちいちレオちんの許可を貰うつもりはないから、好きに呼ばせてもらうけど。Ra*bitsはあんまり関わったことないから、おれの中では作曲家の『名波哥夏』っていう印象がどうしても強くてさ。こっちの方が呼びやすい」
「…………」

 少し意地悪だっただろうかと思ったなずながレオを窺うと、彼は苦虫を嚙み潰したような、ばつが悪そうな、居心地が悪そうな佇まいだ。なずなは笑いを堪えることができない。

「ぷっ。すっごい顔してるぞレオちん。嫌なら嫌って素直に言えば良いのに」
「ナズ……いつから妖精さんじゃなくて悪魔になったんだ?」

 レオが恨めしそうになずなを睨んだところで、渉が突然鳩を出して「ともあれ!」と取っ散らかった話を元の位置に戻そうとする。

「私たち四人がナイトキラーズに相対する臨時ユニットの『トロイメライ』です! 美雪さんには作曲をしていただきます♪ 良かったですね、『王さま』さん! 美雪さんにリベンジできますよ!」
「いや、この間はおれが勝ったし」
「おや? 確か美雪さんの臨時ユニットが勝利したのではありませんでした?」

 渉がきょとんと目を丸くすると、泉が「ああ」と説明しようと口を開く。襟首を斑に掴まれた状態だ。

「この二人、年明けから大小問わず色んなコンクールに応募しては一位二位を争ってるらしいんだよねぇ。王さまが言ってるのはたぶんそれの話。でもトータルの勝敗は引き分けなんじゃなかったぁ?」
「おれの方が勝ってる! 一勝多いもん!」
「……勝ち負けは、あまり興味がないです。作れれば良いので」
「おれだってないし! つーかお前、授与式くらい来いよな! 毎回おれが代理で貰って帰るせいで審査員とか関係者に仲良いと思われてるんだからな⁉」
「満更でもない癖に」
「満更でもある!」

 ズカズカと美雪が入っている箱の前まで踏み込んできたレオが腕を組んで見下ろした。

「あとでお前が金取ったヤツのトロフィー渡すからな! 邪魔で邪魔で仕方がない!」
「……要らないです、あげます」
「おれには銀があるんだよ! 何が嬉しくて負けたおれが金も持たなきゃいけないんだ!」

 斑の手を跳ねのけ、自由になった泉が箱の中で身を潜めている美雪に目線を合わせる。

「美雪。コイツわざわざスタジオに持ってきて、いつでもアンタに渡せるようにしてるんだよね。素直じゃないだけだから貰ってやってくれる?」
「アッ、ちょ、余計なこと言うなよ……!」
「余計〜? 善意だけど。だって王さま、トロフィーに埃が被んないように毎日手入れしてんじゃん」
「あれはっ……綺麗好きなだけ! 名波のためじゃないから!」
「ツンデレの定型文が出て来たな」

 漫画をよく読む敬人からすると、主人公のためにお弁当を作ってきたヒロインが「べ、別にアンタの為なんかじゃないんだからねっ」と照れ隠ししている状況と同じように見えた。

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