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「影片」
「なぁに、お師さん」
「二月だな」
「二月やね」

 手芸部室にて。Valkyrieの二人は向かい合って椅子に座り、指を組んで肘をつき対面していた。全く同じ姿勢で真剣な表情。これが完璧に調律された舞台を創り上げるValkyrieだった。
 宗はフッと目を伏せてみかに問いかける。

「二月は何があるか、覚えているか」
「勿論やで、お師さん。いくらおれが脳味噌をどっかに落っことしてきてるとしても、これだけは絶対に、確実に忘れないで」

 きりりと微笑んだみかは宗が椅子から立ち上がるタイミングに合わせる。

「そう! 二月十四日は!」
「美雪ちゃんの!」
「誕・生・日……☆」

 同時に立った二人は薔薇の花びらを撒き散らした。実は手芸部室に日々樹渉が紛れていた、と言われても驚かないくらいの量だった。

「盛大に祝うで〜!」
「ああ! いつも表情が乏しいあの子を、あっと驚かせてやろう……! 氷室財閥には敵わないが、あの子に貰ったものを返せるよう全身全霊をかけて臨むぞ!」
「おん!」
「世間的にはバレンタインなどと言われている日だけれどね、僕らにとってはあの子の誕生日という方が大きいのだよ。長年の偏見が彼女という存在で塗り替えられているのだからねッ」
「せやね〜」

 Valkyrieの作曲家である名波哥夏こと氷室美雪。彼女が生まれたとされる日付はバレンタインデーにあたる二月十四日だった。
 二人は自分の誕生日に美雪からびっくりするくらいの量のプレゼントを貰っている。更に彼女はいつもValkyrieを贔屓し、信じて曲を授けてくれている。それに応えたいと、宗とみかが思わないはずがなかった。

「だからショコラフェスには参加しない。氷室の誕生日が疎かになってはいけないからね」
「えっ」
「……ん? 何か問題でもあるのかね?」
「い、いや……別になんでもないでっ?」

 ついさっき、噴水の前でスバルと遭遇し友チョコ交換の約束をしてしまったみかは、宗の宣言に元気よく「おう!」と返事をすることができなかった。しどろもどろなみかを怪訝そうに見た宗だったが、椚章臣に呼び出されたことを思い出し、二人揃って職員室に向かう。

「留年です」
「…………」
「…………」

 職員室に辿り着き突然告げられた事実に宗もみかも固まる。

「そんな殺生な〜⁉ 最近は授業をサボってバイトをしてへんし、授業中も寝たりせんと真面目に受けとるのに……な、何とかならへんのですか⁉ 肩揉みでもお茶汲みでも何でもするんで! 留年だけは勘弁してください! お願いします……!」

 みかは章臣に縋りつくが、章臣はため息を吐いて「自分では無理だ」と彼らが留年するかもしれない原因を話す。
 Valkyrieの留年理由として、まず二人の成績は問題ない。みかは彼自身が言ったように、最近は真面目に授業に参加しているし、宗は優秀な成績を収めている。しかしValkyrieは春頃まで活動に積極的ではなかったため、校内イベントの出席日数が足りていないという。

「こればかりは私の力ではどうすることもできません。ですがショコラフェスに参加すれば、ギリギリ進級に必要な日数に達しそうなのです」
「ふむ……」

 ショコラフェスの制度が気に入らない宗は考え込んでいる様子だ。みかは固唾を飲んで見守る。
 ショコラフェスはアイドルが作ったチョコレートを求めたファンが大勢やってくる企画だ。お目当てのチョコレートを入手するためには、自分が応援していない・推していないアイドルのライブも観なければならない。「Valkyrieのパフォーマンスは真にValkyrieを応援する者のみに振る舞う」という考えの宗にとっては、いくら勝敗を決めるドリフェスではないにしても納得できるものではなかった。

「……待て? 留年すれば氷室と共に過ごせるのでは?」
「なんて?」

 宗の素っ頓狂な発言にみかが聞き返す。

「影片だけ氷室と過ごす日々が訪れるなど嫉妬で狂いそうだ……それに、あの子のお昼寝中に守れる人間が影片というのも心許ないように思える……これはいい機会なのかもしれない」
「お、お師さん? おーい」
「あの子が卒業するまで、僕は傍に居たい。……つまり僕は二年留年する必要があるということ」
「お師さん、今ちょっと頭可笑しいで? この人、頭良いのに時々変なこと言い始めるんよなぁ……」

 突然「寧ろ留年したい」と言い始めた宗にみかも章臣も頭が痛くなった。みかは宗を庇いながら章臣に向かって「すんません……うちのお師さんが」と謝罪する。

「影片、これは君にとっても良い案件なのではないか?」
「えええっ?」
「僕が留年すれば、君も僕と過ごすことができる」
「……!」
「更に、君も留年すれば、三人で卒業できるということだ」
「おれが、留年……? そうすれば、お師さんと美雪ちゃんと一緒に、卒業……?」

 みかは壊れた人形のようにブツブツと唱え、厨二病の中学生のように右目を隠した。

「──わかったで、お師さん。留年や」
「何を馬鹿なことを言っているんですか」

 ついに章臣が口を挟んだ。二人だけで解決させてはいけないと思ったのだろう、痛む頭を押さえて言う。

「良いですか二人共。留年なんてしてみなさい、それは『Valkyrie』の名に傷をつける行為です。留年した問題児・不良の二人が所属するユニットなんて世間体が悪いでしょう。……何より、美雪さんの為を思うならきちんと卒業をするべきです。あの子は貴方たちを留年させてまで、Valkyrieに泥を塗ってまで貴方たちと一緒に居たいとは思わないはずです。というか斎宮くんはもう進路を決めているでしょう。今更変えられませんよ、今はそういう時期です」
「ぐ、ぐぅ……一理ある」

 美雪のためを思って留年することが、必ずしも美雪が望むことであり喜ぶことであるとは言えない。美雪は何よりもValkyrieを優先するだろう。これまでの経験から、宗は推測することができた。

「仕方ないね……ショコラフェスに参加しよう」

***

 登校中の送迎車の中、美雪はふと本から顔を上げて窓の外を見た。通りの店の装飾が変わっている。二か月程前にはクリスマスツリーが出ていたケーキ屋の飾り付けが、ピンクやブラウンになっていた。美雪は執事に尋ね、それがバレンタインに向けての姿だということを知った。

 午前中、いつものように音楽科で授業を受けた美雪は食事──とは言い難い。嵐や泉が見れば卒倒する。──を取るとアイドル科の手芸部室に向かった。

 その道中、美雪はある一枚の紙を拾った。冬の冷風に飛ばされて足元までやってきたそれは五線紙で、美雪は筆跡から持ち主の目星がついた。力強いタッチはレオのものだ。きょろきょろと辺りを見渡し、点々と落ちている楽譜をヘンゼルとグレーテルのように辿っていく。

「……月永先輩」
「んっ⁉」

 ぎょっと目を丸くしたレオが振り返り、美雪を確認して脱力する。彼女にふいに声を掛けられると、いつもレオの頭の中でチャペルの鐘が鳴る。その度に心地よい気分になると共に、何としても鈴のような声を持つ少女を見逃してはならないと体が動いてしまう。

「なんだ、名波か」
「……楽譜、落としてます。……名前、ちゃんと書いておかないと、誰かが拾って、自分が書いたって、言いふらしてしまうかも」
「……お前はそういう経験あんの?」
「……ないです。けど、前に言われました。自分のものには、名前を書くって」
「冷蔵庫のプリンか」
「……? プリン? 名前を書くんですか? プリンに?」
「な、なんでそんなに食いついてくるんだよ」

 身を乗り出して問い詰めてくる美雪にレオは後退った。手元の楽譜をぐちゃっと潰してしまう。

「……プリンは、美味しいです。……喉に引っかからないから」
「大体の食べ物は喉に引っかからないだろ」
「……月永先輩は、プリンに名前を書きますか?」
「いやぁ? 別に?」
「……では何故、プリンに名前を書く人が居ますか? 月永先輩は、何故知っていますか?」

 質問責めを喰らったレオは眉間に皺を寄せて美雪を睨んだ。

「自分で考えろ。何でも人に聞くんじゃないっ」
「……自分で?」
「そう。お前、別に馬鹿じゃないだろ? ちゃんと脳味噌があるんだから自分で考えてみろ」
「……」

 美雪に背中を向けたレオはぐしゃぐしゃにしてしまった楽譜を拡げて続きを綴り始めた。美雪はぴょこんと跳ねているオレンジ色の尻尾を茫然と見る。芝生に膝をつき、冷たい風に吹かれて飛んで行く枯葉を見届け、小さな唇を震わせた。

「……七種さんも、プリンを食べていました。一緒に食べました」
「んんっ? 誰だ、サエグサって。あ、やっぱいい! 言うな!」
「……Edenで、Adamで、なぁくんの……パートナー?」
「言うなって言ってんのに……! 『なぁくん』って誰だ!」
「……それも、言わない方が良いですか?」
「フンッ! もう良い、聞かないからッ」

 突然現れた『サエグサさん』と『なぁくん』に、胸の辺りに靄が広がったレオは眉間に皺を寄せてブンブン頭を振った。そのとき、レオの鼻がある薫りを嗅ぎ取った。フンフンと吸い込み、その甘い匂いの正体がチョコレートだと言うことに気が付く。ショコラフェスに向けて、早い内から準備に取り掛かっているユニットが厨房でチョコレート作りをしていた。それが外まで漂ってきたのだろう。

 レオはちらっと隣に座る少女を盗み見る。瞼が重たくなっているのか、長く目を瞑ってゆるっと目を開き、瞬きを繰り返していた。

 バレンタイン、言わずもがな日本では昔よりチョコレート会社の戦略によって主に女性から男性に向けてチョコレートを渡すというイベントだ。街並みはハロウィンが終わるとあっという間にクリスマスへと変貌を遂げるが、クリスマスが終わると一瞬年末年始の雰囲気を醸し出し、それも終わるとすぐさまバレンタインに切り替わる。

 チョコレートを渡すのは女性からでなくてはいけない・受け取るのは男性のみ、という決まりはない。女性から女性に渡すこともあるし、海外のように男性から女性に贈り物をすることもある。友チョコ・世話チョコ・義理チョコなど、この世には多数の言い方がある。

「……お前さ」
「……はい?」
「……チョコ、作んの?」
「……チョコ?」
「ほら、もうすぐあれだろ、バレンタイン」
「……ああ、チョコレート会社の陰謀」
「そういう言い方はやめろよ」

 レオがじとりと彼女を睨むと、美雪は仔猫のような小さい欠伸をした。手芸部室のベッドに横にならなければいけない時間だ。

「……チョコレートは、作りません」
「なんで」
「……なんでって、貴方が言いました」
「……ん? 何を?」
「……キッチンに立つなって」

 『自分で考えろ』『言うな、妄想するから』と言う割に、今は聞くのだなと思った美雪は素直に答えた。宗の誕生日に向けてクロワッサンを作った彼女を、レオは綺麗にそれを食べておきながら罵った。真に受けた美雪はもう二度とキッチンには立つまい・自分が料理をすると不味くなってしまう、と思い込んでいる。

 完全なる自業自得にレオは顔を青くして冷や汗を流した。素直になれない捻くれた自分の、当時の八つ当たりが今になって跳ね返ってきている。彼女がチョコレートを作らなければ、レオは彼女のチョコレートを貰うことができない。そもそも貰えるかどうかはわからないのだが、思考がうまく纏まらないレオは焦っていた。

「あ、あー、いや、あの、あれは、その」
「……?」
「……へ、へ、下手くそなのは、く、クロワッサンだけ、なんじゃねーの? 他の料理は、上手くいくかもしれないじゃんっ? ほら、小学生がよく作ってるカップチョコあるじゃん。あれなんて融かして固めるだけだし、お前でも作れるだろ、あはは」
「……カップチョコって何ですか?」
「なんか、硬めのアルミニウムのカップにチョコを入れてアラザンとか振ったヤツ」
「……それなら、私でも作れますか?」
「えっ、つ、作るのかっ?」

 目をきらっとさせたレオは美雪に顔を寄せてしまい、彼女との距離の近さに気づいて頬を染める。勝手に接近しておきながら気まずそうに離れていくレオを不思議に思う美雪はコクンと頷く。

「……作れるなら、作りたいです」
「そ……そっか。へへ、じゃ、じゃあさ、おれにも……あ、いや別にお前のチョコなんか要らないけどっ……?」
「……」
「──あ、ちょっと待って。だ、誰に作る気だ?」

 舞い上がっていたレオはハッとする。『作りたい』ということは、渡したい相手がいるということだ。レオは美雪がチョコレートを渡しそうな相手の見当がついていた。

「……シュウ、とか?」
「……そうですね、斎宮先輩に」
「…………い、一個、だけ? シュウに、一個だけ?」
「……? いいえ、お世話になっている人に、渡したいです」
「お世話に……なぁ〜んだ、そういうこ……」

 宗一人に作るのではなく、世話になっている人全員に渡そうと言うのならば一安心だ。美雪がたった一人のためにチョコレートを作ったとなれば、渡したとなれば、アイドル科はちょっとした騒動になるだろう。

 しかしレオは考える。『世話になった人』という括りに、果たして自分が含まれているだろうか。レオは美雪を見ればつっけんどんな態度を取り、「ブス」と言い「魔女」と言い、料理を不味いと言ったりちょっかいを出したり。これだけ並んでいると、散々な男だ。

(おれ……コイツの世話なんてしたことあるか……?)

 寧ろ変な知識を植え付けているように思える。美雪はレオの真似をして壁に落書きをしたこともあったし、レオは美雪に喧嘩を吹っ掛けたこともある。斑が彼女のために作った弁当を横取りしたことも。レオが美雪にした世話と言えば、先日のダイナーライブの打ち上げでポテトを餌付けしたくらいだ。

 貰えないかもしれない。レオはぐっと唇を噛んでなんとか美雪に自分用のチョコレートを作るよう言おうとするが、目を向けたときには彼女は芝生の上で丸くなって眠っていた。

「……おい、こんなとこで寝るなよ」

 レオは彼女に伸ばした手を止め、指先を迷わせてからそっと前髪を撫でた。顔にかかっている髪を退けて寝顔を見つめる。

「……なぁ、おれさ。お前のこと、……寝てる、よな?」

 つんつんと丸い頬を突く。長い睫毛は伏せられたままで、レオは壊れないように優しく触れ、乾いた唇を舐めた。

「男の前で寝るとか不用心すぎ。……何されても知らねーぞ」

 鼻先が触れ合った。レオは至近距離でまじまじと美雪の閉じられた瞼を見つめる。目線を唇に落とし、ぎこちなく近づけていった。

 鈍い音が響く。レオはハッとして発生源を探し、それが美雪のスマートフォンだということに気づいた。画面には『斎宮宗』の文字。そろそろ眠りに来る時間だというのに現れない彼女を心配して電話をかけてきたのだろう。レオはむっと顔を顰めて画面をタップした。

「氷室? 僕だよ、そろそろ部室に来るかい?」
「……迎えに来い。広場の前にいるから」
「……月永? 何故君が氷室の電話に出ている?」

 名乗らずに「僕だよ」と言う宗に、彼と彼女が何度も電波で交流をしていると気づいたレオは胸の内に黒い何かが渦巻いた。

「今すぐ来ないとコイツの顔に落書きするぞ! 額に肉って書いてやる! ほっぺにおれの名前を書いてやる!」
「なッ……⁉ 氷室の御尊顔になんてことを……! 待っていてくれ氷室、僕がすぐに行くからね! とうッ!」
「……ん、ん? なんだ今の掛け声。『お師さ〜んっ』って声も聞こえたけど、お前まさか飛び降り……」
「氷室、無事か⁉」
「はっや」

 動きからポーズまで奇妙な宗を、レオは呆れた顔で「きっも」と罵った。

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