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 三月十四日、ホワイトデー。一般的にはバレンタインデーのお返しに、主に男性から女性にプレゼントを贈る日とされている。三月は卒業の月でもある。故にホワイトデーには男性から女性へバレンタインのお礼として贈り物をする一般論と、今までお世話になった先輩にお礼をするという二重の意味が、返礼祭には込められていた。

 宗は卒業後、海外に向かう。行先はパリだ。それをValkyrieの一人であるみかに伝え、作曲家である美雪にも伝えていた。みかは見ればわかるくらいに宗と離れることの不安感や寂しさを全面に出した──自分も着いて行くと駄々をこねた──が、美雪の表情はいつもと変わらないように宗には見えた。まだ感情を覚えている段階である彼女には、そのときの気持ちをどう顔で表現すれば良いのかわかっていなかったのだろう。

「……お前は、それから先はどうするんだ? つうか新メンバーでも加えてValkyrieを続けよう、みたいな気持ちはないのか?」

 偶然にもバスでみかに遭遇したなずなはそう言った。みかはなずなを裏切者だと思う気持ちと、昔のように親しくしたいという気持ちが入り交じっていた。

「……よりにもよって、なずな兄ィが『引き継げ』とか言うん?」

 みかにとって宗は神だ。自分を拾ってくれた、価値を見いだしてくれた神々しい人。みかはValkyrieの作品の一部であることを誇りに思っていた。宗の人形であることを、宗と共に舞台に立つことを。

「今なら美しく消えられるけど、おれが引き継いでしもたら、おれが大好きなValkyrieはみじめに汚れてまう。そんなん、おれには耐えられへん」

 彼の育った環境の問題か、それとも宗と過ごした中で宗に掛けられた言葉が原因か、あるいは全ての因果か。みかは自己肯定感が低かった、自分一人でValkyrieを続けていくことも、新しくメンバーを加えることも、みかの中でそれはValkyrieを穢す行為だった。

「おれたちは汚らしく腐敗し、悪臭を放ちながら生き続けるよりも、美しく死にたい」
「……名波は納得してんのか?」
「んあっ? 名波? なずな兄ィ、美雪ちゃんのことそう呼んでんの? ……なんか美雪ちゃんにちょっかい出してるあの人と同じ呼び方で調子狂うわ……」

 みかの頭にはオレンジ色の尻尾を揺らす破天荒な王さまが浮かんでいた。なずなはレオ自身にも「呼び方のキャラが被る」と言われたことを思い出して失笑した。

「いや、おれにとってはこっちの方が言い易くて」
「ふぅん……」
「……で? 言ってんのか? Valkyrieの今後について」

 不審そうなみかに、先程の質問を再度投げかけた。なずなは美雪に恨まれた分、彼女が如何にValkyrieを想っているのかを理解しているつもりだった。

「……言ったんやけど……お師さんがパリに行って、おれも一人でValkyrieを続けるつもりはないって、言ったんやけど。美雪ちゃん、ごっつい悲しそうな顔して……たぶん、嫌なんやと思う。でも、うんとも嫌とも言わんかった。固まっちゃって、動かんかった。お師さんは美雪ちゃんに説明すんの、あんま気が乗らないって言ってたんやけど……言わんと、あかんやん。美雪ちゃんはおれらの作曲家やもん。秘密にして隠して、最後の舞台で『Valkyrieはもうありません』って。そんなん、そっちの方が残酷やん」

 揺れるバスの車内、手すりに掴まったみかは俯いた。少しでも美雪を傷つけないために告げることを選んだあの日、自分の前で強張った表情を浮かべた彼女がみかの脳内にこびり付いていた。

***

 Valkyrieは宗の祖父が入院中ということもあって返礼祭には参加せず、先日の舞台を卒業前最後の舞台にすることとした。

「……パリの大学に行くに当たって、お願いしたいことがあります」
「何だい、改まって」

 いつものように手芸部室にやってきた美雪にティーカップを用意した宗が目を丸くする。こうしてこの部屋で過ごせるのもあと十数日。卒業式の後、宗はパリへ飛ぶ。宗は心残りのないよう、美雪と過ごすつもりだった。
 美雪の目の前の椅子に腰掛けた宗は彼女の沈んだ空気を察知して顔を覗き込むようにして指を組む。

「どうした?」
「……パリは、私の兄が拠点にしている場所です」
「ああ。君の兄上ね、知っているよ。海外のファッション雑誌によく出ているしね。まあ、僕よりも瀬名の方が詳しいだろうけれど」
「……」
「……兄上が、どうかしたのかい?」

 美雪は薄く口を開いたかと思えば噤む。宗は気が短い方だが、彼女に対しては穏やか小川のようだった。彼女の考えがまとまるまで何時間でも待ってやる心持ちで、急かすことなく彼女が話すのを待つ。

「……もし、お兄様に会ったら、……会っても、私の名前を出さないでください。私を知っていることを、会っていることを、言わないで」
「? 挨拶してはいけないのかい? 世界レベルのモデルに会えるかどうかすらわからないが、もし会えたら君に世話になっていると言いたい気持ちがあるよ」
「私の名前を出すのは駄目。……貴方と私が互いを知っているのが、駄目なんです。お兄様にばれてしまうから」
「……ばれる。何がだ」

 美雪はまた押し黙ってしまう。
 部室の外では賑やかな音が漏れていた。どこぞのユニットがライブでもしているのだろう。もうすぐ返礼祭だとしても、夢ノ咲学院では大小さまざまなライブが毎日のように行われている。

 宗は今日、彼女の秘密を知ることができると確信していた。高鳴る胸を必死に鎮めて、「君にそんな悲しい顔をさせる兄は、何者だ」と問い質したくなるのを押さえて彼女の決心を待った。

「……私、今、いけないことをしてるから」
「いけないこと?」

 言いたくないのであれば、言わなくても良い。そう言いたくなる宗も居た。だが、この機会を逃せば、自分は彼女の元から遠く離れてしまう。自分でその道を選んでしまった。せめて遠くからでも彼女を守れるように、事情だけでも知っておきたいと宗は神に願う。

「…………お兄様の言いつけを破っているんです。お屋敷の外に行くなって、死ぬまで屋敷に居ろって」
「──……それは、監禁、ということか?」
「……たぶん、そう。それです」

 美雪はそう言うと肩の力を抜いたようだった。ふぅ、と息を吐いて背もたれに背中をくっつける。今まで言ってこなかったことを打ち明けて、肩の荷が下りたのだろうか。美雪は章臣に言われたとおり、氷室財閥の不利益になるような情報を誰にも話さなかった。宗を信頼して口を割った。

「……もし、外に出ていることがばれたら、お兄様はすぐに日本に帰って、私を屋敷に連れ戻すでしょう。……そして私は、二度と日の光を見られなくなる。夜の星も、土も砂も、海も、植物も動物も……貴方達も。何もかもを失って、どうしようもなく、ただ死んだように生きて、死んでいく」
「──な、何故、君の兄は、何故、君をそうする? 君を閉じ込める?」

 無様にも声が裏返った。知り合ったばかりの彼女も、今の彼女も、知らないことが多すぎる。その原因は兄によって強制された、閉ざされた世界だった。

 宗は今、自分が何か、触れてはいけないものに触れてしまったように感じていた。箱を開ければ、そこから暗黒が飛び出して来そうな。

「……わからない。『愛』だと言われた、けれど、たぶん『愛』には色んな形があって、私には何が正解なのかわからない。……愛は、良いもの? 悪いもの?」
「少なくとも、僕から君への愛は、尊いものだと信じてくれ」
「……ええ。貴方のそれを、気持ち悪いと思ったことは……あまり、ありません」
「……ん? あまり?」

 美雪の言葉に引っかかった宗は首を傾げた。今までの自分の奇行を綺麗さっぱり忘れている顔だ。美雪は目を逸らして、話を戻す。

「……私は、氷室に引き取られる前から、外界を知らずに育っていましたから。……なぁくん……あ、えっと、乱、凪砂くん、さん」
「……いいよ。気にしなくて良い、『なぁくん』と呼びなさい」

 憎きfineであった凪砂を彼女と同じように呼んだせいで宗の舌はビリビリと痺れた。美雪はこくん、と頷いて続ける。

「……なぁくんと私、小さいとき、一緒に過ごしていた。パパが居なくなって、……亡くなって、そこにお兄様がやってきて……私をお屋敷に連れて行きました。そこには、なぁくんは居なくて、パパも居なくて、……お部屋も暗くて、それで私、音が聞こえなくなって。……お兄様は、よく話しかけて来たけど、何を言ってるのかよくわからなくて、私が喋ることも、あまり求めていないみたいで……元々、私もなぁくんも、おしゃべりは苦手だったけど」
「……」
「……だからずっと、外を知らなかったんです。なぁくんと一緒のときも、そうでした。……あ、ううん、違う。教えてくれる人は、偶に来た。だからそのときは音が鳴っていた。でも……お部屋が真っ暗になったから、私、たぶん、何か大切なものを失って……興味を持てなくなった。だから、氷室に来てからずっと、永遠の何もない時間を過ごしていました」
「…………」

 宗は想像してみた。どんな部屋かまでは詳細に語られていないが、外界から閉ざすためにほぼ何もない真っ新な部屋だったのだろう。窓も、何もない部屋。そこにポツンと一人。前までは父と呼ぶ男と、共に時間を過ごす家族のような少年がいた。それが突然消え失せた。

 虚無だ。何度日が昇り、沈んだのかもわからない。時計もなければ時間という概念すらも存在しないかもしれない。何も見出せない、生きているのかもわからない生活。

「……あるときを境に、お兄様が来なくなりました」
「来なくなった? それはどうして? ……まさか、散々閉じ込めておいて君に飽きたなんて言わないだろうね? 美人は三日で飽きる、なんて言うのは俗物が言い出したことだよ」
「……当主になったから、パリに、行かなきゃいけなくなったから、と言っていました」
「……成る程」

 宗は一先ず納得して、その先を聞くことにした。

「……その後は、スターライトフェスティバルの前に、話したとおりです。……お父様が、貴方達の映像を見せてくれた」
「ああ……少々真っ直ぐ繋がらなくて、ちぐはぐで釈然としないが、君が今語れる君自身のことは理解したよ」

 つまり、高校生になるまで彼女はずっと屋敷の中で過ごしていた。兄が居なくなってから、多少の自由は許されたのだろう。だから一年前、Valkyrieに曲を授けることが出来ていた。
 宗が突然出て来た『氷室の父』に疑問を抱いていると、美雪が次の言葉を発する。

「……それで、えっと、私」
「大丈夫、慌てなくて良いよ」
「……はい」

 宗は棚からクマのぬいぐるみを取り出して美雪に渡した。受け取った美雪は膝の上に置き、ふわふわの毛を撫でる。

「……たぶん、外に出なければ、こんな気持ちにはならなかった」
「……どんな?」

 穏やかに微笑んだ宗をちらりと見た美雪はぱっと俯く。

「……お屋敷に、あの部屋に戻りたくないって。……一度、お兄様がSSの日に戻ってきたから、入らなければいけなかったけど……ちょっと、怖かった。また、出られなくなると思って」
「自由を知ったんだね、君は」
「……」
「悪いことじゃないよ。何も知らなかった君にとって、外の世界に満ち溢れているものの全てが新しく、興味深く、光り輝いて見えたんだろう。得たものを失いたくないと思う気持ちは、至極当然なものだ。そして、誰かの自由を奪うことは、誰にも許されていやしない」

 美雪はきゅっとぬいぐるみの手を握った。
 何よりも美しい彼女が作曲の際にペンネームを用いて頑なに表舞台に立たないのは、兄に知られるわけにはいかなかったからだった。何よりも愛らしい彼女が自分の写真が世に出回らないように言うのは、他人のカメラを拒むのは、兄に見つかるわけにはいかなかったからだった。
 宗は席を立って美雪の傍らに歩むと膝をついた。

「氷室。わかったよ、君の自由のために。僕は君の兄と遭遇しても、決して君の名を出さないことを誓う。寧ろ徹底的に会わないよう心掛けるよ。……だから、そんなに不安そうな顔をしないで。僕の愛しい人。君が悲しむと僕も悲しい」

 小さな手を取り、慈しむように撫でた宗は美雪を見上げた。

「……ありがとう、ございます。どうか」
「うん」
「どうか、お元気で」
「ふふ。まだ早いよ、それは空港で言ってくれ」

 美雪の髪を撫でた宗は「紅茶が冷めてしまったね。淹れ直そう」と口のつけられていないカップを取った。捨てようとする宗の手を止めた美雪は温いニルギリをちびちびと飲み始めた。

「……影片先輩は、どちらに?」

 みかの姿が見当たらないことを疑問に思った美雪は宗に尋ねた。宗は「あー……」と気まずそうに目を逸らす。

「その……あれは実家に帰らせた」
「…………何故?」
「……先日の舞台で僕たちの今後について話したね。その前に、僕たちの作曲家である君に前もって言っておいたけれど。影片の意思も尊重するべきだと思ってはいるが……僕は君のためにも、このままでValkyrieを終わらせるつもりはないのだよ。これはValkyrieの成長のために必要な儀式なんだ、わかってくれ」
「……帰ってきますよね?」

 丸い目で見上げられると隠し事が出来なくなる宗は不自然に美雪を見ないで応答していた。
 Valkyrieは先日の舞台で華々しく散ったのだと自分に言い聞かせていた美雪は、宗のそんな言葉に期待せずには居られなかった。七夕祭のときのように、不死鳥の如く復活するのだと。

「それは、あれ次第だね」
「……ねぇ、貴方。ちょっと」
「へ? な、なんだい?」

 手をひらっと上げて素っ気ない宗をむっと見上げた美雪はクマのぬいぐるみを置いて立ち上がり、宗に詰め寄った。

「……もしかして、影片先輩に酷いことを言ったんじゃあないでしょうね? 貴方、前から思っていたけれど、言葉が刺々しいです。私と影片先輩への態度の差は何なの?」
「お、おおっ? どうした氷室っ? き、君は怒った顔も美しいねっ?」

 宗は両手を上げた「降参」の姿で後退り、壁に背中がくっついた。美雪はズイズイと迫って宗を睨む。宗は怒った美雪の顔の愛くるしさに悶えつつ、彼女を怒らせてしまったことに戸惑っていた。

「私はいくらでも罵倒して良いけれど、みか様には優しくしてくださいな」
「君を罵倒するなんて僕には出来ないからねっ⁉」
「…………」
「何故残念そうな顔をする⁉ ……というか、やたらと流暢じゃあないか。どこでそんな台詞を覚えて……渉か。アイツは最近君を好き勝手して楽しんで」
「話を逸らさないで」
「は、はい」

 凄まれた宗はぴしっと気をつけの姿勢になる。

「……私は貴方が好きだけど」
「えっ? へっ……⁉ ぼ、僕もだよ! 君が好きだ、愛してる!」
「……? 貴方も、Valkyrieも好きなんです。だから影片先輩も好き」
「あ……あ、そういう好きか。なんだ……」

 宗はがっくりと肩を落とした。

「……喧嘩は嫌。傷つけ合うのは、嫌」
「……喧嘩ではないよ、大丈夫だ。影片が戻ってくることを、僕は信じているから」
「…………」
「人は苦労することで、壁にぶち当たることで成長するのだよ、氷室。君も夢ノ咲でそういう姿を見たことがあるんじゃないか? だから僕は影片に試練を与えた、そういうことだ」
「……」
「納得してくれた?」
「……まぁ、良いでしょう」

 宗の思惑を知った美雪はすっと身を引いた。去ってしまう前にと、宗は美雪の手首をそっと掴む。

「……ねぇ、氷室」
「……何?」
「君は渉に……どんな女にされているの?」
「……?」
「どんな役を演じているんだい? アイツに連れていかれた先で、君は」

 宗はするする、とゆっくり手を下げてゆき、美雪の手のひらを自分のと繋ごうとした。美雪は宗に尋ねられたことに答える。

「……この間は、……妖精? ……でした」
「ほう。何の妖精?」
「……血小板」
「は?」

 宗は固まり、美雪の顔をまじまじと見つめる。可愛らしい少女だ。それが一体全体どうなって『血小板の妖精』を演じることになるのか。

「待て……森の妖精とか、水の妖精とかではなく? 血小板?」
「……ええ」
「何故そんなことになる」
「……とある人間の体を舞台にした、細胞たちの物語。……氷鷹先輩が白血球で、真白くんが赤血球、日々樹先輩がキラーT細胞とマクロファージ」
「……生物の授業の視聴覚教材のような脚本だな」

 コンコン、と手芸部室の扉がノックされる。美雪と宗が目を向けると返事を貰う前に扉が開き、外から紅郎が現れた。

「鬼龍……だから返事を待てとあれほど」
「悪ぃ悪ぃ。……つーか、なんで手なんか繋いでるんだよ」
「ハッ! す、すまない氷室っ……君の許可を得ずに触れてしまった」
「……いえ。私の方こそ、すみません」

 指摘された宗は真っ赤になってすぐさま手を離した。意味深に微笑む紅郎に気づき、「その顔、とても不愉快なのだけれど?」と優位に立とうとする宗に幼馴染は「へいへい」と返した。

「じいちゃんの見舞い。今日の約束だったろ?」
「支度はできたのかね?」
「おうよ。悪ぃな美雪ちゃん。コイツ借りるぜ」

 紅郎は宗の肩に腕を乗せて告げた。宗は「止せ。重い」と言って紅郎の腕から逃れた。気安い距離感は幼馴染のそれだろう。

「……お祖父様。確か、入院されているんですよね」
「ああ。酷い容態ではないのだけれどね。あれはよく喋るし笑い飛ばしてみせるし、何百年と生きそうだ」
「いやそこまでは流石にキツいだろ」

 宗の祖父を知っている紅郎も、彼の祖父がどれだけ豪快で元気が良い人だったかは覚えている。ただしそれは幼少期の記憶で、今も宗の祖父がその状態であるかどうかは断言できない。現に彼は体調が急変し入院しているのだから。

「……私も、御一緒しても良いですか?」
「えっ、き、君が?」
「……駄目?」
「い、いや……駄目というか……」

 彼女にお願いをされてしまうと叶えたくなってしまうのが斎宮宗だった。しかし、祖父の前で宗はいつもの彼ではなくなってしまう。祖父に頭が上がらない様を彼女に見せるのは、宗としては体裁が悪かった。

「……ご挨拶、してはいけませんか? お祖父様ということは、お祖父様が居なければ、貴方は生まれてこなかったということ。先日、子どもの作り方を学びました」
「──ハァッ⁉ こ、こここここ、子どもォッ⁉」
「待ってくれ、美雪ちゃん。つまり今まで……その、子どもの作り方を知らなかったってことで間違いねぇか?」

 純粋すぎる彼女に人の穢れに触れて欲しくなかった宗はショックのあまり顔を青くしていた。彼女を監禁していた兄がどんな人間性なのか宗は知らないが、その気持ちはわからなくはないのかもしれない。危なっかしい、神聖な彼女だ。世の綺麗な部分だけを知っていれば良いのだと、そう思ってしまうのかもしれない。
 頭が痛くなった紅郎は目頭を揉んだ。美雪は二人の仰々しい反応に首を傾げる。

「……教科書の知識はありました。どのように子どもが形作られるのかは理解していました。けれど、入学してから『作る過程』を知らないと指摘される機会があって……この間、七種さんと巴さん、漣さんに教えてもらいました。なぁくんと一緒に」
「巴……ヤツはなんてことをしてくれたんだ! 許すまじfine! サエグサ、サザナミ……この名前もしっかり記憶せねば。覚えたからねっ、まったく余計なことをしてくれる……!」

 宗は忘れない内にと態々手帳にボールペンを走らせた。もう来年度用の手帳を用意しているのは、几帳面な彼らしい。

「……? 知っては、いけないことでしたか? 知らないと困るって、七種さんが言っていました。……私となぁくんは距離が近いから、危ないって」
「知らないと危険だと言うのは頷けるけれど、君には人間の肉欲なんて耳に入れて欲しくはなかったね。それだけで穢れてしまうよ」
「斎宮よぉ……気持ちはわからねぇでもないが、わかっておかないと美雪ちゃんが自分の身を守れねぇだろうが」
「だがねぇ!」

 耳元でキンキンと吠えてくる宗に「わぁーったわぁーった」と適当な返事をした紅郎は手芸部室の壁に掛けられた時計を見て、退出を促す。

「急がねぇと面会時間に間に合わないぞ。美雪ちゃんも一緒に行こうぜ」
「鬼龍! 勝手に決めるんじゃあないよ!」
「嬢ちゃんが会いたいって言ってんだ、その願いを叶えなくてどうすんだよ。お前だってじいちゃんに美雪ちゃんのこと、紹介したいんじゃねぇのか?」

 家族に自分が世話になっている、添い遂げたいと思っている人物を紹介するのは、いずれ通過しなければならない儀礼だろう。特に宗は昔から異質な行動が多く、遠ざけがちな両親や兄弟を叱りつけ宗自身を受け入れてくれたのは他でもない祖父だった。

「うっ……だ、だが、祖父の前だと僕は……」
「今更なんじゃねーの? 美雪ちゃんは春からお前らの傍に居たんだから、お前の駄目なところだって見てきてるはずだ。情けないお前のことだって、ちゃ〜んと見てんだよ。な?」

 紅郎が美雪に問うと、美雪は平然と頷いた。

「……ええ。見苦しい姿ははじめて顔を合わせたときから見ています」
「み、見苦しい……⁉」
「……だって貴方、追いかけてくるし、度が過ぎた行動もしますし、すぐ褒めるし」
「え、褒めるのは良くないかっ?」

 次々とあげられる彼女が見苦しいと感じている自身の行動に、宗はギョッと目を剥いた。美雪は長い睫毛を伏せて小さなため息を吐く。

「……何度も言ってますけど、私は舞台上の、俗物を見下す貴方が好きなんです」
「くっ、舞台上の僕め……氷室にそこまで想われているとは、なんて羨ましい……」
「自分自身に嫉妬するってのも奇妙な光景だな。というか美雪ちゃん……好みが随分、極端だな」

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