03

 アイドル科の制服はアイドル科の生徒のために作られた特別なものだ。アイドル科の生徒以外に支給されることはなく、夢ノ咲学院の他の科の生徒と区別される。
 空色の制服はとても目立つが空色の制服ばかりの中に異色があれば、そちらの方が際立つ。

 音楽科の生徒・氷室美雪は再びアイドル科に訪れていた。
 先日、守沢千秋のお陰で無事手元に戻って来たヴァイオリンを背負って廊下に立ち尽くしていた。

 美雪は今日こそ敬愛すべき相手と真っ当な対談をするつもりだった。
 彼女の敬愛する人物とは他でもない、斎宮宗である。
 美雪はかつてのValkyrieを愛し、今のValkyrieに不満を持っていた。
 活動の縮小。輝かしい舞台から消え、今では地下アイドルのように細々と歌い、舞っていることは、美雪の耳にも入っていた。

 美雪は斎宮宗の為に手助けをしようとしていた。
 それは去年からの彼女の物語だが、その話はまた別の機会に。

「おやあ?」

 廊下のど真ん中を陣取っている美雪を見つけたのはソロ活動をしている三毛縞斑だった。斑はつい先日、教室で彼女を見かけていたため覚えていた。女には目が無い羽風薫が『美少女』と謳い、『ヴィーナスちゃん』と渾名した麗しの乙女を忘れるはずもなかった。

「この間ぶりだなあ! 確か、氷室さん、と言ったか。下の名前も教えてくれると有難い。俺は人を下の名前で呼ぶのが好きなものでなあ。ああ、そうだ。俺は三毛縞斑という。人に名を尋ねるときは自分から名乗らなくてはな。……で、君は?」
「……美雪、です」
「美雪さん! 美雪さんかあ、良い名前だ」
「……そうでしょうか」

 しんしんと降る雪のように、静かな話し方をする娘だ。斑は乙女を上から下までじっくりと眺めながら考えた。にっこり笑って背骨を曲げ、視線を合わせるようにして話しかけた本題に入る。

「大丈夫か? おっと、こういうときは『大丈夫?』と尋ねない方が良いんだったか。一大事の相手に大丈夫か否かを質問をするのは好ましくないらしい。質問を変えよう。美雪さん、君は今、何か困っているのかな?」
「困って……そうですね、困っています」
「そうか。俺は力になれそうか?」
「……場合によっては」

 美雪の受け答えに斑は目を丸くした。先日、宗と鬼ごっこをして窓に足を掛け、今にも飛び出そうとしていた乙女が、とても冷静に受け答えをしていることに面食らったのだ。印象とやや異なる彼女の姿を間近で見た斑は、

(成る程。これが彼女の素なのだろうか。あのときは気が動転していたと考えるのが賢明か。宗さんはせっかちだからなあ)

と自己完結する。
 美雪は斑をじっと見たままで、続きの言葉を発する様子が見受けられない。斑は痺れを切らして尋ねる。

「では、一度俺に話してみないか? 場合によっては力になれるのであれば、その確率に賭けてみようじゃあないか!」
「……わかりました」
「ようし! ママになあんでも話してご覧なさい!」
「……道に迷いました」
「……ほう? 道に?」

 ドン、と胸を叩いて自分を頼るように言った斑は、美雪の返答を一度飲み込んで、確認をする。美雪が『ママ』という単語に戸惑っている様子はなかったが、彼女の話し方の癖なのか、返事に時差があるように感じた。

「……ええ。此処にあまり来ないのもありますけど、私はどうも、道に迷いやすい体質のようで」
「体質。それはまた、珍しいなあ」
「……そうなんですか?」
「ふうむ。俺を含めてアイドル科は癖の強い連中が多いからなあ。探せば似たような体質のアイドルも、もしかしたらいるかもしれないぞお。……して、迷っているというが、美雪さんには何処か目的地があったのかな? それが、場合によっては力になれるという部分なのではないかあ?」
「……はい。……Valkyrieの使っているお部屋に行きたくて」
「Valkyrieの使っているお部屋……それは、レッスン室ということか?」
「……レッスン室というのを今彼らが使っているのであれば、そこになるかと。……けど彼らは今、あまり活動をしていないと言います。……レッスン室以外にもし使っている場所があるのなら、そちらに行きたいです。とどのつまり、私は斎宮宗……斎宮先輩が居る場所に行きたいのです。彼に話があるので」

 思いのほかハキハキと話した美雪に、斑は再び驚かされた。彼女は浮世離れしているように見えて、芯が見える部分がある。彼女という人間を知っていくのは面白そうだ、と斑はにっと笑った。

「宗さんの所へなら俺が案内しよう。なあに、心配御無用! あらかたの見当はついているからなあ」
「……ありがとうございます」

 斑は「こっちだ」と言って美雪を宗の元まで案内しようと歩き始める。美雪と彼の脚の長さ、歩幅は親子のように違う。斑は美雪の歩調に合わせて歩くことにした。

「つかぬ事を聞くようだが……宗さんとは二人きりで話すつもりなのか?」
「……? ……いえ。三毛縞先輩も一緒のつもりでした」
「……俺もなのか?」
「……駄目でしたか?」
「いや、てっきり宗さんのところまで送り届けるのが任務なのかと思っていてな。この間の様子を見る限り、君を前にした宗さんは明らかに冷静さを欠いていたから心配したんだが……その話というのは、俺に聞かれても良い話なのか?」
「……この前、守沢先輩も聞いていましたから。……あの人は、斎宮先輩はどうやら、私と二人になると、その……目も当てられない姿になられるので」

 きゅっと眉を顰めた美雪の顔を覗き込んだ斑は、思わず「そういう顔も可愛いんだな」と呟いていた。美雪は斑を見上げると、「……ありがとうございます?」と不思議そうに言った。

「しかし、君は運が良いな」
「……何故ですか?」
「千秋さんは真面目だからなあ。君と何を話していたのか尋ねようとした同級生を悉く跳ねのけていたぞお?」
「……人を選びましたから」
「……そう言えば、『ヒーローだから』と言っていたな。君は流星隊が好きなのか?」
「好き……一番ではありませんけど、輝いて見えるアイドルは、沢山います。……流星隊もその一つで、彼は、流星レッドはきっと、約束を守ってくれる人だと思いました。……でも、私も斎宮先輩も、他言無用と言った覚えはありません。……そもそも先日は真面な対談になりませんでした。だから、大したことは話していないんです」
「それでも、流石は流星レッドだなあ」

 斑はうんうん、と満足気に頷いた。
 千秋は二人に言われるまでもなく、二人の会話の内容を話すべきではないと判断したのだろう。自分が口を軽くすることで何か災いが起こってはいけないと思っているのかもしれない。

 階段を上り終えて暫く歩くと、手芸部と書かれたプレートが見えてくる。
 斑は立ち止まって最終確認をするように美雪と目を合わせた。

「さて、美雪さん。此処が宗さんの根城になっている手芸部室だ。宗さんは此処に居ることが多いが、部員は宗さん以外にもいる。つまり、部室内には宗さん以外の人も居る可能性があるということなんだが、大丈夫だろうか? 勿論、中に居る人によっては場所を移すことも検討するべきだと俺は思うぞお。千秋さんに口止めしなかったというが、君は人を選んだと言った。俺のことも信用して、立ち会いを許可してくれたのだと解釈している。聞かれると不味い話というのもあるんじゃあないか? 本当は関係者以外立ち入り禁止、なんて看板を打ち付けておきたいくらいに」
「……はい、そうですね」

 斑の真剣な眼差しに狼狽えることなく、美雪は一度目を伏せて扉を見つめた。その奥に宗がいる、と考えているのだろうか。彼女と宗の関係はなんだろうか。遠回しに「これから聞くかもしれない内容は他言無用であること」を伝えられた斑の頭の中では、幾つもの疑問が渦を巻いていた。

「……誰がいると思いますか?」
「ん? そうだなあ……みかさんとか、つむぎさんだろうか」
「……影片先輩。つむぎは、fineの……今は、Switchだっけ」

 斑はぽつりと呟く美雪を見下ろす。彼女はアイドル科の生徒に詳しいようだ。

「……青葉先輩には、聞かれたくないかも」
「そうか」
「……でも、影片先輩は、居て良いです。……寧ろ、居て欲しいかもしれない。……私が話したいのはValkyrieについてだから。彼は当事者で、私より余程関係者だから」
「わかった。じゃあ、つむぎさんが居たら場所を変えよう。みかさんが居たら、話に参加して貰おう。両方とも居たら、みかさんを誘って場所を変える。そしてみかさんが居るなら、俺は席を外す。宗さんと二人きりじゃなくなるなら、三人目はValkyrieの部外者の俺よりみかさんの方が適している。……それで良いか?」
「はい」

 斑がいくつかのパターンを想定して伝えると、美雪はこくりと頷いた。斑も頷き返し、手芸部室のドアノブに手を掛け、反対の手でノックをしてから捻った。

 美雪は斑の背中越しに部室を覗き込む。
 中にはトルソーが五体ほどあるだろうか。机の上にはミシンや釦、糸、布と言った、手芸部になくてはならない物があちこちに散らばっていて、不規則な模様を描いているようだった。窓から差し込んでくる光は橙。夕焼けを背負った宗は、美雪がはじめて彼を見たときと同じ。手元の臙脂色の絹を鋭い眼で見つめる姿は、さながら彫刻だった。
 美雪の内が熱くなる。彼女は思わず、感嘆の息を漏らしていた。

(私の、一番のアイドル。私に音楽を、芸術を与えてくれた、神様みたいな人)

 美雪が部屋に入らず茫然と、芸術作品を見る様にしていると、先に部屋に入った斑が「美雪さん?」と声をかけた。集中していた宗は物音と斑の無駄に大きな声に舌打ちをして顔を上げる。

「五月蠅いぞ三毛縞。一体何の用、」

 布と針を机上に落ち着けた宗は、斑の後ろに立つ乙女に気づいて椅子から立ち上がった。先程まで鋭かった瞳をキラキラさせている。

「氷室! 氷室じゃあないか!」
「……」

 美雪も一転。すとん、と表情を暗くして、やや肩を落としているように斑には見えた。

「影片! 今すぐ机の上を片付けたまえ!」
「え、え〜? でも、散らかしたのお師さんやで? 俺やないのにぃ」
「つべこべ言わずに手を動かさないか! 僕が操ってやらないと動けない鈍間め!」
「ん、んあ〜。今日も機嫌悪いなぁ……」
「僕が不機嫌だと? ノン、僕はこの上なく有頂天なのだよ! 何故なら今日、僕の城に、氷室が来てくれたのだから!」
「……氷室?」

 部室内に居るのは宗とみかだけのようだった。他の部員の姿は見当たらない。斑は、「これなら自分が席を外すだけで済みそうだ」と、少しばかり残念に思っていた。彼女と宗の話を耳にしたい気持ちが完全になかったとは言えない。

 みかは聞き覚えのない苗字に目を丸くして、扉の外を覗き込んだ。みかは色の違う瞳をキラキラさせて「うわぁ……お人形さんみたいな女の子やねぇ」とはしゃぎ始める。

「影片。当たり前のことを言っていないでさっさとしないか」
「あ、うん。わかったぁ」
「お茶をご用意しよう、氷室。好みの茶葉はあるか?」
「……いえ、結構です」
「そう言うな。僕のおもてなしを受けてくれると嬉しい。麗しい君にお茶の一つも用意しないなんて、僕の心が傷ついてしまう」
「……では、ニルギリを」
「おお、青い山か。渋みの少ない紅茶だな、僕も好きだよ。……ところで、三毛縞はいつまで此処に居座るつもりだ?」

 宗の表情は話しかける相手に応じてコロコロと変わった。美雪と話している最中は普段の彼に見合わないくらいに甘ったるい表情にも関わらず、斑とみかに話しかけるときは眉間に皺を寄せている。
 宗に睨まれた斑は「心配しなくても今出て行くところだぞお」とあっけらかんと言う。

「俺は美雪さんに案内を頼まれただけだからなあ。これにてお暇させてもらうさ」

 斑は美雪にウインクをして、手芸部室内の三人に軽く手を振ってから姿を消した。
 それを見届けた宗は今度こそ、美雪のリクエストのニルギリを淹れに行った。みかは宗に言われたとおりに布たちを退けていく。美雪は手芸部室を見渡して、床に落ちていた青いボビンを拾い、机の上に置いた。

「すまない、待たせた」
「……いえ。ありがとうございます」
「わぁ、ええ香りやね〜♪」
「ふん、嗅覚は確かなようだな。どんな茶葉に対しても言うんじゃあないよ、品位が疑われる」
「そーお? ええお茶っ葉は皆ええんやない?」
「能天気め……」

 宗は用意したティーカップをみかと美雪、そして自分の前に置くと椅子に座った。みかも近くの椅子に肩を狭くして座り、美雪も「失礼」と言って宗の斜め前に腰掛けた。

「……改めまして、氷室美雪と申します。夢ノ咲学院音楽科の一年生です」
「君が自己紹介をするのであれば僕もしよう。名乗る相手を前にお返しをしないのは不躾だからね。僕は斎宮宗。アイドル科の三年生だ。先日は君の話を碌に聞かず、己の欲望のままに行動し君を怖がらせてしまってすまなかった。反省している」
「……え、お師さん何したん?」

 みかはぎょっとして宗を見るが、宗は「君は黙っていたまえ。お口をチャックなのだよ。……ああ、彼は二年の影片だ」と言って目を合わせない。みかは仕方なく、お行儀よく椅子に座り直すことにして、前に座る美雪を改めて見つめ直した。
 背筋を真っ直ぐ伸ばして、真っ直ぐにValkyrieの二人を見据える彼女は、怖いくらいに精巧な見た目をしていた。みかは、宗が気に入るはずだ、と思わずには居られなかった。

 博物館のガラスケースに厳重に保管され、愛されている人形のような少女だ。肌は白く、陶器のように滑らかだった。長い睫毛に縁取られた瞳は透き通るガラス玉のようで、光を帯びてキラキラと虹色に輝いているようで、みかはもしそれが本当にガラス玉だったら、宝箱の中に大切に仕舞っておくだろうと思った。

「……先日はお話ができなかったので、改めてご挨拶をと」
「んと、挨拶ってのは……?」
「影片……縫い付けようか、その口」
「んああっ、御免なさい……」
「……いえ、喋っていただいて結構です。私はValkyrieと話しに来たのです」

 美雪は真っ直ぐに二人のアイドルを見据える。

「……私は一年と半年ほど前から作曲家として活動しております」
「ほう。つまり、十四歳の時点で作曲を? 素晴らしい才能だ」
「……どうでしょう、モーツァルトは五歳で曲を作ったと言われておりますから。それと、厳密には十三です。私は早生まれなので」

 美雪は静かにティーカップを取り、ニルギリを口に含んだ。その所作は丁寧で、宗は「ほぅ」と感嘆の息を漏らした。みかも見様見真似でやってみようと思ったが、諦めて後で宗に怒られることを想定しながらちびちびと飲んだ。

「……私は幼少期から音楽に触れてはおりますが、作曲を本格的に始めたのはつい最近の話ですので、素人も同然です」
「芸術を人と比べると疲れるよ。君には君の美しさがあるのだから。何にも負けない、美しさが」

 同じく芸術家である月永レオと芸術談をすると取っ組み合いの喧嘩になってしまったことも過去にあったが、宗は自分の芸術以外を認めない程の頑固者でも、愚か者でもない。それにしても、宗にしては珍しく柔らかい表現をするものだ、とみかは大人しくしながら思っていた。宗が懐に入れたものや気に入ったものに対して、とことん優しくなることはみかもわかっていたが、目は口程に物を言う。みかの左右で色の違う瞳はせわしなく動いていた。
 宗は額を抑えて項垂れる。

「ああ、だが残念だ。自らが作った曲を歌い舞っている者も中にはいるがね。君のような宝石が居たとしたら、すぐにでも僕の耳に入っているはずだ。君は表立った場には立たないということか」
「……純粋に曲を聴いて欲しいので」
「嗚呼、残念でならないよッ……僕なら君を最高に美しく飾り付けることができるのに!」
「……それでは貴方が裏方になるのでは?」
「それもまた良い経験さ。後ろに行くことでわかることもあるだろうからね。……ああ、すまない。話を逸らしてしまった。作曲の話だったか」
「……ええ。軌道修正ありがとうございます」

 美雪は目を伏せてニルギリの入ったティーカップをソーサーに落ち着けた。
 桜色の唇を薄く開く。

「……私は作曲をしているとき、ペンネームを使っているのですが」
「本名ではやっていないのか」
「……私にとって名前は、あまり意味を持たないので」
(ペンネームって……芸能人が使う、芸名みたいなもんやっけ。漫画家さんとかも使う……)

 みかは宗に命令された通りに喋らず、頭を動かして考えていた。

「して、その名前は?」
「……名波哥夏と言います」
「…………名波?」

 宗はピクリと反応すると、顎に手を当てて表情をコロコロと変化させた。高揚した赤い顔から、サァっと冷めた青い顔。混ざって紫の顔色になったかと思いきや、緑色になった。みかは宗の体調が突然悪化したのではないかと慌てたが、よろめきながら立ち上がった宗に静止される。

「名波……そうか、君が」

 宗は痛む頭を振って、美雪を、作曲家を見つめた。
 氷室美雪の瞳は、名波哥夏の瞳は、恐ろしいくらいに澄んでいた。

「君が、僕たちの作曲家か」
「……ええ。そうなりますね」
「……え、えっ?」
「ですが、Valkyrieの全ての楽曲を作成しているわけではありません。初期の曲は、他の作曲家に遅れを取りましたから」
「…………えっ、と? お師さん? ごめん、おれ頭悪すぎて話が見えてないわぁ」
「数少ない君の美点である瞳は節穴かね」

 宗はみかを睨んで「嘆かわしい」と吐く。美雪は揺らめく紅茶の波紋を観察して、二人の動向を気にしている様子はない。みかは美雪を見たり、宗を見たりしながら「ごめんなぁ」と困ったように笑った。

「笑って誤魔化すんじゃあないよ、まったく。……仮にもValkyrieの一員なのだから、覚えておくのが筋だろう。名波哥夏は僕たちに曲を提供してくれている作曲家なのだよ」
「……え、ええ! 美雪ちゃんが?」
「馴れ馴れしく氷室の名を呼ぶんじゃあないッ」
「ん、んああ、ごめん……」
「フン……とはいえ、僕たちはご存知のとおり、現在は活動を縮小している状態だ。君の……名波哥夏の曲を満足に使えている状態ではない。…………君の曲は、素晴らしい。僕の思考に拍車をかけてくれた。創作意欲に満ち溢れ、溢れかえる程だった。君の曲を聞くだけで、僕の世界は薔薇色になった。だが僕は、…………」

 思い詰めたように口を噤んだ宗を、美雪は何も言わずに見つめている。
 宗はぐっと拳を握り、脱力した。

「すまない、氷室。僕たちにはもう、君の曲を歌う資格はない。僕では実力不足だ、君が、Valkyrieが失墜する前から、失墜してからも、僕たちを信じて曲を作ってくれているのは痛い程にわかっている」
(そうなんや……再始動したばかりってのもあるけど、なずな兄ぃ居なくなってから、ほんとに数曲しか増やせてないもんなぁ……)

 なずなが声変りをしたことで新曲を出せなくなった以前より、美雪はValkyrieの専属の作曲家として曲を提供し続けていた。去年まで美雪は家に引きこもっていたため、教師である椚章臣を経由して、美雪の曲が届けられていた。美雪は今年から夢ノ咲に入学したことで、直接章臣に曲を渡しにやってきている。

 美雪は目を伏せて細く息を吐いた。

「……去年の事件が、貴方には深く響いているのですね。不協和音として、歪んだまま。……成る程、納得が行きました」
「……納得?」
「……私の曲が、Valkyrieに相応しくないと見放されたのではないかと思っていました」
「まさか。そんなはずがない」
「……長く使われないと、そう思ってしまうのですよ。私たちは直接やり取りをしたことはないでしょう。私はいつも椚先生にすべて任せていましたから、貴方が何を考えて、何を求めているのか、何一つわからないでいた」

 美雪はティーカップの中身を空にした。宗がそれに気づき、「おかわりは要るか?」と静かに尋ねると、美雪も静かに「結構です、ありがとう」と答える。

「……今まで送った曲は、必要がないようであれば全て破り捨てていただいて構いません。暖炉の火の足しにくらいはなるでしょう」
「何を言う。そんなことはしない」
「使われない曲に価値はない。アイドルに選ばれなかった、それだけで私の曲は塵屑同然なのです」

 宗は、名波哥夏という作曲家と今の今まで会った試しがなかった。ただ初めて彼女の曲を手にしたとき、体全身から汗が吹き出し、高熱に魘されているのではないかというくらいに頭から沸騰した。これだ、この曲だ、と。宗は魂から感じた。

 それから宗は彼女の曲を好んで使うようになり、他の作曲家の曲を使わなくなった。それが密に思いを寄せている名波哥夏、本名氷室美雪の心を満たしていたのは言うまでもない。美雪は敬愛する宗に曲を授けることが、何よりの幸福だった。

 二人は出会うまでもなく、音楽と芸術で繋がっていた。

 宗が名波哥夏の曲を使えなくなった時期は随分長かった。
 なずなの声変り。美雪はそれを知らず、宗が曲を増やさないことに疑問を抱いていたが、やがて例の事件が起こり、Valkyrieが頂点から堕ちたことを知る。そして宗は塞ぎ込み、学年が変わって漸く再生しつつあるところだった。そこでなずな不在の、宗とみか二人だけの曲がほんの数曲だけ増えることになった。

 美雪は膝に両手を重ねて置き、姿勢を正す。

「これからは、貴方たちと対話をしたい。私にValkyrie復活の手助けをさせて貰えないかと思い、此処に参りました」

prev

next