04

 ゴールデンウイークも明けたある日のこと。
 深海奏汰は夢ノ咲学院の噴水でくつろいで、制服のシャツもズボンも着たまま漬かっていた。

「ぷか……ぷか……♪」

 空を仰いだ奏汰は、水に浮かびながら歌うように呟く。あたたかい春の日差しの中、ひんやりとした水に包まれる。奏汰が腕を動かすと水面が揺れた。そのまま噴水の中を背泳ぎし始める。円形の形に沿いながら、頭をぶつけないように、池の中の鯉のように。

「わっ……ぷ。……ふふっ」

 噴水の出方が変わった。此処の噴水は時刻を示す為に、長針がゼロに来ると勢いよく水を吐き出すようになる。奏汰は顔面から喰らった。しかしそれは奏汰にとっては不快なものではなく、水と戯れることができた奏汰はクスクス笑って、顔を水の中に沈めた。目を開けると、揺れる水面と太陽の光がぼんやりと奏汰の視界に入り込む。これが魚の目線なのだろう。

(……おや? だれかが、みていますね。こちらをじいっと。『すいぞくかん』のなかまたちは、みんな、こんな『きぶん』なんでしょうか……)

 影が差し込んだことで、奏汰は違和感に気が付いた。誰かが噴水を覗き込んで、奏汰を観察しているらしい。奏汰はざぶん、と起き上がって、それが何なのかを見てみることにした。

「……」
「……」

 噴水で泳ぐ奏汰を観察していたのは、氷室美雪だった。
 見つめ合う二人は互いに動かない。動いているのは、奏汰の髪から滴る水だけ。

 奏汰は手を伸ばして美雪に触れてみようとした。美雪は奏汰の手を避けることなく受け入れ、奏汰の手は美雪の頬に触れる。

「わぁ……」
「……?」
「やわらかい、ですね……」

 奏汰は美雪の頬に指を差して、弾力を確かめていた。美雪は何も言わずに、されるがままになっている。

「あなたは、にんぎょひめさんですか?」
「人魚? ……いいえ、違います」
「じゃあ、てんにょさま?」
「……いいえ」
「あれれ。てっきり、『ひと』じゃあないんだと、おもいました」
「……たぶん、人です」
「たぶん? 『じしん』が、ないんですか?」
「……ええ。自分が何処で生まれたのか、よくわかっていないんです」
「そうなんですね。そういうことも、ありますね」

 奏汰はふんわりと笑って美雪から手を離した。濡れている奏汰の手に触れられたことで、美雪の頬には雫が残っている。美雪はぴと、と自分の頬に触れてみた。奏汰にされたように指を優しく突き刺してみる。

「……深海先輩は、此処で何を?」
「……ん、あれ? ぼくは、あなたに『なまえ』を、おしえましたか?」
「……いえ。私が知っていたんです」
「おやあ、そうなんですね。ぼくのことをしってくれていたんですね。ぼくはいま、およいでいました。おさかなさんのきもちになっていたんです。ぷか、ぷか……♪ みずにうかぶのは、とてもきもちいいですよ」

 美雪は噴水を見上げて、それから浸かっている奏汰をまじまじと見た。

「噴水って……泳ぐ場所なんですか?」
「うふふ、ほんとは、およいじゃいけないらしいんです」
「……何故でしょう」
「さあ? 『みんなのもの』だから、『めいわく』だから、『かぜをひく』から、っていわれたことはあります。でもぼくも、どうしてしちゃいけないのかわからなくて、おみずがきもちいいので、いつもやってしまいます」
「……やってはいけないこと、なんですね」
「そうらしいです。『じょうしきてき』には」
「常識……」

 美雪はじっと水を見下ろした。丸い目で純粋に、幼稚園児のように観察をしている。噴水の水の中には、散った葉が浮かんでいた。月に一度掃除されるが、水が循環している噴水の中にも汚れは溜まっていく。水槽と同じだ。

「……もしかしたら、衛生的に良くないのかも」
「『えいせい』、ですか?」
「……はい。黴菌が体の中に入ってしまうのかも」
「……なるほどぉ。それは、たしかに。かんがえたこと、なかったです」
「……やめちゃいますか?」
「いいえ〜? やめないです。きもちいいので。それに、ついこのあいだ、この『ふんすい』は『おそうじ』してもらったんですよ、『ぎょうしゃ』さんに。だからきっと、だいじょうぶです。いっしょに、ぷか、ぷか、しませんか?」
「……私も? 良いんですか?」
「あなたが、よければ」

 奏汰に誘われた美雪は唖然とする。奏汰は微笑みを浮かべたままだった。

「うふふ、はいりたそうに、しているとおもったんです」
「でも……着替えが無いです。タオルも」
「なくても『へいき』ですよ。『しんぱい』なら、『けいたい』さんを濡らさないようにしておけばいいんです。『たんのう』したあとに、『しりあい』をよべばいいんですよ」
「知り合い……」

 美雪はアイドル科にいる知り合いを思い浮かべる。
 美雪にとって知り合いと呼べるのは斎宮宗と影片みかと、守沢千秋、三毛縞斑くらいだ。しかもその四人のうち、連絡先を交換できている人は誰一人として居ない。そもそも美雪が携帯電話、すなわちスマートフォンを持ったのは四月からだった。まだ操作になれておらず、登録してある電話番号は椚章臣と、家の人間のものだけだった。

 章臣に「噴水で水遊びをしたからタオルと着替えをください」なんて言えばどうなるだろうか。きっと怒ってネチネチと文句を言われる。そう思った美雪は、噴水に入るのは賢明ではないように思えた。

 しかし、奏汰に言われたとおり、噴水に入るという行為に惹かれているのは事実だった。美雪は今にでも噴水に入ってみたい、と考えている。靴も靴下も脱いで、せめて足だけ。

「……じゃあ、足だけでも良いですか?」
「ええ。どうぞ」

 そう考えた美雪はローファーを脱いで、スクールソックスに指を引っ掛けて引っ張り、綺麗に丸めてローファーの中に突っ込んだ。背中のヴァイオリンはローファーのすぐ隣に。その様子を、奏汰はにこにこ眺める。

 縁石に腰を下ろし、ちゃぷ、と爪先を水に入れてみた美雪は、その冷たさに足を引っ込めた。奏汰がくすくす笑って、美雪の爪先を掴んだ。水に引きずり込もうとしている妖怪のようで、美雪はびくっと震えた。

「つめたくて、きもちいいでしょう?」
「……はい」

 美雪は奏汰に導かれるまま、足を水に浸けた。足を動かすと、それに合わせて水が動く。ぱしゃん、と跳ね上げると、水も跳ね上がった。

「……足湯って、こんな感じでしょうか」
「もっと『あたたかい』ですよ。ぼくは『やけど』しちゃうので、はいらないようにしてますけど」
「火傷……? 深海先輩は、お湯で火傷をしてしまうんですか? それとも、足湯のお湯は灼熱なんですか?」
「ぼくの『ひふ』が『よわい』んでしょうね……『ふつうのひと』は、『おふろ』にはいるでしょう? あれはぼくには、あつすぎるんです」
「そうなんですか……」
「おーい、奏汰〜! 氷室〜!」
「んん?」

 カンカン照りの突き抜けるような声。
 美雪が振り返り、奏汰が顔を上げると、二人の視線の先には千秋が立っていた。

「あ。ちあき〜♪」
「また噴水に入っていたんだな……怒られてしまうぞ。ほら、バスタオルを持ってきたから上がるんだ。氷室を無理矢理誘ったんだろう?」
「氷室……?」

 奏汰は頭の触覚をぴょいん、と動かして首を傾げる。美雪はどうやって動かしているのか原理がわからずに茫然と奏汰の触覚を見つめるが、はっとして口を開く。

「……あ、私の名前です」
「ああ……あなたの『なまえ』ですか。『じこしょうかい』をしていませんでしたね……ぼくの『なまえ』をしっていたみたいだから、てっきりぼくも、あなたの『なまえ』をしっている『きぶん』になってしまいました……ごめんなさい」
「……いいえ。私も名乗らず、御免なさい。氷室美雪と言います。音楽科の一年生です」
「『おんがくか』……そういえば、『せいふく』が違いますね〜?」
「今気が付いたのか……」

 二人のふわふわした会話を聞いた千秋は、そのテンポの遅さに脇が痒くなってきた。これがテープだったら今すぐにでも巻いていただろう。一・五倍速になったとしても、この二人の会話の内容は問題なく聞き取ることができるに違いない。
 タオルを抱えた千秋は水からあがる気がなさそうな奏汰を置いて、一先ず美雪を救出しようと考えた。膝を折って、持ってきたバスタオルを美雪に差し出す。

「すまないな、氷室。奏汰の趣味に付き合わせてしまって」
「ちがいますよ〜。かのじょが、はいりたそうにしていたんです」
「え、噴水に? 入りたかったのか?」
「……噴水に人が入っているのを、はじめて見たので」
「そ、そうだろうな……?」
「……入ったら、どんな気持ちになるかな、と思って」
「……う、ううむ。そうか」

 千秋はバスタオルをゆっくり受け取った美雪の言葉に唸る。千秋の困惑をそっちのけで、美雪は噴水から足を抜き、縁石の上にタオルを敷いて水滴を拭き始めた。

「……タオル、ありがとうございました」
「なに、気にするな。いつものことだからな」
「いつも……では今度、泳いでみても良いですか?」
「はあっ⁉」
「いいですよ〜♪」
「い、いや。いやいや待て。何故だ? そんなに噴水遊びを気に入ったのか?」
「うれしいですね〜♪」
「そりゃあ、奏汰は嬉しいかもしれないがなぁ……?」
「……何事も、経験かと」
「真面目なのか好奇心旺盛なのかわからないな、君は」

 美雪は足を拭き終わると、タオルを千秋に渡した。千秋は気にする素振りを見せずに受け取る。美雪は縁石から足を下ろし、地面に置いたローファーに指を引っ掛け、履くことはせずに立ち上がった。

「靴は履かないのか?」
「……地面を、裸足で歩いたことがないと思って」
「裸足じゃない方が良いと思うぞ? 怪我をしてしまうかもしれない」
「怪我……こけるってことですか? 靴がないと?」
「いや、危ないものが落ちているかもしれない。ガラスの破片とか、ミシン針とか。踏んだら傷がついてしまうだろう?」
「傷……」

 美雪はぺた、ぺたと歩む。噴水の周りの地面はタイルになっているため、雨の日は滑りやすい。今日は晴れているためその心配はなさそうだ。美雪は丸タイルを一つ一つ、スキップをするように踏んでいく。

「……ツルツルしています」
「そうだろうな。あまり褒められたことではないが、廊下を裸足で歩くのも楽しいぞ。ひんやりしていて」
「ちあき、そんなことをしてるんですか……?」
「ち、違うぞ? いつもしているわけではないっ。その……前に、ちょっとやってみたくなってだな……」
「……いつもしないことって、特別ですから」

 美雪はタイルの円を爪先でなぞる。その姿を見た千秋は、バレリーナのようだと思った。奏汰は、海月の踊りだと思った。
 美雪は雪のように静かに言う。

「『やったことがないこと』をすると、『本当はしてはいけないこと』をすると、それはとても、刺激をくれる。刺激は経験、経験は音楽。私たちは、音楽がないと、死んでしまうから」

 美雪はタイルから顔をあげると、「……廊下、歩いてきます」と言ってローファーも靴下も履かないまま去ってしまった。

「……思いの外、不思議な子だった」
「そうですか〜? 『いいこ』そうでしたね」
「……あ。氷室ー! ヴァイオリン忘れてるぞー! ……もう行ってしまったか」
「だいじょうぶ。ぼくが、みていてあげます」
「おお、そうか! では俺はそろそろ部活に戻る! 頼んだぞ、ブルー!」
「りょ〜かい、『たいちょう』〜♪」

***

 ひた、ひた。
 美雪は千秋の言葉とおり、裸足で廊下を歩いていた。怪我をしてしまうかもしれないと言われたが、美雪にとってこの経験は、何にも代えられない刺激となるだろう。万が一、足の裏に画鋲が刺さったとしても、美雪はその痛みすら音楽に変えることができる。怪我をするのも、経験の一つだ。

 冷たい水に足を入れて蹴とばす感覚。
 日が照るタイルの上を爪先でなぞる感覚。
 ひんやりとした地面にくっついたり離れたりする感覚。

 その全ての違いを、美雪は足裏から拾っていた。

 美雪が歩く先に、何か煌めくものがあった。美雪はそれに気づいていながら避けることはせず、思いっきり足を踏み出し、それを踏み込んだ。

 つるん。
 球体の形をしていたそれは、美雪を滑らせた。美雪は後ろに反って、尻もちをついた。

 どしん。
 重い感覚。硬い地面に腰を打ちつけると、じんじんとした感覚が広がる。
 痛い、と美雪は思ったが、泣かなかった。

「あー! あったー!」

 大きな声は廊下の先の方からした。美雪が顔を上げると、橙色の髪の毛をした男の子が地面にしゃがみ込んで、丸いキラキラしたものを拾い上げていた。美雪が踏んだせいで、男の子の元に転がって行ったらしい『それ』の正体は、どうやらビー玉だったらしい。

「無くしたかと思ったよ〜……あ、あんず! みてみて、ビー玉あった!」
(……おんなのこ?)

 男の子は拾ったビー玉を、後ろに駆け寄って来た茶髪の女の子に見せた。
 美雪は、アイドル科の制服を身に着けている女子生徒をはじめて見た。

 茶髪の女の子は尻もちをついている美雪に気づいたらしい。男の子の肩を叩いて美雪の方を指さす。男の子は瞳を大きくして、美雪に駆け寄ってくる。

「わー、君、大丈夫? すっごい可愛いね! キラキラしてる! あ、もしかして、俺のビー玉で滑っちゃった? ごめんね〜……って裸足? なんで靴履いてないの? あ、でもなんかわかるかも〜♪ 廊下を裸足で歩くのって気持ち良いよね! ……え、怪我する? もー、細かいなぁ、あんずは。ホッケ〜に似て来たんじゃない? ……はーい、気をつけながら歩きまーす」

 橙色の髪の男の子は美雪に手を差し出して「立てる?」と聞く。美雪は頷いて手を取り、立ち上がった。美雪はじっと『あんず』と呼ばれた女の子を見つめる。美雪の透き通る瞳に目を奪われたあんずは、鼻息を荒くして男の子の肩をバシバシ叩いた。

「うわっ、え、何、あんず。痛いんだけど……ああ、確かに、すっごく可愛いけど、それさっき俺が言ったし、此処はアイドル科だし、すっごい可愛いけど、そんなに珍しいことじゃあないんじゃ……え? 女の子? 制服も違う? …………わ、わー! ほんとだ! じゃあ君、外から来たの?」
「外……はい。私は音楽科で」
「音楽科! そうなんだぁ。あ、俺、明星スバル! こっちはプロデューサーのあんず!」
「……プロデューサー。だから、女の子なんですか?」

 美雪が尋ねると、あんずはこくこく頷く。
 プロデュース科は現在テストを行っており、その第一号があんずであることを説明された美雪は「成る程」と納得した。

「……申し遅れました、私は一年生の氷室美雪と言います」
「美雪か、よろしくね!」
「……はい、よろしくお願いします。明星先輩、あんず先輩」

 美雪が「先輩」と言うとスバルは目を丸くする。
 スバルとあんずはレッスン室に向かう最中だった。スバルはレッスン用の服と靴を着ていたため、ネクタイや上履きの色で学年を判断することはできない。

「え、俺達が二年生って、なんでわかったの? 言ってないよね?」
「……Trickstarは二年生のユニットですよね? 明星先輩が呼び捨てだったので、あんず先輩も二年生だと思いました。あと、あんず先輩は青いジャージなので」
「へぇ〜! 俺達も他の科に知られるほど、有名になったってことなのかなっ、あんず!」

 スバルは嬉しそうにあんずに飛びついた。あんずはなんとかそれを受け止めて、美雪に「そろそろローファーを履いたらどうか」と進言する。
 美雪は指に引っ掛けたローファーを見下ろして「そうします」と静かに言うと、丸めたソックスを取り出して履き始めた。あんずは慌ててスバルの目を覆う。見せてはいけないもののような気がしたのだ。視界を奪われたスバルは「え、なになに〜? 『だーれだ』なんてやってもわかっちゃうよ〜……あんず!」と一人で遊んでいる。

「……私、そろそろ戻ります」
「そっか! じゃあね、美雪!」
「はい。ではまた」
「……『また』?」

 美雪はくるり、と回ったかと思うと、そのままスバルとあんずに背を向けて歩き始めた。スバルは美雪の言葉に引っかかったが、あんずに促されてレッスン室へと急ぐことにした。

***

「あれ? おかえりなさい、はやかったですね」
「……そうですか?」

 美雪が噴水まで戻ると、奏汰が水に浸かったままヴァイオリンを指さした。

「わすれてましたよ、『う゛ぁいおりん』」
「……忘れてはいません、置いて行ってること、覚えてました」
「そうだったんですね。わすれられてなくて、よかったです。わすれられるのは、『かなしい』ですもんね〜」

 美雪はヴァイオリンケースの前に座ると、がちゃん、と金具を外して蓋をあけた。奏汰は面白そうにのぞき込んでいる。中には勿論ヴァイオリンが鎮座していて、しかし美雪はヴァイオリンに手をつけることはなく、上蓋の、弓が二本掛かっている部分の後ろの隙間。そこに手を伸ばして五線紙を取り出した。縁石の上に置き、風で跳ばないように習字で使うような重しを二つ乗せた。更にペンケースを出して、中から二本の鉛筆を取った。

「……『きょく』を、つくるんですか?」
「……ええ」
「あなたは、『さっきょくか』?」
「……ええ」

 美雪はバナナクリップで簡単に髪を束ねると、二つの重しを五線紙の上と下に置き、二本の鉛筆を左右の手に持った。美雪はス、ス、と流れるように音符を書いていく。奏汰はそれを見て、楽譜のままにメロディを歌ってみた。

「『すてき』ですね、『う゛ぁいおりん』で、ひくんですか?」
「…………」
「……だれかに、うたってもらうんですか?」
「…………」
「……あれ? もしもぉし」
「…………」
「……美雪さぁん?」
「…………」

 手を振っても反応を示さず、五線紙と睨めっこをしている美雪を見た奏汰は、ははぁ、と独りでに理解した。

(しゅうと、にているかもしれませんね……『しゅうちゅう』すると、しばらく『こちら』にはもどれなくなるのかも……)

 奏汰は美雪の邪魔をしないように、しかし彼女に危害を加える者が近づかないように目を見張らせながら、噴水を泳ぐことにした。

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