05

 敬人が空手部の使用する武道場に足を踏み入れたときに目にしたのは、ちくちくと縫物をする鬼龍紅郎と、その傍らでタオルケットに包まれて眠っている美少女だった。

「……これは」
「おう、旦那。相変わらず早いな。神崎はまだ来てないぜ。俺達が早すぎるだけだから、怒らないでやってくれよ」

 昼休みの時間。弁当を食べ終えた敬人が武道場に来たのは、今度の学院祭に向けて紅郎と衣装の相談をしようと思っていたからだった。紅月は二年生の神崎颯馬を合わせた三人のユニット。話し合いの為に一人だけ除け者にすることも出来ず、颯馬もこの場に来ることになっている。真面目な颯馬だが、今回は集合が最後になってしまっているようだ。時計は集合時間の十分以上前を示している為、紅郎の言う通り彼らが早すぎたのだ。

「いや、わかっているが、これは一体……鬼龍。まさかとは思うが、誘拐……」
「するわけねーだろ。保護だ、保護。あらぬ疑いを掛けられたくはねぇな」
「……納得のいく説明が出来るのだろうな」
「当たり前だ」
「失礼する」

 武道場の扉が開かれたかと思うと、礼儀正しくお辞儀をした颯馬が入って来た。先輩二人が既に揃っていることがわかると、颯馬は早足で二人の元に寄って正座をする。相棒の刀を引き抜いて横に構えた。

「すまぬ! 先輩方二人を先に来させ、後輩の我が遅れてくるなど……! 切腹をもってお詫びとする!」
「良い、神崎」
「しかし! ……やや? この『たおるけっと』に包まれているのは……?」

 紅郎の横で眠っている乙女に気づいた颯馬は目を丸くして覗き込んだ。

「今、その説明を旦那にしようとしていたところだ。良いタイミングだったぜ、神崎」
「そうであったか……お心遣い、感謝する」

 颯馬は刀を鞘に戻し、敬人も颯馬同様、腰を落ち着けることにした。紅郎は糸を噛み切ると針刺しに針を戻し、刺繍用具をきちんと片付けてから改めて二人に向き合う。

「俺がこの嬢ちゃんを見つけたのは武道場に来る途中の廊下だったんだが……何が起きたのか、廊下に倒れていてな」
「倒れていた……?」
「それは、穏やかではない話であるな」

 眉を顰めた颯馬の言葉に、紅郎は頷いて続ける。

「外傷は見当たらないから、『誰かに殴られて意識を失った』みてーな経緯ではないみたいだ。病気や貧血の可能性もあるかと思って色々確認してみたところ、どうやら寝ているだけっぽくてな。一先ずは安心したんだが……今は落ち着いているとはいえ、此処は男しかいねぇ。寝ている女の子に誰かが手出しをしないとは限らないと思って、此処に連れて来たって筋書きだ」
「成る程……」

 敬人は蓑虫のように眠っている乙女を見下ろした。タオルから覗く顔は、敬人が先月教室で見た美少女のものと同じだった。英智との会話を思い出した敬人は、このまま彼女が目を覚ませば、彼女が例の作曲家か否かを確認できるのではないかと考える。

「それにしても、この女人は整った顔立ちをしているな……あいどる科の生徒か?」
「いや、制服が違ぇ。此処は男しか居ないだろ、余所の学科だ」
「『たおるけっと』に包まれているせいで我にはわからぬが、そうだったのか。もしかすると、演劇科かもしれぬな! これだけ美しい見目を持っているのだ、使わなければ勿体ない」
「確かに、お人形さんみたいな顔してるよな。俺も拾ったときはまじまじと見ちまったもんだ」

 畳に頬をつけるようにしてじっくりと乙女を観察している颯馬に、敬人は「止さないか」と嗜める。颯馬はすぐさま「これは失敬」と姿勢を正し、しゃきっと背筋を伸ばした。

「しかし、それではこの女人は部外者ということになる。このまま我らの話を続けても良いものだろうか? 寝ているとはいえ、いつ目覚めるかわからぬ」
「確かにそうだな……」
「そもそも鬼龍、貴様が此処に連れて来ずに保健室に預けて来ればよかった話ではないか」
「あそこは教師不在の時間がある。生徒が利用している中、ベッドにこの子一人残してくるわけにはいかねーだろ。俺の傍の方が安全だと思ったんだ」

 紅郎の言い分は尤もだった。保健室は佐賀美陣が居たり居なかったりする。そこに出入りする生徒は純粋に体調を崩している者ばかりではない。サボり目的で不届き者も紛れ込んでくるのだ。妹がいる紅郎が「少女を守らなければ」と思うのは摂理なのかもしれない。
 敬人は眼鏡を押し上げ、全身から二酸化炭素を吐き出した。

「はぁ……大体何故、廊下で眠るんだ。度し難い」
「眠くなってしまったのであろう」
「だからと言って廊下で眠る馬鹿が何処に居る」
「以前、昼餉を食べ損なって倒れている人物を見かけたことがある。この女人も飢餓状態に陥ったのかもしれん」
「たかが一食抜いただけで飢餓状態になるものか」

 意地でも乙女を庇う姿勢を崩さない颯馬に、敬人は呆れてタオルケットの妖精を叩き起こそうと思った。正しい順番で正座を崩して立ち上がり、乙女の横に腰を下ろすと、寝坊する息子を起こす母親のように軽めに叩く。

「止してやれ、旦那」
「無理矢理起こすのは如何なものか……」
「このまま居られても困るだろう。おい、氷室。起きないか」
「氷室……? それはこの女人の名であるか?」
「なんだ、知り合いなのか。水臭ぇ、さっさと教えてくれりゃあ良かったのによ」
「知り合いという程ではないが、一度見たことがある。名前も人伝いだ」

 横槍を入れてくる二人を無視して、敬人は乙女を起こそうと揺すった。彼女が此処に居ては話し合いを進めることもできない。敬人はさっさと起こし、さっさと例の件を確認し、さっさとこの場を去って貰おうとしていた。

「んん……」

 意識が浮上しつつあるのか、乙女が身じろいだ。その様も華憐。

「お、生きてんな」
「先程寝ているだけだと仰っていたではないか」
「あんまり静かに寝てるもんだからよ。俺が拾ったのはマジで人形なんじゃないかって、薄っすら思っちまって。人間の重さにしては軽すぎる気もしたし……旦那? 固まってるが、大丈夫か?」
「……はっ。い、いや、問題ない」

 肩を叩かれた敬人はハッとして頭を振った。紅郎と颯馬は不思議そうに顔を見合わせる。

 まさか、起こそうと思って触れたはいいが、身じろぐ彼女の愛らしさに言葉を失ったなど言えるはずもなかった。敬人は深呼吸をして気持ちを落ち着け、眼鏡を外し「壊すなよ」と言って颯馬に渡す。両手で丁寧に受け取った颯馬は「? 承知した」と疑問に思いながらも了承した。

 ぼやける視界の中でならば乙女の顔を見て、眠りを妨げてしまっては可哀想だ、という気持ちになることもない。

「氷室、起きろ。氷室」
「……旦那、それは俺の裁縫道具入れだ」
「な、なに? 道理で硬いわけだ……」
「蓮巳殿……本当に目が悪いのであるな。やはり掛けておいた方が良いのではないか?」
「……そうだな。神崎、すまないが眼鏡を俺のところに持ってきてくれ。お前が何処にいるのかわからん」
「本当に深刻であるな……そう遠く離れているわけではないのだが」

 眼鏡を差し出された敬人は咳払いをしながら受け取り、装着した。辺りを確認すると、確かに敬人の目の前には紅郎の裁縫道具の箱が置いてあった。乙女とは真逆。敬人はこの距離で人と物を間違えるとは思わず、自分が情けなくなった。

 気を取り戻して乙女を起こそうと体の向きを変えたところで、タオルケットがむくり、と起き上がった。紅月全員が「あ」と口に出す。

「ん……、……?」

 紅郎の気遣いによって掛けられていた白いタオルケットを頭に引っ掛けたまま、乙女は目を擦って上半身を起こした。花嫁姿、あるいは女神像のように見えた三人は息を飲む。

 乙女は寝ぼけているのか重たい瞬きを繰り返し、頭に乗っているタオルケットに気づくと手触りを確認するようにそっと触れた。繊維を指でなぞり、ふと顔を上げると紅郎と目が合う。

「……きりゅう、せんぱい?」
「お、おう。俺の名前、知ってるのか」
「……はい。紅月の、アイドルで、……?」

 小さく呟いた乙女は、そこで言葉を区切って辺りを見渡した。見覚えのない景色に、紅月のメンバーが勢揃いしている。

「…………どうして私、ここに? 今日は、紅月の日?」
「『紅月の日』ってのが何かは知らないが、嬢ちゃんは廊下で寝てたんだ。お節介かと思ったけど、そのまま放置するわけにもいかなくてな。勝手に連れて来ちまった、悪かったな」
「廊下で……ああ、ごめんなさい。廊下は、寝てはいけないところ、ですよね」
「まあ普通はそうだな」
「……寝ているときの感覚は明瞭じゃないのに、勿体ないことをしてしまいました」

 紅郎は、静かにゆっくり話す彼女に戸惑いながらも、テンポを合わせて会話をした。
 乙女はタオルケットを引っ張り、目の前に広げて畳み始めた。頂点と頂点をぴったり合わせながら折っていく。

「……お昼は、眠くなってしまうんです」
「朔間みたいなことを言うな」
「朔間……UNDEADの?」
「アイツのことも知ってるのか。そう、弟の方もな。アイツらの体質らしい」
「体質……」

 乙女──美雪は斑との会話を思い出した。美雪が『迷いやすい体質だ』と言うと、斑は『珍しい』と言った。その後に『探せば似たような体質のアイドルも居るかもしれない』と。

「嬢ちゃんの名前を聞いても良いか?」
「……はい、氷室美雪と言います。音楽科の一年生です」
「む、音楽科であったか。てっきり演劇科かと思ったぞ」

 美雪が名乗ると、颯馬が意外そうに言った。美雪は瞬きを二回して考え込む。さらり、と綺麗な髪が流れ落ちた。

「演劇……? 劇は、やったことないです」
「へぇ。小学校とか中学校でやんなかったのか? 発表会やらお遊戯会やら、演技をする機会っていうのは普通にあるもんだと思っていたが、違うこともあるんだな」
「私は……あ、んと、何でもないです」
「氷室、確認したいことがあるのだが、良いだろうか」

 美雪が言いかけた言葉を飲み込むと、黙って成り行きを見ているだけだった敬人が口を挟んだ。透き通る瞳が敬人を見据える。

「……確認?」
「お前は、音楽科の生徒で、作曲家で合っているか?」
「……? はい、そうです」
「……作曲用の、ペンネームがあるか?」
「……ええ、あります」
「…………それを教えてくれるか」

 敬人は慎重に尋ねる。桜色の唇が動く瞬間を見守った。

「名波哥夏です」
「…………」
「名波……もしや、最近紅月に作曲してくれたのは貴殿か!」
「知ってるのか、神崎」

 あっさりペンネームを明かした美雪に、無駄に緊張感を持っていた敬人は拍子抜けしてしまう。茫然とする敬人を置いて、颯馬が聞き覚えのある名前に反応した。ピンと来ていない紅郎に説明するために、颯馬は打ち合わせの為に態々持ってきていた鞄を引き寄せた。

「うむ。口頭ではわかりにくいかもしれぬ。字で見れば見覚えがあるのではないだろうか、確かこの辺りに……ああ、あった。この曲である、鬼龍殿!」
「持ち歩いてんのか、真面目だな、お前は」
「えっへん、である!」

 颯馬に差し出された楽譜を受け取った紅郎は、曲名の右下に書いてある『名波哥夏』という字に「ああ、これか!」と肌が粟立った。パラパラと楽譜を捲り、唇を舐める。文字通り舌を巻いた。

「へぇ……これを嬢ちゃんが作ったのか、すげぇじゃねぇか。音楽科から楽曲提供を受けることは稀にはあるが、外部からの提供の方が多い。やっぱり作曲家の卵の曲より、プロの曲の方が俄然良いからな。だから学生の内に使われるのは珍しい方なんだぜ?」
「……そうなんですか、知りませんでした」
「音楽科ではあんまし話題になんねぇか?」
「……いえ、私、あまりお友達が居ないので」

 鈍い反応を返した美雪に紅郎が尋ねると、何とも返答に困る言葉が飛び出して来た。颯馬は眉を下げ、紅郎は「そうか」とそれとなく話題を逸らそうと、黙りこくっている敬人に話を振った。

「それで、旦那は嬢ちゃんにそれを確認しなきゃいけねぇ理由でもあったのか?」
「ああ、いや……氷室の立場を、明確に把握しておく必要があったんだ。頻繁にアイドル科に出入りする他学科の生徒だ、生徒会副会長として当然のことだろう」
「ふぅん、そういうもんか」

 紅郎は取り繕う敬人に問い詰めることはせずに流した。

「氷室殿が我らに楽曲提供をしてくれているのであれば、紅月の部外者ということもないだろう。どうだろうか、蓮巳殿、鬼龍殿。このまま我らの話し合いに参加してもらうというのは」

 このまま「はい、起きたなら出て行ってください」と促すのは颯馬の性分に合わなかったのだろう。美雪をそのままにして会議を進めることを提案する。美雪は不思議そうに颯馬を見つめ、それから話題を振られた敬人と紅郎の表情も確認した。

「俺は構わねぇぜ」
「おい、鬼龍」
「話し合いは衣装について、だろ? 作曲家の嬢ちゃんには詰まらない話かもしれねぇが、俺達がどういう活動をしているのか見てもらうことで、嬢ちゃんがまた紅月の曲を作りたいって思ってくれるかもしれないじゃあねぇか。お互いを知るってことは大切だろ?」

 楽観的な考えだが、紅郎の意見は尤もかもしれない、と敬人は押し黙る。敬人も名波哥夏の曲を気に入っているのは事実だった。今後も提供して貰える可能性が上がるのであれば、彼女にこの場に居てもらうのも吝かではない。ついでに次のライブにこういう曲が欲しい、と要望を示すタイミングが訪れる見込みもあるだろう。

 一概に否定できなくなってしまった敬人がちらっと美雪を窺うと、丁度彼女も敬人を見ていたらしい、ばっちり目が合った。敬人はすぐ逸らし、美雪は静かに口を開く。

「……私がいても、問題がないのならば。どうぞ会議をしてください。お邪魔にならないよう、可能な限り努めます」
「応。じゃあ、そのタオルを座布団にでもしてくれや」

 紅郎はコンパクトに畳まれたタオルケットを示す。美雪はこくりと頷いて畳の上に置き、その上にポスンと座った。三人の話し合いが始まるのを、無垢な瞳で見つめている。

「氷室殿に見つめられると、何だか緊張してしまうな。我らは『あいどる』故、見られることには慣れているはずなのだが……」
「……見ない方が良いですか?」
「いや。今回の衣装案なんだが……嬢ちゃんも見てくれ、どう思う?」
「衣装についてはよくわからないのですが……」
「いいんだ。そういう目線も必要だからな」

 紅郎はスケッチブックを取り出して美雪に手招きをする。美雪は身を乗り出してスケッチブックを覗き込んだ。描かれているのは、学院祭でやることになった『灰かぶり』の衣装だ。ドレスが二着並んでいるイラストに、美雪は首を傾げる。

「……これは、ドレスですね」
「ああ、ドレスだ。どうだ? 一応日々樹や斎宮とも話し合ってはいるが、旦那が駄々を捏ねるから多少の調節はしようと思ってよ」
「斎宮先輩……? 斎宮先輩が、このドレスを描いたんですか?」

 宗の名前を聞いた途端、美雪は座布団を引き寄せて紅郎の隣に腰を下ろした。紅郎はスケッチブックを食い入るように見つめる美雪に目を丸くする。

「なんだ、斎宮のことまで知ってるのか。嬢ちゃんはアイドル科に詳しいな」
「……作曲に当たって、色々と皆さんの情報を入手しているので」
「成る程な。そりゃあ、どんなヤツに曲を渡すのかってのは気になるよな。そいつが出せる音とか声質とか、ユニットの曲風もあるんだろ」
「……ええ。紅月は、他のユニットとは抜きん出て曲の系統が違いますから。書いていてとても、新鮮な気持ちになりました」

 作曲家の視点で話されるユニットの特徴に、紅月三人は誇らしい気持ちになった。しっとりと話す美雪の声もあって、女神に微笑みかけられているような気分になる。

 美雪は三人がそんな思いを抱いているとは露知らず、彼女の興味は宗が描いたというドレスに注がれていた。

「……ところで、そちらのドレスのデザインはどういった……?」
「ああ、これだけ見たら『何のこっちゃ』って感じだよな。俺たち紅月は学院祭で演劇をやることになったんだ、演劇部の方が人手不足ってこともあってな。その演目がシンデレラで、蓮巳の旦那と神崎は女装をすることになったんだ」
「……男性が、女性の恰好をするということですか?」

 美雪は大きな瞳を丸くして敬人と颯馬をじっと見た。二人は男性として生まれ、アイドルとして人よりも体を鍛えている。それだけ体格も良いため、大柄な女性になりそうだ。

「……女装、見たことないです」
「学院祭に来れば見られるぜ」
「……見世物ではないぞ」
「演劇は見世物である、蓮巳殿」

 羞恥心のあまり支離滅裂なことを言う敬人に、颯馬がこそこそと耳打ちをした。
 美雪はスケッチブックに描かれているドレスが二着であること、紅郎が「敬人と颯馬が女装をする」と言ったことから、紅郎自身はどんな衣装を着るのか気になった。

「鬼龍先輩は、女装はしないのですか?」
「面白いこと言うな。俺なんかが女装したら観客がびびっちまう。そこら辺は日々樹のヤツもわかってたんだろ、適材適所ってヤツだ」
「……そうなのですね。うん、適材適所。音符や楽器にもあります、アイドルでも同じなのですね」

 ほぼ決定案であるドレスのデザイン画は、敬人が「こんなに腹を締め付けたら内臓が飛び出る」といくら主張しても、紅郎が「そう簡単に内臓は飛び出ねぇよ」と却下し、そのまま制作されることになった。

 思いがけぬ紅月の会話に参加することができた美雪は「学院祭、観に来ますね」と言って足取り軽やかに武道場を出て、紅月と別れた。

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