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 座敷牢に入れられていた彼だったがネット環境は整っていたため、ある程度の偏った知識くらいは頭の中に入っている。こはくは今、自分に起きた出来事がよくある少女漫画的なイベントであるとぼんやり思っていた。まさか自分にこんな日が来るとは、そしてフィクションだと決めつけていたことが本当に起こるとは、と腕の中にいる少女に固まっていた。

 こはくが頭に思い浮かべているのは、食パンを咥えたヒロインの少女が遅刻しないように走っている最中、曲がり角で結ばれることになるであろうヒーローと衝突する場面だ。ヒロインが「いたたた……」と腰をさすりながら前を見ると、そこにはキラキラのエフェクトや背景に花が咲き誇るイケメンがいる。そんな王道展開。
 この場合、性別で考えるとヒーローがこはくになるわけだが、こはくは自分よりも相手の彼女の方が余程キラキラエフェクトが似合うと確信していた。

 こはくの反射神経はそこら辺の一般男性よりも突出している。ビルの廊下の曲がり角、考え事をしていたこはくは迫りくる気配に気づくのが遅れた。空気のような気配の人物と衝突し、それが女性であることを理解すると同時に、彼女が自分から跳ね返るように地面へ倒れそうになっているのを捉えた。
 こはくは咄嗟に手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き寄せ、抱き留めていた。遅刻しそうになっている食パンを咥えた少女ではない。これから恋が始まるという運命的な出会いをしたと勘違いしてしまいそうな、空から舞い降りた天女だった。

「……あの」
「──はっ。す、すまん、堪忍な。ぶつかってしもて。考え事してて前見てへんかったわ」

 いつまでもそのままの体勢でいるこはくを不審に思った美雪が身じろぐと、こはくは慌てて彼女を放した。顔が熱くなっている気がしたこはくは前髪を弄って平静を保っていた。

「…………」
「……ど、どないした? さっきのでどっか痛めたか?」

 じっと見つめてくる美雪に、こはくは先程の咄嗟の行動が彼女の体を傷つけていたのではないかと焦る。美雪は首を振って、こはくを上から下まで眺めた。

「……貴方、桜河くん」
「? わしの名前知っとるん? ……ああいや、確かに悪い噂は流れてたんやから、知られてても可笑しくはないんやけど」

 Crazy:Bはお騒がせ連中として悪名高いだろう。そういう動きをしていたとはいえ、そしてMDMで誤解を解いたとはいえ、一度流れた噂というのは付き纏う。

「……映像で、見た。あと、データと、天城さんから」
「なんや。ぬしはん、燐音はんの知り合いなんか」
「……椎名さんも、よくお話する」
「ニキはんも?」

 自分のユニットのメンバーと関わりが深そうな彼女のことを、こはくは何一つ知らなかった。二人とどういう関係なのだろうかと思考を巡らせる前に、美雪が唐突にある提案をした。

「……今、椎名さんのところに行こうと思ってた。……桜河くんも、一緒に行く?」
「へ?」
「……漣さんが言ってた。貴方、世間知らずなんでしょう?」
「こ、今度はジュンはんの名前が……というか世間知らずて。初対面に言うことかいな」
「……? 不快にさせてしまった? ……ごめんね、適切な表現ができなくて。貴方のこと、まだよく知らないのにね」

 不思議なテンポで進んで行く彼女の話にこはくは戸惑っていた。知り合いの名前が次々に出てくるが、彼女が何者なのか分からない。

「……私も、世間知らずって、よく言われるから」
「は、はぁ。まあ、会うて数分やけど、そんな感じするわ」
「……桜河くん、私、先輩」
「は?」

 ポカンと口を開けるこはくの前で、美雪は自分を指さした。

「……私、高校二年生。だから、桜河くんよりお姉さん」
「まあ、学年的にはそうやな。……ああ、敬語使えって言いたいん?」
「……敬語。……相手や場面によっては、使えた方が良いと思うよ。敬語は相手を尊重する言葉だから」

 質問に対する返答が「はい」でも「いいえ」でもないことにこはくは一瞬頭を悩ませるが、お咎めのような言葉がないということはそのまま話して良いと言うことだろう、と完結する。

「……あと、私も、座敷牢ではないけれど、似たような場所に居たから」
「──!」

 身内にひた隠ししているわけではないが、知っている人物が限られるはずの情報が彼女の口から出て来たことにこはくは驚きを隠せずにいた。彼を放置して、美雪はマイペースにのほほんと語る。

「……桜河くんは『外の世界一年生』で、私は『外の世界二年生』」
「…………ん?」
「……だから、桜河くんに教えてあげる。お世話、してあげる」

 間抜けな顔で佇むこはくに、美雪は手を差し伸べた。こはくは自分よりも小さな手のひらと彼女の顔を交互に見つめる。

「……お手手、繋ぎましょう」
「そこまでガキちゃうで」
「……そう」

 初対面にこはくに彼女の表情の変化は分かりづらいが、美雪が残念そうに手を引っ込めていくのを見て、ちょっとした罪悪感が生まれていた。

「……お金の使い方は分かる? これから椎名さんのところでご飯を食べるから、教えてあげる」
「流石に知っとるわ」
「…………じゃあ、ご飯は? 食べられる? 食べさせてあげようか?」
「……ぬしはん、わしを赤ん坊か何かと勘違いしとるんか? 食事くらい自分で食えるわ」

 こはくに次々拒否された美雪は首を傾げた。じっと見つめた後に「……成る程」と呟き、こはくは怪訝そうな顔をする。

「……そうだよね。これまでお世話をしてもらっていたなら、知ってるはず。……私と同じで、大事に育ててくれる人が周りに居て、良かったね」
「……まあ、せやな。頼んでもないのに世話焼いてくる輩なら仰山おるわ」
「……これから、お仕事はある? 干され気味って、聞いたけど。……お仕事が来ないことを、そう言うのよね?」
「あんだけの事したからな。わしらに普通に仕事を回してくる方が可笑しいわ」
「……そう。じゃあ、ご飯に行きましょう」

 会話の路線から外れていく美雪にこはくは関西魂のせいか、その場でずっこけそうになる。

「なんでぬしはんと食事すんねんっ。初対面やぞ」
「……嫌なの?」
「嫌……っち、わけや、あらへんけど」
「……いやっち?」

 こはくの話す言葉は美雪にとって別の言語のようだった。方言というものは身近にいるみかも使っているし、沖縄旅行ではもっと難解な言葉を耳にすることもあった。

「……貴方、影片先輩とは少し違う話し方をするのね。……言葉もそうだけど、音の運び方が違う」
「影片……ああ、Valkyrieの。ぬしはん、ほんまに顔広いんやな」
「……私、氷室美雪。……作曲家をしているから、それなりに、色んな人と交流があると思う。……プロデューサーほどでは、ないけれど」
「作曲家……」

 それで先程からぽこぽこと知っているアイドルの名前が出てくるのか、とこはくは納得する。彼の中で、美雪は今まで出会ってきた中で最も美しい顔として認定されており、それが今後のこはくの人生において塗り替えられることは恐らく無いだろう。これから出会う女性を見ても何とも思わず、ましてや誘惑されてすら何とも思わなくなってしまうことを、こはくはまだ知らない。

「……お仕事が来ないと、L$も貰えないんでしょう? ……私が、代わりに払ってあげる。年下に奢ってあげるの、やってみたかった」
「そこまで金に困ってるつもりないんやけど……まあ、ええわ。ぬしはん、何が何でもわしのお世話をしたいみたいやからな」

 しつこく食事に誘ってくる美雪に折れたこはくは、手を引かれてシナモンに向かった。

***

「いらっしゃいませ〜……って、あれ? 美雪ちゃんとこはくくんじゃないっすか。……んん? どういう組み合わせっすか?」
「そこで会うて連れて来られたんや」

 二人に接点があっただろうか、とニキが足りない脳味噌で考えようとすると、こはくが呆れたように言う。草臥れた様子のこはくに「ほへ〜」と暢気に返したニキは一先ず客として来たであろう二人を席まで通した。まだメニューを見る段階だと言うのに、ニキはテーブルに張り付いて「何にします?」と促してくる。

「いやまだ品書き見とらんし」
「品書きって。言い方が古臭いっすね〜」
「誰が爺や」
「そこまで言ってないっすけど⁉ ……あ、美雪ちゃん決まりました?」

 メニューを開いた美雪がニキを見上げると、ニキはメニューを覗き込んで美雪が示している料理名を小さく復唱して考え込む。こはくはその様子を見て慌てて自分もメニューを開いた。

「ちょ、待て。早すぎやろ。まだわしが決まっとらん」
「大丈夫っすよ。美雪ちゃんの料理はひと手間ふた手間かかるんで、早い内に聞いちゃった方が良いんす」
「……?」
「んじゃ僕はキッチンに引っ込みますけど、こはくくんも決まったらオーダーしてくださいね〜」

 ニキはひらひら〜と手を振ってキッチンへと戻って行ってしまう。こはくは本当に注文も聞かずに置いて行かれたことを怒るべきか、メニューをじっくり眺める時間が出来たことに喜ぶべきか、複雑な心境だった。

「……メニュー、一人で決められない? 文字は読める?」
「馬鹿にしとるんか、おんどれ」

 眉間に皺を寄せてメニューを睨むこはくを心配した美雪の言葉は幼児を相手にしているようなものだった。こはくが言い返すと美雪は「……おんどれ?」と不思議そうに目を丸くした。
 結局、こはくはオムライスとサラダ、アールグレイをニキとは違う別の店員に頼み、注文した品が到着するのを待つことにする。こはくがちらりと美雪を盗み見ると、彼女は机に五線紙を広げて曲を作っているようだった。ペンを両手に持つ彼女を見て、こはくは(両利きなんか。器用なもんやな)と感心する。

「美雪ちゃーん、お待たせっす〜。ご注文のハンバーグでーす」

 流石、料理人を志しているだけはある。美雪の料理には「ひと手間ふた手間必要だ」と言っていたが、それでも普通のレストランやカフェに比べれば提供スピードが格段に速い。ニキは持ってきた皿をスムーズかつ丁寧にテーブルの上に置いた。

「……何やこれ」
「ハンバーグっす」

 美雪の目の前に置かれた皿の中身はどう見ても液体だった。こはくは自分が可笑しいのかと思って目を擦り、頬を摘まんで夢ではなく現実であると確認した。バン、と手をついて立ち上がり、声高々に言う。

「わしの知っとるハンバーグとちゃう! ハンバーグって、肉の塊やろ⁉」
「違うっすよ。玉葱も入ってるっす」
「細かいわ!」

 ボスン、と勢いよく座り直したこはくに、ニキが「埃立っちゃうからやめて欲しいっす」と苦言を呈してきた。料理のことになると五月蠅い男だ。二人が揉めているのを余所に、美雪はスプーンでハンバーグと呼ばれた液体を掬って口に含んでいる。

「……何をどうしたらこれがハンバーグになるんか見当もつかん」
「厳密にはハンバーグポタージュっす」
「ぽた……?」
「フランス語でブイヨンスープ全般のことを指す単語なんすけど、日本では材料をミキサーにかけたりしたトロッとした感じのスープを『ポタージュ』って言うみたいっすね。時々『ポタージュスープ』って言ってる人を見かけるんすけど、あれってフランスの人からすると『スープスープ』っていう結構面白いことになってるみたいで」
「あ〜、解説してくれてるとこ悪いんやけど、つまりこのけったいなヤツは『ハンバーグスープ』ってことやな?」
「ま、そうっすね」

 話が長くなる前にこはくはハンバーグ(液体)を指さして確認した。話を遮られたニキはけろっとしている。

「美雪ちゃんはお肉というか、食べ物全般が駄目なんすけど」
「は?」
「固形物が苦手みたいで。でも食べてみたい料理があるにはあるんすよね?」

 ニキが話を振ると、美雪は口にポタージュが入っているからか頷くだけだった。

「そこで、僕の出番ってわけっす! お客様の要望に応えてこそ優秀な料理人っすからね。僕は美雪ちゃんが食べたいって言ったものを、美雪ちゃんが食べられる形にして提供するって感じっす」
「……ほぉ。成る程な?」

 納得のいったこはくは思わず声を漏らしていた。「ふふん♪」と胸を張ったニキはキッチンに引っ込もうと踵を返すが、その先に何故か腕があり、首を思いっきりロックされ潰れた蛙のような声が出た。

「あァン? なんだよ、このグロテスクな色のスープはよォ」
「ちょ、燐音くんまた来たんすか⁉ 僕の職場を荒らさないで!」
「つれないこと言うなよなァ。……あっれェ? ハニーも居るじゃん♪ やっほやっほ、元気してた?」

 突然カフェ・シナモンに出没した燐音はニキを解放すると俊敏な動きで美雪の隣の席に腰を下ろして詰めていった。美雪はニキの作ったポタージュの皿を持って隅に逃げていく。

「なになに、俺っちからこはくちゃんに乗り換えたの? へェ、あんだけ年上の男共に可愛がられておきながら年下が好みなんだァ? つーか可愛い顔したお利口さんのフリして尻軽かよ。あーあ、傷ついちゃったなァ。ハニーには俺だけだって思ってたのになァ」
「…………」
「……この状況でスープ飲むのはやめねーのな。相変わらず肝っ玉が据わったお嬢様だぜ」

 完全にスルーされた燐音は肩を竦めてからかうのを諦め、「ニキぃ、コーヒー」とぶっきらぼうにオーダーをした。亭主関白のような姿勢にニキはぶつくさと文句を言いながらも大人しくコーヒーを用意するために消えていく。

「お嬢様? ──ぬしはん、まさか『あの氷室』かっ?」

 燐音の『お嬢様』という台詞が引っかかったこはくは彼女の名前を思い出し、血の気が引いていく。朱桜は司の祖父が亡くなってから不安定になり、氷室豊に目をつけられていた時期があるということをこはくも知っていた。

「……ああ。……貴方は朱桜くんの分家だもんね、そういうの気にするんだ」
「気にするって……当たり前やろ」
「……私はあまり、お兄様のやっていることを知らないし、関わってもいないから。気にしなくて良いよ」

 警戒するこはくに対し、美雪は平然とポタージュを飲み続けた。

「はいコーヒー」
「あっつ⁉ おい、雑に置くんじゃねーよ、手にかかっちまっただろうが。あーあ火傷しちゃったァ、慰謝料払えよオラ。ついでにパチンコ代も寄越せ」
「なんでこの人はいつもいつもお金をせびってくるんすかね?」

 ニキがカップを乱暴にテーブルに置いたお陰で、燐音の手に湯気が立つくらい高温のコーヒーが跳ねた。悪びれる様子もないニキに、燐音は美雪を指さして言う。

「美雪ちゃんの楽譜にかかったら弁償しなきゃいけねーぜ?」
「わっ、それはスンマセンっす!」
「……いえ、汚れていないので平気です」

 美雪がテーブルに散らばる五線紙を集めて仕舞おうとすると燐音が横から掻っ攫い、勝手にパラパラと捲ってペロッと唇を舐めた。悪巧みでもしていそうな顔だ。燐音は美雪の肩に腕を回して近づく。

「これ、俺っちに頂戴?」
「駄目です」
「んだよ、いーじゃん」
「……これはCrazy:Bの曲ではありません」
「じゃ何処の?」
「……未来のValkyrieです」
「未来? 直近で渡さねーの?」

 美雪は燐音から楽譜を取り戻そうと手を伸ばすが、燐音がひょいっと高く持ち上げてしまったせいで届かない。美雪はじっと燐音を見つめて彼の服の袖を掴んで引っ張り、腕を下ろそうとする。小さな反抗に燐音はニマニマと笑みを深めた。こはくは(しょうもな)と密かに思う。

「──急に呼び出してきたかと思えば、何をくだらないことをしているんです?」

 誘うような低音。テーブルの周りにいる四人が目を向けると、Crazy:Bの残りのメンバーであるHiMERUが立っていた。
 ニキとこはくがカフェ・シナモンに居るのを発見した燐音はメンバーの半分が居るならとHiMERUを事前に呼び出してから店内に入っていた。HiMERUはソロをメインに活動したいと訴えているが、昨今のESの仕組みではユニット活動が推奨されているためソロ活動は難しい。加えて、HiMERUは先のMDMで問題を起こしたユニットに所属していたことで、それなりに仕事に影響を受けていた。つまり不本意ながら、急な呼び出しにも応じることができる状況ということだった。

「かまってちゃんの子どもじゃあないんですから、女性をからかって遊ぶのはやめてください、天城。あと、一応アイドルなのですから女性との距離感には気をつけるべきです。桜河も、椎名もそうですよ。個人の迷惑はユニットの迷惑に繋がりますからね、逆もまた然りですが」
「遠回しに嫌味を言うなよなァ」
「おや。遠回しのつもりはありませんよ、真っ直ぐ貴方を刺しています」

 くどくどと「アイドルならば心得ておけ」という忠告をしたHiMERUは燐音から楽譜を取り上げると一瞬目を落としてから微笑み、姿勢を正して美雪に向かった。

「──貴女が作曲家の名波哥夏さんですね?」
「……ええ」
「はじめまして、HiMERUと言います。お会いできて光栄です。噂通りお美しい方ですね、目が眩んでしまいそうです」

 甘いマスクで口説きはじめたHiMERUに、こはくもニキも引いている。まさかHiMERUという男の口から、先程『女性との距離を考えろ』と言ってきた男の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。これには燐音すらポカンと口を開けてしまう。

「なに媚び売ってんだよメルメル」
「事実を述べているだけですが。それより退いてください、天城。楽譜をお返しできないでしょう」
「別にこのままでも渡せるだろうがよ」
「HiMERUが名波さんのお隣に座りたいのです」

 HiMERUの主張に燐音は訝しげに口と眉を曲げた。頑固な男ではあるが、初対面の女性にいきなり距離を詰めて、ここまで親しくなろうとするものだろうか。
 ピンと来た燐音は怪しい笑みを浮かべる。

「あ、わかったァ。口説き落としてソロの曲作って貰おうとしてんだろ? メルメルこっす〜い。気ィつけろよハニー、此処にはろくでもねぇ男しかいねぇからな」
「一番のろくでなしに言われる筋合いはありませんね」
「へェ、否定しねぇんだ? 曲目当ての男に言い寄られて美雪ちゃん可哀想〜」
「──貴方がそれを言うんですか?」

 バチバチと火花が散っている。ニキはそそくさと退散してキッチンに引っ込もうとするが、こはくが腕を掴んで(一人にすんなや)と目で訴えたせいで嫌でもその場に居なければいけなくなった。美雪はこの状況でハンバーグポタージュを食べるのを再開している。

「じゃあ経験者として言わせてもらうけどよォ。美雪ちゃんは慈愛に満ち溢れたお優しい聖女さまだから、変に媚びを売るよりストレートに伝えた方が良いぜ? ……あとこの女に下手に手ェ出すと自分の首を絞めるし振り回される」
「──ほう。振り回されたんですか、貴方が?」
「そーだよ。操縦してやるつもりが、とんだ『じゃじゃ馬』だったって話」

 MDMは円満に解決したと思われているが、そうではない者もいる。それはCrazy:Bに刺されたユニットが主だが、ESの有力ユニットに所属するアイドルのほとんどが燐音をいまだに敵視しているのは、美雪に関わったせいだった。彼女に自分を『ダーリン』と呼ばせていたお陰でビルの中ですれ違いざまに「アンタ調子乗ってんじゃないよぉ」「女神は北斗先輩と結婚するんだからな」と恨み言を吐かれている。

(まじでみ〜たん顔怖いんだよな……宗くんよりみ〜たんがやべぇ。あとナギも)

 困ったことに、余所の事務所よりも自分の事務所の方が厄介だった。ビルを歩いていれば鋭い視線が跳んでくるのは当たり前だが、コズプロは研ぎ澄まされた殺気が跳んでくる。燐音はValkyrieやEdenと出くわす度に胃が痛くなっており、2winkしか事務所に居ない日は密かにガッツポーズをしていた──それでも軽蔑の眼差しで見られてはいるが。実際は交際していなかったというのにこれだ。

「……椎名さん、御馳走様でした」
「へ? ああ、お粗末様でした。いやぁ、大分食べるの早くなったっすね。実は量もちょっと増やしてみたんすよ」
「……最近ね、お昼寝しなくても起きて居られることが増えたんです。……椎名さんのご飯のお陰。ありがとうございます」
「へへ。嬉しいこと言ってくれるっすねぇ」

 美雪はお皿を持ち上げてニキに差し出した。ニキはそれを受け取ると、今度こそこはくに引き留められることなくキッチンに戻った。
 みかの怖いくらいの真顔を思い出して悟りを開いている燐音の肩を突いた美雪は「……帰ります。通してください」と意見を述べた。燐音は「おお……」と素直に応じてソファから降り、美雪を通した。

「……ごめんなさい、HiMERUさん」
「──?」
「……また今度、お話しましょう。……桜河くんも、またね」

 HiMERUから楽譜を受け取った美雪はこはくに手を振って、彼の分も含めた会計を済ませるとシナモンの外へと消えて行った。

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