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 日本ネヴァーランド杯──通称JNLC。本来のネヴァーランド杯はミュージシャン業界における権威と歴史のあるものであり、創始者がゴッドファーザーのJNLCはその日本版にあたる。
 国内で最も芸術的なミュージシャンを決める催しとはいえ、JNLCにはそこまでの権威はない。Valkyrieがそのまま出演し、通常の演目をするだけで優勝することが出来るほどに。故にJNLCを盛り立て世界に通用する賞にしようという動きがあり、演劇業界の知人から頼まれた渉は凪砂を誘ってJNLCに出場することを決める。

 宗はJNLCの構成を全てみかに任せ、返礼祭のような輝きに満ち溢れた舞台になることを期待していたが、みかはそれに応えることができなかった。何もないところで躓くような危うい彼から浮かんでいるアイデアをひとつひとつ聞くと、それがValkyrieの、つまり宗の過去の作品の焼き回しであることに宗は気づいた。期待を裏切られた宗は衆人環視の中でみかに向かって罵声を放ってしまう。

 JNLCが始まるまでみかが一人暮らしをしている部屋に寝泊まりすることを決めた宗は、夕飯の買い出しに出ていた。彼にどう助言し、どう援助するか考えながら野菜を購入していると、背後から穏やかな低音が響いた。

「──やっほう。何をしているのかと思ったら、晩御飯の買い出し?」
「……⁉」

 ビクンと肩を跳ねさせた宗は振り返り、声の主を視界に収めた。親し気な友人に挨拶でもしているかのように片手をあげている凪砂が立っている。

「……あぁ、急に話しかけてごめんね。驚いたよね」
「ふ、ふん。君たち如きに僕の感情が揺さぶられることは永遠にないのだよ」

 fineに所属していた彼と会話をするのは宗にとって心に荒波が立つ行為だった。宗は腕を組んでそっぽを向き、「お前と会話をする気はない」と意思表明をする。しかし凪砂はそんな宗を無視して言葉を重ねていく。最初こそ返したり返答を求めるような問いかけをしたりしていた宗だったが、凪砂が自分語りをし始めると応答しなくなっていった。
 静かに流れるように語る凪砂を横目で見た宗は数週間前の悪夢のような光景を思い出し、グッと眉間に皺を寄せた。話し方や雰囲気が彼女と似ていることも、宗の神経を逆撫でしていた。

「まさか、単に僕と仲良くなりたかっただけだとでも?」
「……それもあるけど。実際、同じ事務所になったんだから啀み合っても仕方ないしね。……あと、君は私が美雪の近くに居ない間、あの子のことを守ってくれていたみたいだから。……ありがとうね、ご苦労さま。今は私が傍に居るから、気にせずパリで芸術を極めると良いよ」
「……何だと?」
「……御役御免だって言いたかったんだけど、伝わらなかった?」

 空気がざわつく。宗は凪砂を睨み、凪砂は宗を見下ろしていた。

「君が、君たちが僕の代わりに氷室を守れるとでも? 七種にも言ったけれど、碌に見守ることも出来ていないではないか。お陰であの子は天城燐音の陰謀に……。僕が傍に居らずとも影片があの子を守護している。御役御免はこちらの台詞なのだよ」
「……そう。ではこちらも返そう。……美雪を守って把握した気になっているみたいだけど、あの子のことを真に理解しているのは私。美雪と魂で繋がっているのは、私。私は幼い頃から美雪と一緒だった、何をするのも、常に」

 向けられた悪意に対して凪砂も反抗した。お前ではなく自分こそが彼女と近い・彼女に相応しいと威嚇し合っている。

「幼少期を知っているから何だ。あの子だって変化をする、一年生の頃から随分成長しているのだからね。心も体も、君とは違う。いつか君を見限って離れてしまうかもしれないね?」

 これは宗の虚勢だった。自分の知らない彼女を知っている凪砂に対して内心は焦っている。愛に時間は関係ないと言えば彼女と過ごした一年間を否定するようにも思えて、そしてそんな俗物的な台詞を発したくなくて、宗は凪砂の不安を煽るようにした。
 凪砂は目を細めて宗を見遣った。その眼差しの温度は先程までの彼とは比べ物にならないくらいに冷たい。凪砂にとって、美雪と『離れる』ことは大きな地雷原だった。宗はその上で軽やかなタップダンスを披露しているようなものだった。

「……やっぱり、君は私を傷つけようとしている」
「そうだと先程も言ったはずだけれど? ……僕が君を気に食わないのは元fineだからというだけではない。君があの子にした仕打ちを思い出してみろ。押し倒して無理矢理接吻など……ああ、また忌々しい光景を思い出してしまった。悍ましい、汚らわしい。乙女の純潔を暴こうとするなど、まるで獣だね」

 宗の吐露に凪砂は目を丸くする。ふっと体から力が抜けた。強気に噛みついてくる彼の奥底にある思いに気づき、凪砂はこの会話が馬鹿らしく思えた。

「……なんだ、嫉妬してるだけか」
「──貴様ッ!」

 カッと身体が熱くなった宗は一歩踏み出して凪砂を威圧した。今にも胸倉を掴みそうな勢いだが、公共の場という環境が彼を抑制している。凪砂はフッと笑って窘めるように言う。

「……図星? そうだよね、君には出来ないことを私は出来る。美雪は私を受け入れてくれる。……羨ましいんだ? 君は美雪とキスも出来ないし、裸で触れ合うことも出来ないもんね」
「──チッ、僕は君のように低俗ではない! 知恵の実を食べて楽園から追放されたアダムだと主張する割に善悪の知識がまるで身に付いていないようだね。肉欲に塗れた堕落した人間め……下品極まりない、不愉快だ」

 彼女の唇と身体を想像してしまった宗はそれを邪念だと判断し、理性で振り払った。このまま彼と会話をしていても実にならない・時間の無駄だと背を向け、警告だけしようと振り返り、指を突き付ける。

「良いかい? 君の醜い欲望を氷室に押し付けるんじゃあないよッ! あの子は神聖な存在、穢れを知らないままで良いんだ。綺麗なままで、純真なままで」
「……そういう思考が良くないと思うけどね。美雪を決めつけて縛らないで。それじゃあ、あの男と同じだ」
「──『あの男』?」

 凪砂も宗と同じようにこの話し合いが無意味に思えたのか、宗に背を向けるようにして身を翻していく。

「……美雪の兄を名乗ってる人だよ。日和くんから聞く限り、あれは多分そういう男だ」

 流し目で宗に述べた凪砂は歩き出す。美雪を閉じ込めていた男と同じだと言われた宗は、言い知れない恥ずかしさと不安感に襲われる。

「……あ」

 少し進んだところで凪砂が声をあげた。振り返り、身構える宗を気にする素振りも見せずに口を開く。

「……そうだ、聞きたいことがあったんだ。野菜やお肉ってどういう手順で購入すればいいのかな?」
「……」

 このタイミングの悪さも美雪と類似している。宗はそう思ってしまった。ため息をついて凪砂に苦言を呈す。

「氷室は君と違ってお野菜やお肉くらい買えるけどね」
「……買い物ならやったことはあるけど、こういう食材は調達したことがなくてね。……でも、そっか。美雪は出来るんだ。君が美雪に教えてくれたの? ありがとう」
「チッ……その上から目線をやめたまえ。あの子が自分で買って自分で作りたいと強請ってきたから、春頃に教えてあげただけだよ」

 その時期、宗はまだパリの生活に慣れようとしている段階で『落ち着けている』とは言えない状態だったが、彼女の新しい経験と挑戦のために態々帰国していた。宗は今度こそ彼女の手料理を食べることができるとワクワクしていたが、美雪はなかなか宗に食べさせようとはしなかった。宗は「食べたい食べたい」と末っ子パワーで駄々を捏ね、漸く美雪の料理を口につけることに成功した。彼女の手料理は宗が今まで口にしてきたどの食べ物よりも美味で、宗の舌を喜ばせた。
 凪砂は自分の知らない彼女の一面を言ってのけた宗をじっと見つめる。

「……美雪が、料理をしたの?」
「……そうだが」
「……君が食べたの?」
「なんだ、羨ましいのかね?」

 先程の仕返しにと、宗は腕を組んで勝気に笑った。機嫌を悪くした凪砂はムッと眉を顰める。

「……今すぐ吐いて」
「疾うの昔に僕の血肉となっているよ」
「……狡い」
「君だって氷室と乳繰り合うなんて生意気だよ」
「……認めたね。やっぱり羨ましかったんだ」
「認めてなどいない!」

***

 なかなか創作が進まないみかの尻を引っぱたくようにして、宗はみかの部屋に入り浸って身の回りの世話をした。宗はみかの今の生活を良しとせず、みかに相談することもなく部屋を解約して星奏館に住むよう言いつけた。無理矢理食事や睡眠を取らされ、それ以外の時間は芸術活動に没頭しなければいけない環境にて、締め切りに追われ編集者に急かされる漫画家の気持ちを知ったみかは、げっそりしながら本番に臨んだ。

 スムーズに当日を迎え、本番を終えることができたかと思いきや。みかは現在、宗に向かって罵声を放っていた。ここまで怒るみかを見たことがなかった宗は見るからに狼狽えている。美雪はその横で二人のやり取りを茫然と眺めていた。

「こ、こんなに怒った影片は初めて見たね。何が逆鱗に触れたのだろう。君がアパートの部屋に溜め込んでいたものは、全て値段もつかないようなガラクタだろう……?」
「んああ〜っ、ちゃうもん、ちゃうもん! そりゃあ拾ってきた子たちばっかやったけど、お師さんが捨てたもんの中には、美雪ちゃんがくれた小っちゃいぬいぐるみさんもおったんやで⁉」
「なっ……⁉」

 衝撃の事実に宗は目を剥いて美雪を窺った。美雪本人はみかの言う『小っちゃいぬいぐるみさん』がどれだったかを思い出そうとしているが、宗は自分の勝手な振る舞いが彼女を傷つけていないか焦り、震える。

「き、君が影片にあげたものが……? すまない、僕は気づかずに」
「……あれは私が影片先輩に差し上げて、影片先輩の所有物になりました。どうするかは影片先輩が決めるべきです。……ですから、私よりも影片先輩に謝った方が良いと思います」
「うぐっ」

 痛いところを突かれた宗は反射的に胸を抑えた。自分に謝ろうとしない宗に怒りがピークに達したみかはズカズカと歩き始める。

「おれ、大急ぎで星奏館に帰ってマド姉ェをどっかに捨ててくるから! それでお師さんも自分のやったことの意味がわかるやろ!」
「な、何だと⁉ そんな残虐非道な真似が赦されると思っているのかねッ、貴様ぁああ!」

 宗は大慌てでみかを追いかけ、美雪もその後をちょこちょこと着いて行く。

「良ぇ加減、理解してやっ! 一方的に決めつけずにちゃんとおれの気持ちも考えて欲しい!」
「か、考えているとも! 常に君にとって一番良い方法を選んでいるつもりなのだよッ、一体何が不満なのかね⁉」

 遠目で見守る渉と凪砂──現在ネットニュースで「御乱心」などと騒がれている──には、その様子が痴話喧嘩にしか聞こえなかった。

「もういいっ、待っとれマド姉ェ──今日が永遠のお別れの日やで〜!」
「や、やめろぉおお! 僕に対しては何をしても良いからマドモアゼルには手を出すな! ッ、氷室も何とか言ってくれ、影片を止めるんだ! きっと君の声なら届く!」
「……」

 しがみつくようにしてみかを止めている宗に言われた美雪は考える。彼女は争いを忌避しているが、今の彼らのやり取りがただの争いだとは思えなかった。

「……貴方、ちゃんとお話をした方が良いです。……六月頃にも似たようなことをしたでしょう、私に何の相談も無しに月永先輩の曲を使って」
「あ、あれは……すまなかったよ」
「……それと同じ。影片先輩は、貴方に勝手に決められたくなかったと仰っています。……貴方が影片先輩の大切なものを捨ててしまったのなら、貴方も同等の何かを差し出すべきです。……そうしなければ相手の気持ちが鎮まらないこともあります」
「ぐ、ぐぅうッ⁉ 氷室が僕の味方をしてくれない……!」
「そうなんよっ、美雪ちゃんはわかってくれてるわぁ! 『目には目を、歯には歯を』や! グッバイ、マド姉ェ〜!」
「待てぇいッ! だからと言ってマドモアゼルを捨てるな! 赦さないよ、赦さないからね⁉」
「おれだって赦さへんからな!」

 揉み合うようにしている二人の一歩後ろで美雪は「どうしたものか」と辺りを見渡した。目が合った凪砂は緩やかに手を振り、美雪もそれに返した。渉は二人の交信を羨み、凪砂に便乗して大きく手を振った。

「……彼女」
「んあっ?」
「な、なんだね?」

 美雪の一言に押し合いへし合いしていたValkyrieの二人は動きを止める。腕と足が絡み合って、この世の混沌を表現している彫刻のようにも見える。このまま美術館に飾れるだろう。美雪は小さく続けた。

「……マドモアゼル。いつも斎宮先輩と一緒で、狡いなって思っていました」
「え」
「……私が彼女になれれば、パリに行けるのに」
「……氷室」

 彼女が日本から出られない、ましてやパリになど絶対に渡れないことが理解できてしまう宗は胸を痛めた。それと同時に、マドモアゼルを羨む彼女に対する愛おしさが込み上げてくる。

「ああ……ああっ! 僕も君と一緒に居たいよ……!」

 みかと知恵の輪になっていた宗は腕を解いて彼女に近づく。
 マドモアゼルになって宗と共にパリに行きたい、という彼女の気持ちがわかるみかは、今までの怒りが消え失せてしんなりしていた。人形になれれば着いて行ける・柵が無くなるが、宗はみかに対等な人間であることを望んだ。みかは今、それに応えようとしている。

「……だから、小生意気なお人形さんにお仕置きしましょう」
「──へっ?」

 美雪の言葉で二人は落ち着きを取り戻し、マドモアゼルを捨てられるという恐ろしい事件が起こることなく事態が収束するかと思ったところに、石が投げ入れられた。ポカンと口を開ける二人に、美雪は提案する。

「そうね……天祥院先輩か七種さんに、一週間程度マドモアゼルを預かっていただくのは如何でしょう。……ああ、一週間ずつ預かってもらうという手もありますね。合計で二週間、貴方の手が文字通り空きます」

 美雪は人差し指と中指を立ててピースを作った。宗は頭を抱えて荒ぶる。

「天祥院と七種ァ⁉ あ、あいつらに彼女を預けるなんて……ただ捨てられるよりも惨たらしい目に遭うに違いない! やつらの事だ、彼女を人質に僕に無理難題を押し付けるっ……マドモアゼルは腕や脚を外されたり燃やされたりして、二度と帰ってこな──ひ、ひぃぃいい! 想像するだけでも震えがっ……なんて残酷なことを言うんだ、氷室! 影片のグロテスクな作風のせいかっ⁉ それとも僕が居ない間に、君に変なことを吹き込んだ輩がいるのではないかねっ⁉ よりにもよって何故その二人を選択したんだ!」
「……貴方が嫌がると思って。そうしないとお仕置きにならないでしょう?」
「な、成る程な⁉ さすが美雪ちゃんや! そうしよ!」
「やめろッ‼」

 静まったかと思えば再び騒ぎ出したValkyrieに、アルティシモの二人は笑みを堪えることが出来なかった。愉快愉快と笑ったところで、渉は横にいる凪砂を窺う。

「そろそろ行きます? ファミレス」
「……ああ、そうだね。そうしよう。……美雪も呼ぼうかと思ったけど、今は良いかな」
「おやぁ、宜しいのですか? 英智から聞きましたけど、貴方と美雪さんはやんごとなきご関係なのでしょう?」
「……あの子が食べられるものがファミリーレストランにあるのかわからないし、それに」

 凪砂は余裕そうに笑みを深めた。

「……美雪が最終的に私を選び、戻ってきてくれるなら、その過程にどんな男が居ようと関係ない。全部私で塗りつぶせば良い」
「…………ほほぅ」

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