17

「……椎名さん?」

 廊下で蹲っているニキを見つけた美雪は彼に歩み寄り、いつもは見ることの出来ない旋毛を見下ろした。体調不良を懸念して顔を覗き込もうにも、長い前髪が邪魔して美雪から窺うことが出来なかった。美雪は膝をついてニキに問いかける。

「……椎名さん、お腹痛いですか? ……変なものを、食べたとか?」
「……あー、うー」
「……あーう?」
「……」
「……椎名さん?」

 黙りこくるニキを心配した美雪が触れようとすると、ニキの腕が彼女の手首を掴んだ。無遠慮に力を込められ、骨が悲鳴を上げている。痛みに顔を顰める彼女を気にも留めず、ニキは据わった目で美雪の手首を観察した。

「ほっそいなぁ……食べ出が無さそう。ああ、でも、匂いが……」
「……?」

 ニキは腕から首筋にかけて顔を動かし、「スゥーッ」と鼻を鳴らして美雪の匂いを嗅いだ。首に熱い息がかかった美雪は身を捩る。

「ン〜? この匂いは美雪ちゃんっすね……ほんと、ダメっすよ。僕みたいな男の前でこんな匂いさせちゃ……誘ってるんすか? 誘ってるよね、これは誘ってるだろ。舐めて良いっすか?」
「え?」
「ちょっとだけなんで。一舐めだけ。先っぽ。先っぽだけ」
「……さきっぽ?」
「もう舐める」

 痺れを切らしたニキは了承を得ずに無理矢理美雪を引き寄せた。

「……ぁっ」

 ベロリと皮膚を舐められた美雪ははじめての感覚──宗に脇を舐められたとき、彼女は眠っていたため覚えていない──に震えた。料理人の舌はぬめっとしているようで所々ザラザラしていて、皮膚の上を引っ掛けていった。

「ア〜……あっま」
「……ぅ」
「はぁ、ん。ぢゅ、ぢゅう」
「っ? ……ひ、ぁ」

 ニキは一舐めだけ、と言ったことを忘れて本能のままに舐めしゃぶった。美雪は訳もわからずに目を回してされるがままになっているが、ニキの手がブラウスに潜り込んできたため何とか離れようと腕を突っぱねようとした。空腹のニキの機嫌は彼女に抵抗されたことで更に下がる。

「チッ……動くなよ」

 普段は朗らかなニキから発せられた低い声に美雪が固まると、ニキは気を良くして更に腕を突っ込んだ。逆の手で柔らかい髪を撫でる。

「そう、良い子っすねぇ……お利口にしてたら痛いことしないから。怖くない、怖くないっすよぉ…………お腹、ぺったんこっすね。ほんとに内臓入ってるんすか、これ。もっと肥えさせて、やぁらか〜くしないと…………あーでも、ここはやわっこい」
「……あ、ゃ」
「ん〜? なぁに? 『いや』?」

 美雪がこくこく頷くと、ニキはへらへら笑って柔らかい膨らみに指を滑らせ弧を描いた。

「でもここって、僕が大きくしたようなもんすよね」
「……? ……?」
「美雪ちゃんがいっぱいご飯食べられるようになったのは、僕のお陰。それで栄養が行き渡って美雪ちゃんの体を変えてるんす。だからここは僕のもの。どうするかは僕の自由っす、触ったり舐めたり揉んだり吸ったり、全部全部」
「──ちょ、ちょちょ、ちょっと待ったぁ〜!」

 横暴なニキが美雪の胸に顔を埋めると、天井からマヨイが降ってきてニキを引き剥がし羽交い絞めにする。獣のように唸ったニキは鋭い眼光で背後を睨み、相手がマヨイだとわかるとジュルリと涎を啜った。

「なぁんだ、マヨちゃんの方から来てくれたんすね……御馳走が二つも。ヘヘ、ヘヘヘヘヘヘ」
「ヒッ」
「残さず食べてあげるっすよぉおおおおッ‼」
「ひぎゃああああっ! あ、あわわわっ、美雪さん! に、にげっ、逃げましょう! 空腹時の彼に近寄っちゃいけません!」

 襲いかかってくるニキを必死で躱したマヨイは美雪に駆け寄って立ち上がらせると背後に庇った。ニキは髪を振り乱し、涎を垂らしながら迫ってくる。

「グルルルル……寄越せ、肉、肉、女、女。ニク、オンナ、クウ」
「け、けけけケダモノですぅッ! 幼い頃に狼に育てられた山男! 無人島に漂着して長年自給自足の生活をしたことで人々とのコミュニケーションを忘れてしまった蛮人です! 外からやってきた敵で食糧だと思われてるぅ! だ、誰かぁーっ!」

 必死に助けを求めるマヨイの後ろで美雪がひょっこり顔を出し、両手をワキワキさせながら迫ってくるニキを眺めた。

「……椎名さん、私を食べるために、ご飯を食べさせていたんですか?」
「違うと思いますよ⁉ 極限状態なのせいで誰もが食べ物に見えてるだけです! あと美雪さんのことは食人的にというか性的に食べようとしてた気がします! あの手の感じとか特に!」
「マヨちゃ〜ん……♪ 美雪ちゃんを寄越してくれたらマヨちゃんは見逃してあげるっすよぉ〜?」
「そそそそんなことするわけないじゃないですかぁ! 私はもう、美雪さんを見捨てないって決めたんです! 例え椎名さんに食べられるとしても美雪さんを守ります!」
「……あ。飴ちゃんありました」

 ごそごそとポケットを漁った美雪が発見したキャンディを手のひらに乗せた。マヨイは「これを使うしかない」と美雪に指示を出す。

「そ、それを椎名さんに投げつけましょう!」
「……でもこれ、影片先輩からいただいたもので」
「影片さんは与えた飴の使い道よりも美雪さんの無事を優先すると思いますぅ!」

 何とか説得したマヨイは美雪から飴玉を受け取るとニキに投げた。ニキは個包装されているというのに、投げられたそれをそのまま口に含みガリガリと嚙み潰した。「プッ」とぐしゃぐしゃになったビニール袋が吐き捨てられ、マヨイは固唾を飲んでニキの様子を窺う。

「……たりない」
「へ?」
「こんなんで足りるかぁあああああッ‼」
「きゃ、キャアアアアアッ⁉」

 美雪を引っ張り、一気に襲い掛かって来たニキを既の所で避けたマヨイは、床で四つん這いになって唸っているニキに身震いする。おどおどしながら「だ、だいじょうぶですからね……だいじょうぶ」と腕の中の美雪を励ましたが、人通りの少ない廊下では救援も期待できないだろう。ここは自分が犠牲になるしかない、とマヨイは腹をくくって美雪を放し、恐る恐るニキに近づいていく。

「た、食べるなら私にしてくださいぃっ」
「……マヨちゃんより美雪ちゃんの方が柔らかくて美味しそうっす。皮膚だけであんなに甘いんだから噛んだらもっと甘い。僕が育てたおっぱいも、きっと極上のお乳が」
「美雪さんは妊娠してませんけどっ⁉」
「あ、そっか……──あ! 妊娠すりゃ出るんすよね? じゃあ僕が」
「『閃いた!』みたいな顔しないでください⁉ そんなこと許しませんからね!」

 平静ではないニキの物騒な考えを悟ったマヨイは彼を放置してはいけない、という衝動に駆られて胸倉を掴んでいた。
 いつものニキなら「ぐえええっ締まる締まる!」と無様な鳴き声をあげていた事だろうが、飢餓状態のニキは「ガルルルル……」と牙を剝きだしてマヨイに反抗していた。彼を惹きつけている間に美雪を逃がさなければ、とマヨイが振り返ると、何故か美雪をバックハグしている凪砂がいた。

「え、えっ⁉ ら、乱さんっ? いつの間に、というかどうしてここに……」
「……美雪が怖がっている気がしたから、探してた」
「て、テレパシー……?」
「ガウゥウッ!」
「わぁああッ! ちょ、分かりましたから! 椎名さん落ち着いて!」

 マヨイは助けを請うようにチラチラと後ろの凪砂に目線を送るが、肝心の凪砂は美雪の頬に唇を落として「……怖かったね」と囁いている。

「〜〜あ、あの! 乱さん!」
「……ん? ……君、なんだか大変そうだね」
「そうです大変なんです! 助太刀をお願いしても宜しいでしょうかぁっ⁉」
「……ああ、ごめんね。気が回らなくて」

 凪砂は美雪から離れると暴れるニキの首根っこを掴んだ。躾の悪いペットを叱りつけるように目線を合わせて静かに怒る。

「……君は私の事務所の人間。……大暴れして迷惑をかけて、評判を落とすようなことはしないで欲しいな」
「ウウ〜ッ! 僕のッ、僕の!」
「……『僕の』? ……まさか、美雪のことを言ってる? 違うよ、美雪は君のものじゃない。……それから、美雪の胸は私が育てた。いつも揉んでいるから」
「そ、そこから聞いていたんですかっ⁉ ……──んっ? 『揉んでる』⁉」
「……うん。揉むと大きくなるって、読んだから。やってみようと思って」

 マヨイは白目を剥いてぶっ倒れそうになるのを何とか耐え、美雪が自販機で買ってきた炭酸飲料をニキの口にぶち込んで落ち着かせた。

***

「いやぁ〜すんませんっす! 僕、お腹が空くと誰彼構わず襲っちゃうんすよ〜!」
「そんなに明るく言うようなことじゃないと思いますけど……」

 また空腹になって襲われては溜まったものではないからと、マヨイは一旦大人しくなったニキを食堂に連れてきて注文した商品を食べさせていた。凪砂は美雪の無事を確認すると、「……これから仕事があるから、美雪をお願いね」とマヨイに任せて去って行った。
 満腹になったニキはすっかり機嫌をよくして「御馳走様でーす!」と満面の笑みを浮かべている。

「……お腹が空いたら、寝ると良いですよ。体力を温存するべきです」
「おお、成る程っす。それも生存戦略っすね」

 先程襲われていたのを覚えていないのか、美雪は暢気にニキに助言していた。マヨイは居心地が悪そうな顔で二人のやり取りを見守っている。言うか言うまいか悩んだマヨイは、美雪に顔を寄せて小声で指示を仰ぐことにした。

「あ、あの……さっきのこと、代谷さんには……」
「……ああ。……椎名さんにも事情があるのでしょう。代谷には報告しなくて大丈夫ですよ」
「そ、そうでしょうか……」
「……私は怪我もしていませんし」
「いやぁ……そういうことではないと思うんですが……かなりヤバい事を言ってましたよ? 本当に良いんですか?」
「……やばいこと?」
「ウッ」

 つぶらな瞳に見つめられたマヨイは自分から距離を詰めておきながら呻いた。目をあちらこちらに泳がせ、ニキを盗み見ると彼は追加でオーダーした炒飯を貪っている最中だった。あの様子では彼自身が自分の発言を覚えているかどうか分かったものではない。無意識に、飢餓状態故に出た言葉なのかもしれない。追い詰められたときこそ本性が出る、すなわち『あれ』が彼の本音なのだとしたら、それは見過ごして良いものではないようにマヨイには思えた。

「え、ええと、うーっと……」
「……」
「け、穢してしまいそうなので私の口からは何とも……」

 結局、マヨイはニキのヤバい発言については深く告げることが出来ず、美雪の執事に報告する際もかなり言葉を濁すことになってしまった。

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