実際には見ていない映像が美雪の脳内に流れ出したのは、宗が舞台上で膝をついたからだった。
彼は二年前fineに敗れたとき、舞台袖で英智の言葉にとどめを刺された。美雪はそのときの光景を目にしてはいない、耳にしてもいない。ただ、あの出来事の後にValkyrieが表舞台から姿を消したことで、美雪はあの敗北が彼らに深い傷を残したと知る。
(──宗様、宗様。みか様は、みか様は何処。どうしてこんな……また、またなの?)
美雪は自分の体温が高まるのを感じた、背中から冷たい炎が湧き上がるのを感じた。宗の横に立ち彼を見下す男に対する怒りと、恐怖に震えた。美雪にとっての恐怖のひとつは、Valkyrieが再び舞台から姿を消すこと。Valkyrieが自分の曲を歌わなくなること。悪夢のようなそれが訪れるのではないかと、美雪は小間切れに息を吸った。喉から胸にかけて何かが詰まっているせいで上手く呼吸ができなかった。
観客はほとんどがDouble Faceを観に来ていた。Valkyrieに勝利できるよう、斑が事前にそうなるよう仕向けていた。斑は宗を挑発すれば勝負に乗ってくると確信していた。そうしてDouble Faceの挑戦を受け入れた宗は、みかを目当てにやってきていたほとんどの自分の客を失い斑の策略に嵌ったと悟るが、そのときには不戦を宣言することが出来なくなっていた。
「相変わらず弱いなあ、Valkyrie……ううん、今回は宗さんのみを名指しで批判しようかなあ。二年前の抗争時代から何も成長していない。指先で突けば脆くも崩れる、砂の城だなあ」
斑は敗北した宗に茨とValkyrieの間に起こっている不明瞭な金の動きについて説明するように脅迫した、大人しく吐かなければ今まさに此処で宗が見せている醜態を公開すると。
裏でこはくを案内していたみかも駆け付けるが、こはくが彼の動きを制止した。
(わしらの狙いはあくまでも七種副社長であって、こいつらValkyrieとちゃうねん。単なる踏み台、諸悪の根源に繋げるための糸なんやし──無駄に甚振ってもしゃあないやろ)
過去を繰り返している宗に対して、斑は如何にValkyrieが脆く弱く、詰めが甘く、足元をすくわれ易いのかを説く。
「君たちはライブ対決における勝率が非常に低い。抗争時代には一撃で即死させられ、復活を期した七夕祭でも結果的には負けている。そんな惨めな戦績の、容易く倒せる存在が今日まで狙われなかったのは、皆に情けをかけられていたからだ。あんな悲劇を経験した連中を、更に踏みつけてにじるなんて可哀想だと──みんな遠慮して気を遣っていただけなんだよなあ。……あの子が味方をしてくれているというのに。申し訳ないとは思わないのかあ?」
耳の痛い正論だと宗は感じていた。自分の無様な姿を彼女がどんな顔で見ているのか、想像するのも憚られた。
(──……氷室。清らかな、僕の愛しい人。……僕は君の優しさに甘えて、君の思いを無下にしているのだろう。こんなにも僕たちに尽くしてくれる君のために勝利を持ち帰れないのは事実。……切磋琢磨するものであっても、芸術とは、勝敗で凡俗共を盛らせるための賭け事や競べ馬のようなものではない。君もまた芸術家。それを理解しているからこそ、僕たちに苦言を呈することなく押し黙っているのだろうね。……マイクを通していなくとも、この醜く悍ましい会話は君に聞こえているのだろう。全て。耳を塞ぎたくなるような、塞いでも指の間隙を縫うようにして入り込んでくる残酷な現実に、涙を流してはいないだろうか。……君は、恐らく皆が思うよりも泣き虫だからね。僕は君の微笑みよりも涙を、多く見ている気がする。……今すぐ君の元に戻って、抱きしめて拭ってあげたいよ、氷室)
美雪を想うと、不安定に揺れる宗の心は穏やかに静まっていった。彼女自身が降り積もる雪のようにしんとしているからだろう。
フゥと息を吐いて顔を上げた宗の表情は、みかが心配しているよりも晴れやかだった。悪足搔きや言い訳は自らを更に貶める行為だと、宗は腹を括って潔く斑とこはくの望み通りに茨とのやり取りの詳細について語ることを約束した。
***
Valkyrieの悪徳の香りを嗅ぎ取ることが出来ずに違和感を覚えるDouble Faceは、ライブを終幕させ舞台袖に引っ込むと暗闇の中から迫り来る気配を察知した。気を張っていなければすり抜けてしまいそうなそれは。
「……そうだよなあ。来るよなあ、美雪さん」
「…………」
「悪かったと思っている。君の前では、ただの明るい良いお兄さんで居たかった気持ちはある。本当だぞお? 嘘じゃあない。だからこうして、君を犯罪者にしないように止めているんだ」
斑は美雪が振り上げたものを余裕で受け止めていた。いくら非力な少女であっても場合によっては人の命を奪うこともできるであろう、鈍器だった。斑が掴んで止めた部分は翼のようなものが生えていて、彼の手のひらを抉っていた。出血まではいかないが、間違いなく敵意を持って突き刺していた。
「……これ、レオさんが貰って来てくれたトロフィーだろう? 表舞台に立てない君の代わりに。そんな大切なものをこんな風に使っちゃあいけない。不意を突かれて頭部を殴られていたら、俺は死んでいたかもしれないなあ?」
斑が鈍器を観察して告げても、美雪は真っ直ぐに彼を見つめ返すだけだった。良心を揺さぶるように発言した斑は動揺しない彼女に胸苦しさがする。
「……私が殺人犯になっても、お家が私のことを隠そうとしますから。……貴方が不審な死を遂げたという捻じ曲げられた報道が流れるだけです。……どうせ私も近い内にあの世に行きますから、そうなったら貴方を追いかけてあげるつもりでしたけど、ソロで活動されているから一人には慣れていらっしゃるものね? 道連れが居なくても平気? 貴方、最近お仕事が貰えていませんものね。ご両親にも勘当されたとか。…………恰好の餌食は貴方の方ではなくって? 私が『氷室』を動かさない確信があったの? 私が怒るって分かってて、こういう事をなさったんでしょう? 私が、貴方に何もしないって? そう思ったの? 結局は許して貰えるだろうって思ったの? ……舐められたものだわ、本当に。……貴方たちを消すのはとても簡単でしょうね」
「……美雪さん。宗さんとみかさんが見ているぞ。君のそんな姿を見せても良いのかなあ?」
彼女の背後にいる二人の姿は斑からよく見えた。宗は怒りを露わにする美雪を茫然と見つめ、みかは唇を噛んで震えながら目を大きくしている。
これが二年前なら、殴られそうになっているのは自分が毛嫌いしている英智なのだろう。斑は自身を憐れんだ。彼女に恨まれることになるだろうと理解しながら、彼女の言うように、心優しい少女に許されることを期待していた。
斑の指摘に、美雪は鈍器を握っていた左腕から力を抜いて下ろした。斑は警戒を緩めるが、彼女の右手が襲い掛かってきたためすぐに身構えた。
バチン、と左頬を叩かれた斑はヒリヒリとした痛みに目を瞑った。トロフィー同様止めることが出来たはずの攻撃だったが、彼は受け入れた。受け入れるのが筋だと思った。平手打ちをした美雪は顔を歪めて斑を睨み上げている。
「誰のせいで私がこんな酷い発言をしてると思っているの」
「……俺のせいだな。それは謝ろう。……こっちも叩いておくか? 『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ』とイエスも言い残していることだし。トロフィーは俺が預かっておこう」
「結構。……悪役が嘸かし愉しいのでしょうね。徹していらっしゃって御立派ですこと」
「……皮肉が上手になったなあ」
斑の言葉を無視した美雪の今度の標的は、斑の後ろで身構えているこはくだった。アヴェ・マリアの後から彼女を避けていたこはくは、久々に真正面に立つ彼女を見た。
「……貴方のこと、大事にしてあげているつもりだったのだけれど。恩を仇で返すってこれね」
「……誰も『世話してくれ』なんて頼んでへんわ」
「子どもは皆そう言うのよ」
「どっちが子どもや、『いとさん』」
「……余程、座敷牢に戻りたいみたいだね。貴方はいずれ戻らなければならないわけじゃないでしょうに……お外が楽しいのは分かるけれど、おいたは良くないわ。軽薄に生きるのはお止めなさい。慎重に考えれば、私を怒らせることになるって貴方でも分かったはず。まあ、貴方の相棒はそうなる覚悟の上で動いたようだけど」
斑は横を通り過ぎてこはくに向かっていく美雪を振り返って目で追った。彼女の手には鈍器が変わらずある。こはくであれば躱すことは出来るだろうが、揉み合いに発展しないように警戒していた。打ちどころが悪ければ死ぬのは誰であっても同じことだ。
「……そういえば。貴方は朱桜の分家で、朱桜と氷室の関係を気にしていたよね」
「それが何や」
「……私はお兄様に発言を許された立場ではないけど、ちょっとおねだりをすればお父様も執事も私の欲しいものを用意してくれる。私の願いを叶えてくれる。貴方と同じで、世間知らずだから。世間知らずで我が侭の子どもだから。大人にお願いして動いて貰おうかなって。……貴方のお陰で朱桜と氷室の関係が進展するの。嬉しいでしょう? きっと朱桜くんも喜ぶわ。忌々しい分家が消えて、本家が氷室の傘下に入ることを」
こはくは美雪の胸倉を掴んでいた。このままこはくが力を込め続ければ裂けてしまいそうな柔らかいブラウスが悲鳴を上げている。斑は二人の間に入って抑えようとした。みかも美雪の背後に駆け寄り慌てふためいている。宗は一歩踏み出しているが、その後は動けずにいた。こはくは美雪にぶつける。
「──おんどれッ! 朱桜を吸収するつもりか!」
「こはくさんっ」
「暴れ回るおんどれの兄はんが余所に行ってくれたお陰で漸く落ち着いたっちゅうのに……! 朱桜はわしらを迫害しとった、恨んでる奴もおった。けどなぁ、坊は違う、ちゃうねん。……兄貴があれなら妹もこれか! 似てないっち思っとったけど、よう似とるわ。おんどれは暴君の妹。朱桜の敵の妹や、忘れちゃあかんかった。絆されかけてたわしが阿呆やった……!」
力尽くで二人を剥がした斑は鼻息を荒くして再び掴みかかろうとしているこはくを抑えながら、ブラウスの皺を伸ばしている美雪に伝える。
「美雪さん、美雪さん。聞いてくれ。これは君のためでもあるんだ」
「……私のため? これの何処が?」
ピタリと動きを止めた美雪はゆっくり斑に顔を向けた。
「Valkyrieには不審な金の動きがあった。コズプロの副所長の、茨さんとの間にだ。そんな不誠実な男が君の傍にいるのは危険だ。君は財閥の御令嬢、利用される可能性だってある。まず二人に頼まれれば純粋な君は何も知らずに信じて協力するだろう。だから俺たちは」
「──するわけないでしょう⁉ お二人がそんなことッ‼」
彼女が声を荒げるのを初めて聞いた斑は気圧された。静かに怒っていたはずの美雪は斑の台詞を皮切りに感情に任せてトロフィーを振り上げ何度も斑に向けてぶつけようとした。どんどん威力が下がっていく攻撃を唖然としながら受け止める斑は、美雪の目からボロボロと涙が零れ落ちていくのを見て自然と脱力してしまう。
「美雪ちゃ、美雪ちゃんっ。お、おち、落ち着いて。なっ? 美雪ちゃんも怪我してまうかもしれんからっ……」
相方が情けなく争いを止めようとする様を、彼女が激昂する様を見ていた宗は誰よりも冷静にこの場を見ることが出来ていた。みかの言うことは尤もで、このままでは力尽きた彼女が鈍器を取り落とし兼ねない。宗は斑を叩く彼女の背中に語り掛けた。
「氷室」
「……っ」
「氷室」
美雪は斑に最後ぽかりと弱弱しい一撃を放ち、宗に振り返った。宗は髪を乱れさせている彼女に手を伸ばす。
「僕は大丈夫。平気だよ。おいで」
「……ぅ」
「おいで。怒っていない。君と同じで、失望してもいないから。……君を抱きしめたいんだ、どうか来て」
それでも渋っている彼女に宗は苦笑すると自ら歩み寄り、手を取った。斑から離れ、上から垂れ下がる幕が重なり真っ暗な影を生み出している場所に導いた。肩を上下させ目を擦る美雪の手を止め、彼女の顔を自分の肩に押し付けるように背中に腕を回す。衣装に彼女の涙がついても構わなかった。
「……心配させてごめんね。僕たちの代わりに怒ってくれてありがとう。大好きだよ、愛しているよ、氷室。もう大丈夫。君に酷いことを言わせてしまって、ごめんね。ありがとう、……ありがとう」
そっと二人の後を追いかけたみかは二人の世界が誰にも邪魔されないよう暗幕の両端を合わせ、宗の言葉と美雪の泣き声に耳を澄ませた。
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