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「──だからまぁ、事故だったんですよ」

 骨董市開催後、あんずはその舞台と裏で何が起こっていたのかを確かめるべく、関係者と言えるであろう人物に話を聞いていた。北斗や凪砂の後、元アイドルであり教師であり大人である章臣が解説をしていた。

「疑われるような動きをしたValkyrieが悪い──というと美雪さんは怒りそうですが。……ええ、彼女は去年の秋頃からよく舞台袖に来るようになりましたからね。ValkyrieとDouble Faceが衝突したという例の公演にも、骨董市にも来ていましたよ。骨董市では随分落ち着いていましたけど……フラッシュバック、というのでしょうかね。彼女はValkyrieが失墜した二年前のライブを映像でしか見ていませんが、あれから彼らが舞台から姿を消し、いくら彼女が曲を送り続けても歌われないという期間がありましたから。不定期公演の裏でDouble Face側に攻撃的だったと伺いました」

 眼鏡を外して眉間を揉んだ章臣に、あんずは何があったのか尋ねた。章臣は鋭い瞳であんずを見遣った後に眼鏡をかけ直す。転校した当初はその目を恐れていたあんずだったが、今では慣れたものだった。

「……人伝ですし、私は美雪さんのお父上に恩がありますので氷室財閥の不利になるようなことを言うのは控えます。……そう、今回は、というかこの業界の大体のことにはお金が絡んでいますね。最初から氷室財閥に頼っていればこうはならなかったかもしれません」

 宗も由緒正しい家柄だが、アイドル活動で金銭の援助を得ないと啖呵を切ってしまっているため、斎宮家から支援を得るという選択は難しかったのだろう。ならば、Valkyrieの傍に居る彼女の家、氷室財閥からの援助を望むことは出来なかったか。斑の言うように、宗とみかから頼まれれば、美雪は躊躇せず氷室の父に願う。

「ですが斎宮くんも影片くんも、美雪さんに頼ろうとは思わなかったんですよ。まあ、気持ちはわかりますよね。男としてというか先輩としてというか、芸術家としてというか。プライドがあったんでしょう、情けない姿を見せるわけにはいかないという。金銭の賃借は友人同士でも推奨できたものではありませんし、学生同士でするものではないので、そこは教師としては褒めてあげても良い点です。彼らは彼らなりに自分の周りだけで解決しようとしていたんでしょうね」

 章臣から解説されずとも、あんずはValkyrieの二人が美雪を頼ることはないと理解していた。そもそもあんずは「氷室財閥を頼れば良かったのでは」という考えすら浮かんでいない。

「まあ、恵慈さんは非常に腰が重いというか、『本当にまずい状況』にならないと動き出さないですからね。鳴かないホトトギスを殺すか鳴かすか問われれば、『鳴くまで待つ』タイプといったところでしょうか。気が長いというか。その『状況』を見極める力に長けていますし、腰が重くても素早く対処してしまうんですけど……美雪さんがお願いしても直ぐに動いたどうかは分かりません。……しかし、御子息には放任主義的ですから子どもには甘いんでしょうか。美雪さんはあんなお顔ですからお強請りされたら叶えてあげたくなるという気持ちも分からなくはな…………こほん、今のは独り言です」

 自分からは氷室財閥のことは話せない、という割に喋っているように思えたあんずが言いたげな表情を浮かべていることに気づいた章臣は、咳払いをして誤魔化した。

***

 ビルを出たところで雨がいまだに止んでいないことに辟易したのに加えて、すぐ近くに美雪が立っていることに斑は思わず口の中で舌を噛んでいた。
 相応の対価として骨董市での敗北を捧げたとはいえ、衝突した舞台で嘲るような発言をした斑に対して宗は寛容だった。みかもこはくに寛大だった。一度地に落ち絶望を知った彼らに耐性がついていたと考えるべきか、穏やかな美雪の影響と考えるべきか。

 あの場で一番怒りを露わにしたのは他でもない彼女だ。Valkyrie当人ではない──彼女をValkyrieの一員として数えなければ。骨董市でいつものように舞台袖で眺めていた彼女は、Double Faceを咎めないValkyrieの二人を見て何も言わなかった。

 彼女が脅迫したように、斑は自分が氷室の手によって『どうにかなる』覚悟をしていた。いざそういう場面になったとき、「こはくは自分が巻き込んだだけだから手を出すな」という準備もしていた。しかし今のところ、何も起こっていない。何も起こっていなくて可笑しいくらいに。

(Valkyrieと同じように、俺たちを許したってことだろうか……それは都合が良すぎるか。精々目を瞑ったと考えよう)

 斑は美雪に気づいていながら横を通り過ぎて行こうとする。早足にビニール傘を開こうとすると斜め後ろから鈴が鳴った。

「……三毛縞先輩」
「…………話しかけられるとは思わなかったなあ」
「……いけませんでした?」
「いけないというか、気まずいだろう」

 斑は諦めて立ち止まった。いつでも会話を終わらせて立ち去ることができるよう、ビニール傘は開いたまま。美雪は屋根のある場所に立ったまま斑から目を逸らし、空を見上げた。

「……天気が、悪いですね」
「……ああ。そうだなあ」

 釣られて空を見た斑は、去年『天気が良い』と『天気が悪い』という表現は何かと彼女に質問されたことを思い出した。傘の上で弾かれた雫が集まり、流れるように落ちていく様が見える。伝った水が傘から離れていくと同時に、美雪が口を開いた。

「……ごめんなさい」
「……」
「……私、あのとき貴方に、酷いことを言いました。……桜河くんにも」

 斑はぎゅっと持ち手に力を込めた。

「どうして謝る」
「……後悔したから。桜河くんは……Double Faceが結成した辺りから私を避けています。嫌われているのかもしれないと思っていたのに、もっと嫌われるようなことを言いました。……お世話になっている貴方にも無礼を」
「君に恨まれるだろうと知った上で行動したんだけどな。こんな簡単に謝罪して不問に処していいのかあ? だから舐められるんじゃないのかな。都合よく利用されて傷つけられてもヘラヘラしていたら、喰われるぞ。そして取返しのつかないことになる。人が皆生まれながらに善意が備わっているだなんて性善説を信じているのかもしれないけどなあ、君が思っている以上に世の中は悪意に溢れている。宗さんがメルヘンだから、君もメルヘンなのかな」

 悪かったと謝罪してくる彼女に、斑は自分の心が如何に荒んで汚れているのかを突き付けられている気分になった。普段だったら絶対に彼女に言うことはなかった煽りが口から出てくるが、ぐっと服の裾を引っ張られ噤んだ。

「……私が話しています、最後まで聞いて」
「……」
「……今の貴方の発言は、赦されたくないみたいです。また私を怒らせて、嫌われようとしているみたい」

 美雪は斑の服からそっと手を放す。その小さな手に叩かれたんだった、と斑は頬に指で触れた。

「……考え直したのは、斎宮先輩と影片先輩が何事もなかったかのように貴方たちと接していたからではありません。……貴方のことを調べたから」
「俺のことを? ……はっはぁ、成る程。俺の出自や現状を知って憐れんだってことか。だが『こっちの世界』のことを君みたいな子が知ったら穢れが感染してしまうぞ。面白いものではなかっただろ」
「……面白さを求めて調べるわけがないでしょう」
「どうだろうなあ。相手の弱みを握るのが楽しくて仕方のない人だっている。英智さんとか」
「……どちらかと言うと七種さんの方がその傾向があるように思いますけど、まあ、相手より優位に立つと自分の思い通りに事を運びやすいですからね」

 美雪はそこで一度区切って斑を見上げた。数秒見つめ合う間が生まれるが、斑は見透かしてくるような瞳に耐え切れず先に逸らした。美雪はゆっくり瞬きをして雨景色を眺める。

「……貴方の妹さん、歩けないそうですね」
「……」
「……それを聞いて、やめておこうと思いました」
「何故? 俺と妹はそこまで仲が良いわけではないぞお。寧ろ悪いというか、俺はあれに恨まれているだろうからな。俺が居なくなることで君が妹に恨まれることはないし、妹が悲しむこともない」

 幼いときこそ妹を治して欲しいと神に、幼馴染に願ったほどだったが、斑はそのとき『神』が存在しない現実を知った。昔は仲が良かったのかもしれない。斑にも純粋な時期があった。だが両親があれではいつまでも純粋であることはできなかった。

「……貴方、はじめて立ったときのことを覚えている?」
「いいや? 覚えていない。普通はそうじゃないかあ?」

 美雪の思いがけない質問に斑は怪訝な表情を浮かべた。美雪は頷く。

「……そう。二度目も三度目も、その段階で物心はついていませんから、普通は覚えていないもの。……けれど、私ははじめて立ったときの感覚なら、経験したことがあります。実際にははじめてではなかったけれど、そのときは、はじめてのような気持ちだった」
「……歩けなくなった時期がある、ということか? 病気か?」

 彼女の言葉から推測した斑の確認に、美雪は今度は小さく首を振った。

「……いいえ、病気ではありません。……兎に角、そういうことです。私が同情したのは妹さん。貴方の生い立ちにではありません。……そもそも、生まれで人の清濁が決まるものではないでしょう。卑しい出でも聖人は居ます、尊い出でも救いようのない人は居ます。……だから、どうか怒らないで。同情を見下されているように感じて腹立たしく思う気持ちは……少しだけ、わかるような気がします。触れられて不愉快にさせてしまったのなら、ごめんなさい」

 二回目の謝罪に斑はこの場から今すぐにでも逃げ出したい気持ちになった。勘違いだったとはいえ、彼女の大切なものに手を出したのは自分。そして自分は彼女に頭を下げていないというのに。

「……貴方にも、桜河くんにも朱桜くんにも、何もしませんから。それを、桜河くんに伝えてください」
「自分では言わないのかあ?」
「……さっき言ったでしょう。彼に避けられているので。私は忍者でも暗殺者でもないから、あの子に近寄りたくても近寄れないんです」
「……そうか。わかった、伝えておく」

 自分にできることは彼女の言伝をこはくに届けることだろう。それが償いになるわけではないが、斑は素直に受け取ることにした。

「……引き留めてごめんなさい」
「もう謝らないでくれ。堪えるから」
「…………そうですか、わかりました」
「……君、俺を待っていたのか?」

 迎えを待っているのかと思っていた斑だったが、彼女の身分から考えて、送迎車に待たされているという推測は間違っているように思えた。到着すれば呼び出されるだろう。それなのにビルの外に立っているということは、誰かを、自分を待ち伏せしていたかのように斑には見えた。ところが美雪は斑の問いに少し目を丸くした。

「……いえ、偶然です。ただ、気分転換をしていただけ。……ペトリコール、石のエッセンス。雨の匂いと呼ばれる、アスファルトと埃の匂いを嗅いでいただけ」
「珍しいなあ。作曲に行き詰っていたのか?」

 数か月前にスランプに陥っていたレオを思い出したところで、美雪には彼と同じように優しく明るいお兄さんで接していたことを想起した斑は自業自得で心臓を抉られた。隣に立つ大男がそんな心境になっているのも知らずに、美雪は小さく零す。

「……私が思っている以上に時間がないことに気づいたんです。……出来るだけ沢山残しておかないと」
「?」
「……それもあって、今回のことは水に流すことにしました。……fineを許して貴方たちを許さないのは平等ではないでしょう?」
「歪な博愛だなあ。平等な愛は誰も愛していないことと同義だぞお」
「……特別な人はいますよ。……憎み続けるのにも労力を費やしますから、そんな暇があったら負の感情を糧にして創出した方が何倍も良いだけ」
「……本当に、宗さんのところの子だな、君は。レオさんとは違う。あの子は存外打たれ弱いからな」
「……斎宮先輩の方が神経質で繊細だと思いますけど」
「方向性と関係性の違いかなあ」

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