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 東北予選はトーナメント式のライブ対決をおこなったため、他の地域よりも早く予選会が終了した。最終戦でSwitchを倒した宗は今度こそ美雪に勝利を持ち帰ることができると思っていたが、然うは問屋が卸さなかった。

 予選をトーナメント式に変更するのを申し出たのはSwitchだったが、運営側はそれを許可していない。東北予選に参加するユニットだけで勝手に進めたものである。みかは最終戦で勝利したとはいえ、正式にValkyrieの本戦進出が決まったわけではないと、『斎宮宗をお師さんと呼んではならない』という指令に違反して罰金を科せられないよう注意するつもりだった。

 そんな彼が迷い込んだのは敬愛する芸術家であれば発狂してしまいそうなジャングル。宗の悲鳴を聞きつけたみかが彼を探すと、「お師さん」と呼ばれた宗はプリプリ怒った。

「ノン! 僕のことを『お師さん』と呼んではならないのだろう? 君の足りないおつむでは指令だの何だのという難しい規則は理解できないのかもしれないけどねッ!」
「いやいや、ちゃんと理解してたし考えてたで〜? お師さんもおれの頭の中の住民なら知ってるやろ?」
「は? 頭の中?」

 頓珍漢なことを抜かすみかに宗は首を傾げる。みかはこの妙にリアルな質感の世界を自分の夢の中だと思い込んでいた。

「これって、おれが見てる夢やろ? ってことは今おれが見てるお師さんはおれが妄想で創り上げたお師さんで……」
「だからお師さんと呼ぶな!」
「んあ〜? せやけどまだ代わりの呼び名を思いついてへんねんよ〜?」
「普通に『斎宮先輩』などと呼べばいいだろう、何を悩むことがある?」
「あ、美雪ちゃんとお揃いやね♪」

 みかが美雪の名前を出した途端、宗は目を剥いてみかの肩を掴み、焦ったように言う。

「ノン! 仕事の間はあの子の名前を出してはいけないとあれ程……!」
「そ、そうやった……ごめんなぁ? でもこれおれの夢やし、大丈夫やない?」
「常日頃、夢の中でさえも気をつけろと言っているのだよ。誰が聞いているか分からないからね」
「そんなぁ。おれらが一緒に居て美雪ちゃんの名前を出さない方が難しいやん」
「だぁから! 口を縫い付けるよ⁉」
「ん〜。じゃあなんて言うたらええの?」
「それは……」

 そこで宗は自分が舞台上で隠語のように「あの子」としか呼んでいなかったことに気が付く。名波哥夏は顔出しこそしていないが、その名前から女性であると推測しているファンもいる。男性アイドルのファンの割合はどうしても女性が多くなってしまうため、彼女に敵意が向かないよう、宗は敢えて親しくしているのを表に出さず名前を伏せていた。──理由はそればかりではないが。

「……『哥夏ちゃん』とか?」
「哥夏ちゃん」
「いや、『名波さん』の方が良いかな」
「哥夏ちゃんも可愛えなぁ♪」
「ノン。『名波さん』にしたまえ」
「哥夏ちゃんにするぅ。気に入った♪」
「僕を無視するな!」

 みかは今まで呼んでいなかった彼女のもう一つの名前を偉く気に入ったらしい。宗の指示をスルーして、上目遣いで彼を見上げる。

「お師さんのことは何て呼ぼか。お兄ちゃんって呼んでも良ぇやろか……♪」
「ノンッ! よくわからないが気色悪いッ!」
「え〜? おれの妄想の産物なんやから、もっとおれに都合の良い反応をしてほしい!」
「だから、さっきから何を言っている? これは僕が見ている夢だろう? つまり君が言っていることは事実とは逆で──」

 宗もみかと同じように、この世界が自分の夢だと思い込んでいた。こんなことをしている場合ではない、早くこの居心地の悪い夢から醒めなければ、と宗は今自分たちがいる場所も把握していないというのに歩き始めた。みかはその後ろを追いかけていく。

「こんなジャングルになど、どんな醜悪な虫や獣が蠢いているか分からないからね! 一秒だって呼吸もしていたくないのだよ!」
「んあ〜、お兄ちゃんは都会っ子やからね〜♪」
「だからお兄ちゃんと呼ぶな! 君のような弟を持った覚えはない!」
「せ、せやったら、ダーリンって呼んでも良ぇのん……?」
「その呼び方は一番ナンセンスだろう! 忘れたのかね、天城の一件を!」
「んあっ、せやった! ダーリンは禁句や!」

 失言した、とみかは口を押さえた。MDMの時期に燐音が美雪に接近し、『ダーリン』と呼ばせていたせいで様々な憶測が飛び交った。宗もみかも彼女に交際相手が出来たのではないかと思い、仕事に手がつかなかったあの一件の発端とも言える単語で呼ばれることを、宗は何としてでも拒否したかった。

「……影片。あの子は異常ないかね、何か困っていることは?」
「あ、うん。寝る前にも連絡してみたけど、大丈夫だから専念して〜気にしないで〜言うとったで」
「一人にしてしまったのだから心配して当然だろうに……まったく、いじらしいね」
「ほんまに。普通に学校通って作曲してるみたいやで。ときどきESにも行く言うてたけど」
「ESに? 今はどのアイドルも予選中で、新曲を急ぐ必要はなかったと思うけれど……まあ良い。忌々しい指令のせいであの子の動向を掴めないのが苦しいよ。逐一報告するようにね」
「ほーい♪ お兄ちゃんもいや〜な指令喰らったなぁ」
「明らかに嫌がらせだろうね」

 指令は天祥院英智が考えたものだ。マンネリ化防止のために、そのアイドルの個性を敢えて封印するような指令もあれば、予選進行の妨害をしそうな者には足枷となるようなものが与えられている。宗が受け取った指令は、『名波哥夏と連絡を取ってはならない』というものだった。指令が公表されることはないため、宗と美雪が親密な仲だということは表沙汰にならないが。それでも宗はこの指令を職権乱用だと思わずにはいられなかった。

 とはいえ、指令を破れば罰金が科せられる。Valkyrieの所有するSSL$が大幅減するのは美雪にとっても望ましいものではない。故に宗は律儀に指令を守って、自分が連絡出来ない代わりにみかに連絡を取らせていた。

 二人はジャングルを歩いていく。抜けた先で、夢の中と思っていたこの世界で与えられる新たな試練があるとも知らずに。

***

 ゲートキーパーが「東北へ向かう」と告げると、宗と連絡の取れない美雪は当然「着いていく」という選択をした。予選中、ゲートキーパーはあちこちで起こるトラブルの火を消しに行くために神出鬼没と化していた。

 シンセカイ内部の怪しげな動きを察知したゲートキーパーはSwitchに接触し、SSVRSを使用することにした。宿の一室に専用の機械を用意し、シンセカイへと入った。ゴーグルを装着している間は現実世界では身動きが取れない。

『影片! 先程から何が起きているのかねッ? どうして僕の周りに複数のマドモアゼルが……? 否、どちらも偽物なのだろうけど! 視界にふよふよと愛らしいマドモアゼルたちが浮遊していて、目の毒なのだよ! 興奮のあまり馬鹿になってしまいそうだ! これがあの子だったら発狂してる‼ いや、こんな世界にあの子のアバターがあったら僕は小僧とは言えど鉄槌を下すけどね⁉』
「…………」

 ゲートキーパーは自分が出資したシンセカイの機能を確認するために映像録画をしていた。そのために必要な機材として設置されたスクリーンには彼が見ている映像が映し出されている。ゲートキーパーが自分に隠れてこそこそ動いている気配を察知した美雪は部屋に侵入したのだが、宗が浮遊するマドモアゼルに頬を染めている状況を目の当たりにして表情が死んでいた。美雪にとってマドモアゼルは嫉妬の対象、それにうつつを抜かしている宗の姿は彼女の心を冷え切らせた。

 美雪が部屋に侵入したことを知らないゲートキーパーは頭部に機材を装着したまま、シンセカイ内で二体目のマドモアゼルとして動いている。Valkyrieに向かってシンセカイをログアウトするよう命令する。

『てめえらにその方法を教えたら、さっさと帰られる可能性が高かったしな。それじゃあ困ると思って、シンセカイを運営しているSwitchがてめえらにはその方法を教えなかったんだろうよ。だが、俺はちっとも困らない。俺は、てめえらのことは眼中にね──うおっ⁉』
『……?』
『……?』

 突然二体目のマドモアゼルの動きが荒ぶり始め、宗とみかは揃って同じ方向に首を傾げた。
ゲートキーパーはゴーグルを外され、強制的に現実世界に引き戻された。目の前にはゴーグルを持った美雪が立っている。

「え、美雪さま……? ど、どうされたのです──うっ⁉」

 ゲートキーパーは脇腹を蹴られる。避けることなど彼には容易かったが、美雪の細足から放たれる攻撃を受け止めないという選択肢はなかった。眉間に皺を寄せた美雪は脇腹を抑えるゲートキーパーを冷たく見下す。

「……無礼者。お二人は私の特別、言葉遣いには気をつけなさい」
「──ひゃ、ひゃい♪」

 だらしなく頬を緩めたゲートキーパーは回らない舌で返事をした。ゲートキーパーに手伝ってもらいながらゴーグルを装着した美雪は、二体目マドモアゼルのアバターの体を得た。見慣れない電子世界を見渡し、目の前にいる二人に話しかける。

『……なかなか、不思議な世界ですね。……これを使えば私も海の外へ行けるのかしら? ……作られた偽物の世界は虚しいかもしれないけど、何も知らないよりはずっと良い』
『──まさか、君かい?』
『哥夏ちゃん?』

 マドモアゼルの見た目にマドモアゼルの声だったが、Valkyrieは操縦している人物が変わったこと・それが美雪であることが言葉から分かった。みかからいつもと違う呼び方をされた美雪は目を丸くした。

『……哥夏ちゃん? その呼ばれ方は初めてです、今後はそっちで呼ばれるということですか?』
『い、いや。お師さんからそう言われて……』
『誰が聞いているか分からないからね。僕たちから発せられた単語から勝手な憶測が飛んでは困るため、君のことは敢えてあまり言及しないようにしている。影片は慌てると指令すら守れないから、君の呼び名を変えさせたんだよ』
『……成る程。納得しました、ありがとうございます』

 相手が美雪になった途端、宗もみかもふっと警戒心を解いた。これが自分を装った何者かだったらどうするのだろう、と美雪はぼんやり思う。すると、宗が突然距離を詰めて来た。

『ああ、君がマドモアゼルの体なんて……なんだか嬉しいような寂しいような、複雑だよ』
『……アバターの替え方はどうやるんでしょう』
『え、替えてしまうのかい⁉』
『……貴方の大好きなお人形さん越しに見つめられるのは腹立たしいです』
『そ、そうは言っても、ここに君のアバターはないはずだよ? このままで良いじゃあないか』
『……まあ、長居をするつもりはありませんから良いでしょう』

 美雪がふよふよとアバターを動かしてみると、宗は「ぅ、ふふ、ふふふ」と不気味な笑みを零した。美雪の悪魔マドモアゼルのアバターの元に、天使マドモアゼルのアバターが寄ってくる。

『貴方は氷室美雪さんですね? ほっちゃんから聞いてますよ、可愛い後輩だからお前は絶対に触れるな、と♪』
『んああああっ! 折角おれが呼ばんようにしとったのにぃ……!』
『大丈夫ですよ、ここでのあらゆるアイドルの動向は録画されてますけど、きっちり編集されて後々公開されるだけですから。君たちにとって不利益な部分はカットされますよ。彼女の名前を出すのが駄目だと言うなら、そういう風に編集されますから。今も昔も、女性の存在を仄めかすと所謂ガチ恋と呼ばれるファンが面倒ですからね。僕も結婚のとき似た感じの人がいたので、賢明な判断だと思いますよ』

 天使マドモアゼルを被った氷鷹誠矢はウンウン頷いた。美雪はゴーグルをつける前にゲートキーパーが「氷鷹を呼び戻そうとしていただけで……」と言い訳をしていたことを思い出す。

『……氷鷹先輩のお父様』
『あ、良いですね、お父様って。できれば斎宮くんの裏声じゃなくて生身の貴女の声で言われたいものです』
『……機会があれば』
『はい、是非』

 ふよふよと会話をするマドモアゼルの見た目だけなら愛らしいが、中身が美雪と誠矢だと思うと身震いがしたみかは飛び跳ねて抗議する。みかにとって誠矢は得体のしれない綺麗なおじさんだった。

『ん〜〜あ〜〜〜! 仲良くせんといて! 美雪ちゃんに関わらんで!』
『おや? 哥夏ちゃん呼びを忘れてますよ?』
『この人ほんっま嫌い!』

 みかは頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いた。

『……門番、ゲートキーパーが貴方を呼んでいます』
『ほう?』

 美雪の言葉に誠矢は意味深な相槌を打った。会話を聞いていた宗がピクリと反応する。

『……待て。君、奴と知り合いなのかね? いや、アバターを共有しているということは近くに居るのか……? ──その男は危険だからすぐに離れるのだよ! この世界にいる間は体を動かせない! 身動きの取れない君にゲートキーパーが何かするかも……!』
『何やって⁉ や、やめろー! 美雪ちゃんに触るな、変態、オッサン!』
「誰が変態だこのクソガキ。俺を変態呼ばわりして良いのは美雪さまだけなんだよ」

 スクリーンに映るみかの暴言に、ゲートキーパーは眉を顰めた。相方に便乗して宗も彼を罵倒する。

『不気味な造形をした眉毛の中年め‼ この子に近づくな‼』
「──アァ?」

 流石のゲートキーパーもやけに具体的な悪口に立ち上がりかけた。が、シンセカイ内の美雪が発言したため止まる。

『……大丈夫です。彼は私の犬なので』
『……犬?』
『犬?』
『犬』

 宗、みか、誠矢が順繰りに復唱した。美雪の横でゲートキーパーは恥ずかしそうに頭を掻いた。ゲートキーパーがシンセカイに入った目的を達成し、宗の安否の確認もできた美雪は二人に向かう。

『……そろそろ戻ります。……くれぐれも、無理はなさらないで』
『あ、ああ。……もうお別れか』
『……予選が終われば、またいつも通りです。触れ合うのは生身の方が良いでしょう?』
『触れっ……そ、そうだね』
『……お兄ちゃん、たぶん哥夏ちゃんが言うてるの、物理的な触りっこじゃないで?』
『五月蠅いっ、分かっているのだよ! 僕がそんな不埒な妄想をするとでも⁉』

 その後、美雪と誠矢はログアウトしてシンセカイから姿を消した。この時点でログアウトしておいて良かったかもしれない。もししていなければ、美雪は汚い斎宮宗と綺麗だけど汚い斎宮宗を見ることになっていた。そんな宗を見れば流石の美雪も立ち眩みに襲われていただろう。

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