26

「──もうっ、嫌い!」

 部屋に入ろうと扉を開けた瞬間、日和の耳をそんな声が貫いた。高いそれが親友のものでなく、親友の片割れで本来であれば自分の家で保護するはずだった少女のものであると瞬時に認識した日和は、彼女のそんな声を初めて聞いたことに戸惑いながらもドアを開け切って中の状態を確認した。

「なんで勝手に決めるの⁉ 酷い、酷い! 嫌い! なぁくん嫌い!」
「……美雪」
「嫌! 触らないで! いや! や……!」

 仲睦まじく過ごしているゴッドファーザーの双子が対面し、片方は泣き喚き、片方は動揺していた。凪砂は癇癪を起している美雪に手を伸ばすが、美雪はそれらを全て叩いて払っていた。「嫌い」と言われたことが凪砂の中で響いているのか、彼の表情は強張っている。

 拒絶しても触れようとしてくる凪砂に、美雪はとうとう近くの机の上にあった自分の所持品である小さなぬいぐるみやペンケースなどを掴んで投げつけ出した。凪砂は腕で顔を庇い、眉を顰める。日和は駆け出して二人の間に入り、仲裁を図った。

「ちょっとちょっと君達! なんで喧嘩なんてしてるの⁉ いつも仲良しさんだよねっ? 美雪ちゃんは物を投げない! 凪砂くんはステイ! 無理に近づこうとすると火に油を注ぐようなものだね!」

 日和が手のひらを突き出して指示を出すと、凪砂はぐっと脚に力を入れて踏ん張った。美雪は次に投げようとした恐竜のぬいぐるみを振りかざして制止する。二人の動きが止まったのを確認した日和は「良い? そのままだね」と手を下ろし、何があったのか詳細を尋ねた。

「それで? なんで揉めていたの?」
「……」
「……」
「黙ってちゃあ分からないね。お口がついてるんだから説明できるよね?」

 日和は一先ず、黙りこくっている二人に座るよう促した。凪砂も美雪も大人しく従い、叱られて拗ねた子どものように俯いて正座をする。

「じゃあ、まず美雪ちゃんから聞こうかな」

 埒が明かないと思った日和は珍しく感情を放出していた美雪から話を聞くことにした。

「……だってなぁくんが、私は嫌って言ってるのに、勝手に決めて」
「何を決めたの?」
「……違う、私は」
「凪砂くんは待ってて。今は美雪ちゃんに聞いてるね」

 凪砂が口を挟もうとしたのを止め、日和は美雪に続けるよう言う。美雪はちらりと凪砂を横目で見て、彼と目が合うとすぐさま逸らした。

「……事務所を、決めて」
「事務所? ……ああ、作曲家の名義をどこに置くかって話だっけ。茨からサミットで揉めたって聞いた気がするけど」
「……違います」
「違う?」
「…………作曲家じゃなくて、アイドル」
「──んん?」

 肩を落としながら言った美雪の言葉に、日和は梟のように首を傾げた。目まで回し、上を向いて考える。

「……え? つまり凪砂くんは美雪ちゃんがこんなにも可愛い女の子だから、アイドルに成るように、アイドルとして、事務所に所属させようとしたってこと?」
「……うん。そう、そう。私は美雪にアイドルに成って欲しい。だからコズプロの契約書に美雪の筆跡を真似してサインを書いて、茨に渡した」
「いやいや、何を勝手なことしてるの? それって立派な偽装工作だね?」
「……茨も驚いていたけど、嬉しそうに受け取ったよ」
「遣り兼ねないね……」

 容易く想像できた日和は呆れる。彼のことだ、アイドルとして籍を置くのであれば自分好みにプロデュースし、更にコズプロ内で名波哥夏の曲を独占しようとするだろう。名義が氷室美雪であれ名波哥夏であれ、彼女であることには変わりない。凪砂に偽装されたとしても、彼女を手に入れることができるのであれば七種茨はそれに乗っかる。

「……それを美雪に言ったら、美雪が怒った」
「そりゃあ勝手にされたら怒るよね?」
「……何故? 私と美雪は、父からアイドルに成るよう言われた。私は父の夢を果たそうとしているだけ。……美雪の作曲の才能は天賦、神からの贈り物。それを活用しているのは良いことだけど、作曲ばかりに気を取られてはいけない。美雪は私と共にアイドルに成らなければならない」
「嫌」

 凪砂は即座に反応した美雪を睨んだ。

「さっきからそればっかり。嫌、嫌、嫌。……なぜ父から与えられた使命を全うしようとしない? なぜ放棄する? なぜ逆らう? ……神父が父から受け継いだ芸能界の人脈を駆使して、私が美雪を支えてあげる、導いてあげる。門番もそれを望んでこの国を去った。名残惜しそうにしていたけれど、自分は美雪に命令できないからって、私に託してね」

 言うことを聞くはずの犬が恨めしく感じた美雪は手の中のぬいぐるみを握り潰したが、可哀想に思い、すぐに力を抜いて頭をそっと撫でた。凪砂に向かって投げたせいで辺りに散らばっているぬいぐるみ達に対しても申し訳なくなる。

「……美雪。天命から逃げてはいけない。……忘れてしまった? 父との約束」
「……あれは約束じゃないもん」
「いいや、約束だ。そして命令。父はあのとき、私たちに刷り込んだんだ。……神父が父から奪った権威を手にしたとき、私はこの為に力を受け継いだのだと悟った。私は父の意志を継ぐ。……だから、ね。美雪」
「もう、やめて」

 凪砂は弱弱しく拒否する美雪の腕を下ろさせ、言い聞かせるように肩を掴む。

「美雪が頷くまで止めない。……聞いて、美雪。聞いて。アイドルに成ろう」
「嫌」
「アイドルに成って」
「やめて」
「……アイドルに」
「やだ」
「成れ」

 畳みかけるように言われた美雪は唸るような声を喉の奥から発し、凪砂の手を払おうと暴れる。

「美雪っ、落ち着いて。私の話を聞いてよ……!」
「嫌って言ってる! 嫌って言ってるのに……! 新しいことを言って、また私を塗り替えようとしないで! なんで皆そうなの……⁉ 殿方はいつもそう、男の人っていつもそう! もう終わる! 終わるの! 私の全部をValkyrieにあげて終わるから! Edenは知らない! もう知らない! 皆知らない……‼」
「──美雪ちゃん……⁉」

 押し上げてくる彼女の怒りに凪砂が狼狽えた。その隙に美雪は彼の手を振り払い、日和の声も無視して部屋を飛び出した。

 涙を拭うことも忘れた美雪は我を忘れたように、目的地も定まらないまま走る。コズプロ事務員たちは突然現れて走り去っていく美雪の後ろ姿を丸くした目で追った。

「──氷室?」

 事務所を抜けたタイミングで、美雪の聞きなれた声がした。彼女が振り返ると、SSが終了し、あと一日で日本を経つ予定の宗が立っている。彼は美雪が涙を流していることに気が付くと反射的に駆け寄り、人目につかないよう引き寄せた。

「どうした、何があった?」
「な、ぁ、……っ、う、ぅ、はっ、ぁ」
「ああ、すまない。大丈夫、無理に喋らなくて良いよ。落ち着ける場所に移動しよう。……僕が傍に居るからね、何も心配はいらないよ」

 優しく頭を撫でて囁いた宗は誰もいない場所を探すために事務所を離れた。

***

 レオは天井を見上げている。巨大なキャンバスのようなそれは、もしレオがよじ登ることさえ出来れば、あっという間に五線紙代わりにされそうなものだった。彼のコンディションが良ければ、の話だが。

「……そういえばミケランジェロは天井画を描いて、落ちてくる絵の具のせいで失明したんだっけ。良いなぁ、彫刻家だったけど絵も得意で、芸術で燃え尽きた感じ。ミケランジェロはイヤイヤだったらしいけど。おれも曲を書きながら死にたいな。書きかけの曲なんて残さないで、全部全部終わらせてから、音楽に包まれて、おれも歌の一つになるみたいに。……そのときは、あいつの曲が良いな」

 何気なく呟いた言葉だったが、彼は思い浮かべている乙女にも似たようなことを言われたのを思い出す。あれは肌寒い、冬になりかけた晩秋の頃。八つ当たりするようにして彼女と相対することになった臨時ユニット抗争。舞台袖で彼女に言われた言葉。

「……あー、駄目だな。おれやっぱ今だめ。おれのことは否定しても良いからおれの曲は否定しないで〜……いや、曲はおれ自身だからおれも否定しないで〜。うう、またスランプになっちゃうよぉ……そしたらKnightsは新曲出せなくなるし、それでおれが見捨てられるようなことは無いけど、あいつらを信じてるけど、でもなぁ……ハァ……」

 レオはごろんと転がって俯せになり、足をパタパタさせた。すぐ傍にペンが一本と五線紙が一枚置いてあるが、途中までしか書けていない。今まさに行き詰っているところだった。

「こういうときはひたすら書くか。いや、そんなのが真面な曲になるか? 外に出て気分転換? なんか面白いこと、誰かやってくんないかな〜……なんて、誰もいないんだけど」

 「よっこいしょー」と掛け声を言いながら立ち上がったレオは、出来ているところまでを口ずさんでみる。ペンを指揮棒のように振りながらリズムを取った。
 ペンで頭を掻いたとき、部屋についていた暖房が丁度レオの手を直撃した。思いのほか強い風で、一枚の五線紙が飛んで行ってしまう。レオは忌々しそうに巨大エアコンを睨み、これ以上飛んで行ってしまっては困ると、壁に備え付けられたスイッチを押して暖房を停止させた。

「えーっと、どこ行ったぁ〜? ……うーわ、椅子の後ろかよ。よりによって……」

 しゃがんで五線紙の位置を確認したレオはぶつくさと文句を言う。五線紙の辿り着いた場所は折りたためないパイプ椅子が重なってできた塔の裏側だった。狭いそこを猫のように這って進んで行き紙を掴んだ。すると後ろで扉の開く音がする。レオは自分が無許可でこの部屋を使っていたことを思い出し、(やべ。叱られるかもしれないから静かにしとくか……)と息を顰めることにした。

「……ここなら大丈夫だろう」
(──シュウ? …………この泣き声、名波か?)

 二つの足音。宗の声の他に、誰かのすすり泣くような声が聞こえたレオは、それが美雪であることが分かる。

「……落ち着いた?」
「……」
「話せそうかい? ……話したくないなら、良いけれど。……もし君の兄に関連することなら、僕は聞いておきたい」

 宗は美雪の背中を撫でて彼女の呼吸が落ち着いたのを見ると、そう語った。椅子の下、レオはひっそりと音だけを頼りに考える。

(名波の兄貴……確か、モデルの人だよな。この間の欧州のイベントに居たような……うん、確実に居たな。セナが言ってたから覚えてる)

 SS予選でレオと泉が関西地方を離れざるを得なくなった欧州のイベントに、彼の姿があった。泉が彼に反応を示していたことをレオは記憶していた。

「……なぁくんが」
「乱? ……奴に何をされたと言うんだ。まさかまた無理矢理……?」

 宗の脳内では凪砂が美雪を押し倒して唇を合わせていた悪夢のような光景がフラッシュバックしていた。あれ以上に恐ろしいことが起き、彼女が泣いたのではないかと勘繰る。

「……私を、アイドルにしようと」
「アイドル?」
「……パパとの約束を破るなって。でも、私、できないから、嫌って言ったのに、聞いてくれなくて」
「……そう。君が嫌がることをしたんだね」

 レオは密かに思う。

(……おれも名波がアイドルになるのは賛成。可愛いもん。ダンスは知らないけど、歌も上手いし。逆にこれだけの素材を持っててアイドルに成ろうとしないのが不自然なくらい、あいつはアイドルに成るために生まれてきたみたいな女の子なのに。なんでこんなに頑ななんだ? なんで隠れようとするんだ?)

 宗とは違い、兄から隠れるようにして屋敷を出ている美雪の事情を知らないレオは彼女の気持ちを受け入れる宗にやきもきする。

「君が兄に見つからないように行動していることを、乱は知らないということか」

 宗が確認すると、美雪はコクンと頷く。

「……言ってないです。……なぁくん、怒ると思ったから」
「僕だって、君の兄を名乗る男に対する怒りはあるけれどね。……氷室豊。奴は君を攫い、暗がりに監禁し、一生涯外に出ることを許さなかった。君に不自由と絶望をもたらした、最悪の男」
(──え、監禁? セナ以外にマジでするヤツいんの? ……いや、名波なら有り得るのか? 可愛すぎて閉じ込めたくなったってこと……?)

 衝撃の事実にレオは声が出ないよう自分の手で口を塞いだ。そっと息を吐き、吸い込む。なかなか酸素が行き渡らない、薄い呼吸をした。

(いま、シュウ、『一生涯』って言ったよな。ずっと外に出られないって……おれも引きこもってた時期はあるけど、どんどん気が滅入ってく感じがするんだよな。空気が悪くて、淀んで。それが一生って……待てよ? じゃあどうして、名波は此処にいるんだ? 隙をついて逃げて来たってこと? ……あ、そっか。名波の兄貴──たぶん、シュウが言ってる感じだと本当のキョウダイじゃないんだろうけど、そいつは今海外にいるんだ。だから監視の目がなくなった。その間に、名波は出てきてるのか。…………でも、それっていつまで続くんだ? 兄貴が帰ってきたら、名波はどうなる? また閉じ込められるのか? シュウも、おれも、誰も会えなくなるのか? その日は、いつ来る?)

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