27

 不確定で形の掴めない不安に、レオはじっと手元の五線紙を見下ろした。詳しい事情までは知らないレオの頭の中で最悪の妄想が繰り広げられる。美雪の兄が帰国し、美雪と語ることも触れることも、見えることも出来なくなる日は。行き詰ったこの曲が出来上がる頃だろうか、それとも遥か未来の話だろうか。あるいは、そう遠くない未来。

「……私はこれから、もうEdenには作曲しません」

 冷たく言い切った美雪に、宗は言葉に詰まった。

「……後悔しないのかい? 乱と君の間に切って切り離せない絆があるということは、聞いているだけでも理解できる。敵に塩を送るような心境ではあるが、君が後悔しないのが、僕にとっての最善だよ。……氷室、本当に後悔しない? 乱を見限って、時間が経ってから『ああしておけば良かった』と思わないと、断言できる?」

 宗は今までの人生で、取り零して後悔してきた。もっと優しくしておけば、もっと耳を傾けておけば、もっと言葉をかけていたら。彼女よりも年上で、外の世界で育ってきた人間として、彼女に問いかけた。しかし美雪は緩く首を振る。

「……さっきのことに怒って作曲しないと言っているわけではありません。どのユニットにも、作曲しません」
「? ……本当の意味で、僕たちの専属になってくれるということ?」
「……そうです」
「一体どうして?」

 宗もみかも、美雪が他のユニットに楽曲提供をしている事にやきもきする部分もあったが、美雪の経験の為にも、そして美雪自身の曲の才能を認めているからこそ、それに目を瞑ってきた。
 宗は自分たち以外に美雪の曲を存分に歌いこなせるアイドルは居ない、と誇りに思っている。そして、美雪以外に自分たちを最大に輝かせることができる曲を作れる作曲家は居ないことも理解している。

 しかし彼女の突然の決断には、宗自身も他のユニットのアイドルらを気に掛けてしまった。いくらP機関や各々の事務所内に作曲家という人材が育成されているとはいえ、いきなり見放されれば彼らは戸惑うだろう。彼女に問い詰める者もいるかもしれない、彼女の立場が悪くなることもあるかもしれない。
 純粋に喜ぶだけでは済まない宗は美雪の意図を尋ねようとした。

「……来年、お兄様が帰国します」
「──来年?」
「……つい先日新年を迎えましたから、来年は私が夢ノ咲を卒業する年。私が卒業した約半年後の九月に、お兄様はフランスでの活動を終えて日本に戻る予定です。……お兄様がパリに出発する前から、あらかじめ決まっていたことなんです。……だから、私が外に居られる時間もそこまで」

 美雪は事細かに兄の帰国時期を伝えたが、彼女が自分の傍から消える日がやってくることを告げられた宗は、タイムリミットなど気にしている余裕はなかった。

「──君は、氷室の屋敷に戻るということか?」
「……はい」
「そうしたら、どうなる。君が屋敷に戻ったら……戻っても、今までと同じように出来るのか?」
「……出来ないと思います。お兄様は私を外界から断ちたいそうなので、私はValkyrieにも、誰にも作曲できなくなります。何も出来なくなります」

 愕然とする宗の前で美雪は視線を落とす。手首を摩る彼女に表情はない。

「……そして機が熟したら、私の時間は止まる」
「時間が、止まる?」

 その表現に宗も、椅子の下のレオも疑問を抱く。人の時間が止まるというのはどういう意味なのか。舞台やドラマなどのフィクションで、時が止まったかのように台詞を言う場面はある。その間、台詞を話す人物以外は動きが止まり、思考することもない。
 動くこともなく、思考することもない人間はどんな状況だろう。

「……お兄様は美しいものがお好きで、それで、私のことも拾ったそうなんです。……あの人の声は、数年前の私にはぼやけて聞こえていたけれど、……いつもいつも、私に向かって『お前が一番美しくなったら時を止める』と仰っていました。『苦痛で歪んだ表情は美しくないから、出来るだけ痛くないようにする』とも。それがお兄様の愛で、私はそれを受け入れなければならないと。何度も何度も繰り返し、植え付けるように。……お兄様はよく、ロザリア・ロンバルドの話をしていました。誰のことなのか知らなかったけれど、外に出て本を読んで、彼女が誰なのか分かった。二歳で亡くなった、世界一美しいミイラ。父親の愛で当時のままの姿を保った、成長することも老いることもしない、永遠に変わらない少女。……お兄様は、私を永遠にしようとしているのだと、理解しました」

 ミイラの少女の事なら宗もレオも知識としてある。イタリアの礼拝堂に葬られた、たった二歳で命を落とした彼女は、哀しみに暮れた父親が医師に保存を頼み、医師の優れたエンバーミング技術によってその姿のまま永遠の眠りについた。そして今も、本当に眠っているかのよう。

(それって、死ぬってこと?)

 自分がここにいることがばれないよう息を殺し、身動きも取らないようにしていたレオは思わず振り向いた。視線の先には今確かに生きて、話をしている彼女の細い脚と、その横に立つ宗の脚。レオは、辛うじて見えた宗の手が力強く握られ、震えていることに気づく。

「……だから私は、私が動けなくなっても、永遠に意識を失っても、Valkyrieがアイドルとしてステージに立ち続けることが出来るように、この数か月Valkyrieのためだけに時間を費やしました。他のユニットにかまけている暇はないから、ほとんどの作曲依頼は断りました。……安心してください。三十年、毎月新曲を出し続けても支障がない数を作りました。足りないならもっと増やします。四十年、五十年分の曲を。まだ一年以上あるから。他のユニットに作らないなら、私の音は全部Valkyrieに注がれる。それだけの数を作れるはず」

 焦る気持ちを押し殺し、自分に言い聞かせた美雪は宗を見上げる。

「私の全部をValkyrieにあげる。私の全部、全部。貴方にあげる。だからずっと歌い続けて、踊り続けて。終焉のときまで。私が消えても、ずっと私の歌を──」
「氷室。すまない、黙ってくれないか」
「……?」

 宗が言葉を遮った。彼の眉間には皺が寄り、美雪は舞台での斎宮宗を思い出して口を噤んだ。
 宗はやっと彼女の声が聞こえなくなった、と深く息をついた。いつもなら彼女の声が聴こえれば歓喜に震えたというのに、今の彼女の言葉は、宗を追い詰めていくものだった。彼は痛む額を押さえる。長考した後、やがて首を振った。

「良いかい、氷室。僕は今から君に酷いことを言うよ。……僕は君が居なくなったら、君の歌は使わない。君が残して逝った曲の全てを放棄する」
「──ぇ?」

 今度は美雪が愕然とする番だった。衝撃に目を見開いていく彼女を見れば、自分が優しい言葉をかけてしまうと宗は理解している。けれど宗は彼女に目を真っ直ぐに見つめて、口を挟む暇も与えずに話し続けた。

「君は今まで何をしてきた? 去年、僕と影片と、他のユニットの連中と。曲を作るためにアイドルと対話を重ねていただろう。ライブの度にアイドルの声を聞き、何がそのときに必要な音なのかを見極めていた。アイドルの要望に応え、曲を授けていた。そんな君が……再び兄の手中に戻る前に、僕たちが一生アイドルとしてやっていくだけの曲を与える、だって? 君が居なくなって曲を作れなくなってからも、Valkyrieが名波哥夏の曲を歌い続けるために? ……そんな寄せ集めの楽曲を? ああ、君は天才だからね、きっと俗物は誤魔化せるだろう。──だけどね、僕と影片は騙せないよ。君が作った曲が僕たちの理想から遠ざかっていくことを僕たちは察知する。すると、どうなると思う? ……『Valkyrieは名波哥夏の曲を使わなくなる』のだよ。わかるかい? 君の愛しいValkyrieが君を見限るんだ。在り来たりなものはValkyrieには要らない。変化しないものは、常に進化し続けるValkyrieに不要だ。Valkyrieを、僕らを無視して我が侭に、一方的な曲を押し付けることは許さない。僕は怒っているんだ。こんなにも愛を伝えてきた子に早すぎる別れを告げられて、命を落とすと言われて……君にはまだ分からない? 僕と影片が、乱が、月永が、皆が君を愛していること。僕らの思いは、僕の思いは、何一つ伝わっていなかったというのか? ……ああ、苦しいよ、悲しいよ、氷室。今すぐ僕たちに残すと言っていた曲を持ってきてくれ。何曲あるのかな、百曲? 二百曲? 三十年間、毎月新曲を出しても問題ない量だと言うのなら、それ以上かな。──それを全てこの場で燃やしてやる。会ったばかりのとき、君は言っていたものね? 『今まで送った曲は必要ないなら破り捨てて、暖炉の火の足しにして構わない』と。……お望みならそうしてあげるよ。氷室、君がいま僕たちのために、僕たちを無視して作っている曲は、ただの君の自己満足なんだよ。……君が死んだら、君が恐れていたことが起こる。Valkyrieは君の曲ではなく他の作曲家の曲を歌うことになる。月永にでも任せようか。月永ならValkyrieの曲だって書けるだろう。個展のとき君に怒られてしまったけど、君が居なくなるなら『死人に口無し』だ。──それでも良いんだね。僕はもう、君の曲を歌わないよ」

 彼女を傷つける言葉しか発せられない口を、宗は塞ぎたくて仕方がなかった。けれど伝えなければならなかった。包み隠さず告げなければ、彼女がこのまま変わらず、いずれ歪んだ結末を迎えることになる。彼女に嫌われることよりも彼女に消えられることの方が宗には堪える。

「な、なんで……?」
「聞いていなかったのか? 理由は言ったとおり、そのままだよ」
「どうして」
「よく聴こえなかったというのなら最初から話してあげようか。君はそんな残酷なことを僕にさせると言うんだね」
「……嘘でも、冗談でもない、と?」
「そうだ。ほら、楽譜を寄越しなさい。目の前で火をつけてあげるから」

 みかに厳しい言葉を掛けるくらいなら自分に向けて欲しい、そう思っていた美雪だったが、舞台上の彼に罵倒されることを望んでいた美雪だったが。いざこの局面に立つと後退り、逃げ出してしまいたくなるくらいだった。
 美雪は自らの体を抱きしめ、絞り出すように言う。

「わ、私から貴方を奪わないで──」
「なら僕から君を奪うな‼」

 宗の怒声が耳を貫き、美雪は肩を震わせた。その拍子に目から涙が溢れ、美雪はそのまま床に膝をつき、宗の前に跪いた。
今回は確実に、自分のせいで彼女が泣いている。自分が泣かせた。宗は再びぐっと拳を握り、彼女に目線を合わせるために屈んだ。

「他の作曲家に盗られるのは嫌?」
「いやっ……」
「そう。僕も君が居なくなるのは嫌だよ」
「……でも、わ、私は」
「我が侭だね、僕と影片が甘やかし過ぎた結果かな。君はいつも健気だから問題ないと思っていたけど……それじゃあ、僕は今後Valkyrieの作曲を月永に依頼するよ。それで良いってことだものね?」
「違う! 違う、違う……!」

 宗が立ち上がろうとすると、美雪は彼のジャケットを掴んで必死に引き留めた。宗は彼女の手を握ると自分の手で包む。

「──良くないなら、生きてくれ。この世で、呼吸を止めないでくれ。僕の前から居なくならないで。どうか、どうか……僕から君を、奪わないで、頼む。頼むよ、お願いだ……頼む。君の居ない世界なんて考えられなんだよ。君が居なくなったら、僕は……影片と心中して、君を追いかけるかもしれないね。……僕たちに死んで欲しくない? なら生きてよ。僕に老いぼれになるまでステージに立つことを強要するなら、君もそれに応えなくてはならない。僕と共に、一生、老婆になるまで、寄り添って生きて。僕はとうの昔にその心構えくらい出来ていたよ。美雪、僕と生きてくれ。僕には君が必要だ。僕は君を愛している。この世界の何よりも尊い、煌めきに満ちた愛で」

 レオは二人が抱き合う姿を暗がりから眺めて視線を落とした。手に収まった楽譜を握り、明るい方を目指して這う。

「抗おう。そんなものは君の運命じゃない。一人じゃない、僕がいるから」
「『墓地は必要不可欠な人間でいっぱい』!」
「──⁉ つ、月永⁉」

 勢いよく椅子の下から現れ、二人の足元にスライドするようにして飛び出してきたレオに面食らった宗は咄嗟に美雪を庇った。頬に涙を残した彼女はこの部屋にレオがいたことに気づいておらず、目をぱちくりさせている。

「おれもシャルル・ド・ゴールに賛成! 耳が聞こえなくなるくらいなら何とかなるけど、芸術家が若くして命を落とすのは世界の損失! ラ・レジスタ〜ンス‼」
「い、いつから此処に居たのだよ! まさか……今までの話を聞いて……?」
「別に隠れてたわけじゃないし、お前らがおれに気づかなかっただけ〜。お前、耳遠くなったんじゃねーの? ま、それどころじゃない感じだったから仕方ないと思うけどさ」

 美雪を指さしたレオは肩を竦めて「よいしょっと」と立ち上がる。

「おい、名波。クソ兄貴のせいでお前が死んだら葬式なんてそもそも無いんだろ? だから作っても意味なんて無いんだろうけど、おれはお前の葬式用に鎮魂歌を作ってやる」
「……?」
「でもそれが使われるのは、おれが死んで、お前が死んでからだ。そういう風に遺言書に書くから。おれより先に死んだらお前の葬式は無音でーす。お坊さんのポクポクチーンだけ! あーあ、殺風景で可哀想! 流石にそれはどーよ、って思うならおれより先に死ぬなよ。お前の方が年下なんだからさ」

 美雪は小さく口を開けて首を傾げ、彼が何を言いたいのか思考する。

「……? よく、分かりません」
「だぁから! 生き延びて葬式やるぞって言ってんの!」
「支離滅裂なのだよ」
「人はいつか死ぬ! 一昨日も昨日も今日も明日も明後日も誰かの誕生日で誰かの命日! でもお前の場合は一年半後じゃない! 言ってる意味ワカリマスカ⁉」

 レオは何故か日本に来たばかりの外国人のようにカタコトで尋ねた。美雪はレオが現れたことで沈んでいた空気が明るくなったように感じ、相変わらず彼の言うことは矛盾だらけで頓珍漢だと思う。

「……一年半ではなく一年と九か月です。それから、一年九か月後に私が死ぬとは言えません、私の命日を決めるのはお兄様なので」
「いちいち細かいなぁ、もう! っていうか! 兄貴っていうのは妹を守るものですっ、妹を殺す兄貴がどこに居るんだよ! そいつはお前の兄貴じゃない! 血も繋がってないんだろうし、そんなヤツに従わなくて良い! お前は死ねって言われたら死ぬのかよ‼ 殺されるのをお利口に待ってるって、そんなの家畜と一緒だ。やーい家畜ぅ〜」
「……誰が家畜ですか。私を家畜呼ばわりして良いのは宗様だけです」
「僕はそんなこと言った覚えないけれど⁉」

 宗は「ああもう、纏まらないねぇ!」と頭をがしがし掻いた。美雪はびしっと挙手をしたレオを見つめる。

「というわけでおれに作戦があります」
「は?」
「名付けて『クソ兄貴をぎゃふんと言わせよう大作戦』」
「ネーミングセンスが天祥院並みだね」
「取り敢えず名波は四大事務所のどれかに所属しろ。作曲家じゃなくてアイドルとして」

 アイドルと成りメディアに露出するようになれば、一年九か月も待たずに兄に連れ戻される。美雪はそれを恐れて凪砂に言われようともアイドルになることを拒否し続けていた。レオに『アイドルとして』と言われた美雪は眉間に皺を寄せる。

「……私はアイドルには」
「良いから。何処にする? ニューディでも良いけど」
「いや、入るならコズプロにしたまえ。僕が居る」
「お前は大概フランスだろうが」
「君だってイタリアだろう」
「おれはシュウよりこっちに来る回数多いですぅ〜」

 レオは顎を突き出して子どものように宗をからかった。挑発に乗った宗が身を乗り出そうとすると美雪が呟く。

「……そもそも、私がアイドルになれば猶予すら無くなります」
「分かってる分かってる。顔出ししないから」
「……? それは、アイドルなんですか?」
「色んなアイドルが居ていいんじゃね? よくわかんないけど、最近はバーチャルでアイドルに会える技術が出来たとか聞いたし。で? 事務所はどうすんだよ」
「…………分かりました。一先ず、決めましょう」

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